改訂新版 世界大百科事典 「スラプスティック」の意味・わかりやすい解説
スラプスティック
slapstick
slap(ぴしゃりとたたく)とstick(棒きれ)の合成語で,激しくそうぞうしい動き,誇張された演技,そのほか茶番めいた場面やせりふが特徴の〈どたばた喜劇〉のこと。もともとはイタリアのコメディア・デラルテ(即興仮面喜劇)に由来するものともいわれ,パントマイム(無言劇),バーレスク(道化芝居),ボードビル(寄席演芸),あるいはミュージック・ホール(軽演芸場)の道化役が相手役をたたくのに用いた竹の棒,または,しなやかな2枚の板を合わせた棒のことであった。サイレント映画時代のどたばた喜劇は,最初〈ノックアバウト・コメディknockabout comedy〉とよばれていたが,やがて〈スラプスティック〉または〈スラプスティック・コメディ〉ということばがアメリカでつかわれはじめた。
〈実写〉と〈追っかけchase〉から出発したアメリカ映画は,1910年ころから急速に発達,西部劇,連続活劇と並んでスラプスティックの隆盛がとくに注目される。スラプスティックは,初期の〈追っかけもの〉の正統な後継者であり,のちに黄金時代を築いたチャップリン,ロイド,キートンなどの喜劇の正統な祖先でもあるというのが映画史的な評価になっている。それは,厳密にいえばコメディというよりもむしろバーレスク,もしくはファース(笑劇)とよぶべきものであったが,その代表的なものは,マック・セネットがキーストン社(1912設立)で製作した〈キーストン・コメディ〉とよばれるスラプスティックである。セネットは自伝《キング・オブ・コメディ》(1954)のなかで,スラプスティックを発明したのはフランス人であり,なかでもマックス・ランデルを中心にしたパテー社の喜劇から自分は最初のアイデアを盗んだのだと述べ,また,誇張したどたばた的所作,たとえば〈コマ落し〉や逆回転のような映画だけに可能な技術やトリックはD.W.グリフィスから学びとったという。まえからの伏線や背景,ゆきがかりや論理の継続のないアクションそのものの笑いであり,アメリカの批評家ギルバート・セルデスは,この一種の〈狂気の世界〉に〈あらゆる気違いじみたシチュエーション,荒々しいでたらめな動作,わずかな刺激にたいする爆発的な怒り,時と場所とのすべての法則を破り,物理的世界を全体的に否定してしまうことになる狂った追っかけ〉を見いだし,また,ベケットやイヨネスコの〈不条理劇〉の原点をそこに見る現代の批評家たちもいる。
奇想天外であったとはいえ,なによりもまずすばやい〈動き〉と間髪を入れぬ〈タイミング〉を真髄としてセネットが原型をつくったスラプスティックは,サイレント映画が古い芸術と手を切って新しい〈視覚芸術〉として完成される基礎となり,20年代にチャップリン,ロイド,キートンなどがすぐれた〈スクリーン・コメディ〉をつくる道をひらいてアメリカ映画史に大きな足跡を残した。トーキーの時代を迎え,〈動き〉による視覚的なギャグが〈ことば〉によるギャグにとって代わられて全盛期は過ぎたが,その精神だけは生き残り,《ナック》(1965)のリチャード・レスターや《ピンク・パンサー》シリーズ(1963-78)のブレーク・エドワーズや《おかしなおかしな大追跡》(1972)のピーター・ボグダノビッチや《1941》(1979)のスティーブン・スピルバーグらに至るまで絶えずその再現が試みられているものの,成功した例はほとんどない。
執筆者:柏倉 昌美
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報