カスティーリャ王(在位1035~65)。11世紀前半にキリスト教スペイン諸国をほぼ統一支配したナバラ王サンチョ3世の次男。母方の叔父であるカスティーリャ伯ガルシア2世が暗殺された結果、母を介してカスティーリャを継承し、父の死後その初代の王となった。まもなく領土紛争からタマロンの戦い(1037)で西のレオン王を破り、かつての宗主国レオンを併合して皇帝を称した。この後10年余りは国内の司法や行政などの改革に費やしたが、やがてふたたび領土問題から今度は兄である東のナバラ王ガルシア4世と争い、これをアタプエルカAtapuercaの戦い(1054)で討った。内外ともに威信を高めた彼は、次の矛先を後(こう)ウマイヤ朝の崩壊(1031)によって分裂と内戦に陥っていたアル・アンダルスに向け、ポルトガル中部のコインブラその他の町を占領した。晩年、当時の封建思想に従って領土を3人の息子に分割相続させたために、レオンとカスティーリャは彼の死後ふたたび二国に分かれた。
[小林一宏]
通称カトリック王el Católico。カスティーリャ王(在位1474~1504)。アラゴン王としては2世(在位1479~1516)。アラゴン王フアン2世の子。1469年カスティーリャ王エンリケ4世の妹イサベルと結婚。1474年エンリケ没後、女王となったイサベル(1世)とカスティーリャを共同統治し、王権強化を図った。1479年父王の死によりアラゴン王となり、スペインの統一を完成。しかし両王国間には関税関所があり、それぞれ独自の制度、通貨を維持していたため、統一は単に王冠の合併にしかすぎなかった。カスティーリャの内政はおおむねイサベルにゆだね、外交とアラゴンの内政を主として担当した。アラゴンの内政においては、第一に、長く争われてきたカタルーニャの農奴と領主との農民戦争(レメンサ農民解放戦争)に終止符を打ち、農業問題にいちおうの決着をつけた。第二に、バルセロナ都市内部の階級闘争に決着をつけた。これらによって平和が回復し、長く低迷していたカタルーニャ経済復活への状況が整った。政治面では、伝統的な地方諸特権を再確認し、議会の意向を尊重する立憲君主的政治体制をとった。この点、絶対王政への傾向を強めたカスティーリャと対照的である。
彼の外交の基本は、中世以来のアラゴンの伝統的な地中海政策を推進し、地中海水域においてアラゴンの覇権を確立し、フランスを封じ込めることであった。このためイギリス、ドイツ、ポルトガルなどの王家と婚姻関係を結ぶ一方、各地に大使を常駐させ、反仏同盟を結成し、フランスを外交的に孤立させた。しかし必要なときには、外交より軍事を優先させた。グラナダ戦役で鍛えられたカスティーリャの歩兵を強化、再編成し、ヨーロッパ最強の軍隊に仕立て上げることによって、戦場でもフランスを打ち破った。巧みな外交と優勢な軍事力がもたらした具体的成果は、1493年に戦わずしてルシヨン、セルダーニャを、1504年にはナポリ王国をアラゴン王国に取り戻し、1512年ナバラ王国をカスティーリャ王国に併合したことである。彼は、優れた政治手腕により、ヨーロッパにおけるスペイン優位の基盤を固めた。
[芝 修身]
スペイン国王(在位1808、1814~33)。カルロス4世の子。父王の成り上がり寵臣(ちょうしん)ゴドイを憎む諸階層を結集して、フェルナンド派を結成した。1808年のアランフエスの暴動により、ゴドイは失脚し、王も退位した結果、フェルナンドが民衆の期待を担って王位についた。しかし、すぐにバイヨンヌの会議でナポレオン1世に退位させられ、フランスに幽閉された。14年スペインが対ナポレオンの独立戦争に勝利を収めるとスペインに戻り、民主的内容をもつスペイン最初の憲法たる「1812年憲法」を尊重することを条件に復位した。しかし、帰国後、国内の複雑な政治情勢をみると、憲法を廃止し絶対王政へ復帰した。自由主義者を弾圧し反動政治を行ったため、有能な政治的人材を失った。政治が陰謀と無用の議論に終始している間に、アメリカの植民地は漸次独立し、対仏独立戦争によって疲弊した経済を再建できなかった。
[芝 修身]
アラゴン王(在位1412~16)。アラゴン王ペドロ4世の娘エレオノーレとカスティーリャ王フアン1世との第2子。甥(おい)のカスティーリャのフアン2世の幼少の間、その摂政(せっしょう)として、フアン2世の王位を奪う提案を退け、アンケーラにある難攻不落のグラナダの城砦(じょうさい)を攻略して勝利を収めた(1410)が、その後財政的に窮乏したカスティーリャ王室を去った。しかし、カスティーリャ、アラゴン両王家はともにトラスタマラ王朝によって占められ、キリスト教王国によるイベリア統一の実現に強力な基盤となった。1410年バルセロナ公家の血を引くアラゴンのマルティン1世が死去。子女がなかったために、王位継承者選定の代表者会議がカスペ(サラゴサ県南西部の町)で開かれ(1412)、この席上でフェルナンドがアラゴン王に指名された。
[飯塚一郎]
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…14世紀初頭ディニス王治世下に最盛期を迎えた。 ブルゴーニュ朝はカスティリャではペドロ1世の暗殺死(1369)によって,ポルトガルでは男子後継者のいなかったフェルナンド1世の死(1383)によって,それぞれ断絶した。【小林 一宏】【金七 紀男】。…
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[アビス朝の成立と大航海時代]
1348年に始まる黒死病(ペスト)はポルトガルの人口を3分の1以上も減少させ,深刻な社会的・経済的危機を引き起こした。さらに,69年から国王フェルナンドは隣国カスティリャの王位継承戦争に介入したが,敗北を喫して唯一の王位継承者ベアトリス王女をカスティリャ王フアン1世に嫁がせる破目に陥り,王朝の断絶という政治的危機に見舞われた。83年国王の死後,国内は親カスティリャ派の大貴族と,独立を守ろうとする中小貴族,ブルジョアジー勢力に二分されたが,海港都市としてスペインのセビリャに対抗するリスボンの商人層の主導の下に,85年4月開催されたコルテスはアビス騎士団長ドン・ジョアンを国王に選定した。…
…在位1479‐1516年。1469年カスティリャのイサベル1世と結婚,妻の即位(1474)後は法的にも実質的にもカスティリャ王となったためにフェルナンド5世とも呼ばれ,さらにグラナダ王国征服の功績をたたえてローマ教皇庁から授与された〈カトリック王〉の名でも知られる(カトリック両王)。 内憂外患の中で終始苦境にあった父フアン2世を助けて早くから政治に関与したフェルナンドは,アラゴン連合王国が13世紀末以来地中海地域にもつ多様な権益をめぐってフランスと鋭く対立,娘たちの結婚によって反仏同盟を結成して,後の2世紀間にわたるスペイン,フランス抗争の発端をつくった。…
※「フェルナンド」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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