改訂新版 世界大百科事典 「連続活劇」の意味・わかりやすい解説
連続活劇 (れんぞくかつげき)
serial
波乱万丈の冒険活劇や探偵活劇などが,数週間あるいは数ヵ月にわたって観客の期待をつなぎながら,週替りで分割上映されるようにつくられた一種の長編映画の形態を指していう。連続映画とも呼ばれ,題材から分類すると,探偵活劇,国際スパイ活劇,王国奇談,西部活劇,復讐活劇,鉄道活劇,ターザン映画,スピード・レースもの,拳闘もの,海洋活劇,競馬もの,オートバイ映画,学園スポーツもの等々の活劇が主で,そのほかにロマンスものやサーカスものもあった。
連続活劇の誕生と隆盛
アメリカでは20世紀初めの数年間,〈ニッケルオデオン〉と呼ばれた低料金の大衆的な映画館と一流映画館が共存し,大衆的な映画館では1本の大作映画を週ごとに分割して上映する習慣のあったことが,〈連続映画〉の誕生に一つの役割を果たしたともいわれている。登場人物は共通しているが,物語はかならずしも連続していないこのシリーズものは,1908年ころからアメリカのエッサネー社の《ブロンコ・ビリー》シリーズをはじめフランスやドイツでもつくられていたが,いわゆる連続映画あるいは連続活劇として人気をよんだ作品は,フランスで流行した大衆的な探偵小説シリーズによったビクトラン・ジャッセVictorin Jasset(1862-1913)監督の《ニック・カーター》(1908),《ジゴマ》(1911)やルイ・フイヤード監督の《ファントマ》(1913)などで,なかでも〈小市民的ロマン主義〉を反映しているといわれた《ファントマ》の成功は,ヨーロッパの各国をはじめとくにアメリカに決定的な影響をあたえた。
1913年以後,連続活劇はアメリカで急速に発達する。アメリカの連続活劇は新聞小説と結びつき,日刊新聞に支援されたことにその特色があり,新聞は週末にはその映画化が見られる小説を競って掲載する。《シカゴ・トリビューン》はハースト系の《シカゴ・アメリカン》を圧倒するため,1909年にハリウッドで最初の撮影所をつくったウィリアム・セーリグと手を結び,〈恐れを知らない娘〉カスリーン・ウィリアムズ主演で15のエピソードからなるアメリカ最初の連続活劇《カスリーンの冒険》(1913)を製作,14年1月から5月まで13編に分割上映し,一方,《シカゴ・アメリカン》はパテー社と結び,パール・ホワイトPearl White(1889-1938)主演,ルイ・ガスニエLouis Gasnier(1878-1963)監督の20のエピソードからなる冒険メロドラマ《ポーリンの危難The Perils of Pauline》(1914)を4月から12月にわたって公開して対抗した。この《ポーリンの危難》の驚異的な成功により,年6本の連続活劇の製作を計画したパテー社は,つづいてホワイト主演の《拳骨(エレーヌの勲功)》(1915)をヒットさせ,各社は競って連続活劇をつくることとなった。とくに女優の活躍がめざましく,1914-16年に輩出したヒロインだけでも,《名金》《獣魂》《紫の覆面》のグレース・キュナード,〈鉄道活劇の女王〉といわれたヘレン・ホルムス,《マスター・キー》のエラ・ホール,《赤輪(レッド・サークル)》のルース・ローランド,《黒箱》のアンナ・リットル,《護る影》のグレース・ダーモンドなどがいる。なかでも《拳骨》につづいて《鉄の爪》(1916),《運命の指環》(1917),《家の呪》(1918),《闇黒の秘密》(1919)などでヒロインを演じたパール・ホワイトは,〈連続活劇の女王Serial Queen〉と呼ばれて人気を博した。また,もっとも長い連続活劇は,ヘレン・ホルムスが主役でスタートしたカレム社の鉄道活劇《ヘレンの危難The Hazards of Helen》で,119のエピソードからなり,14年11月から17年2月まで上映された。
フランスで生まれ,アメリカで育った連続活劇は,たちまち世界の人気を集めた。フランスでは《ファントマ》に次いでフイヤードが,12のエピソードからなる《ジュデックス》(1916)を,ドイツではオットー・リッペルトがジャッセの《ニック・カーター》シリーズを模倣した《ホムンクルス》(1916),イタリアではエミリオ・ギオーネが《ザ・ラ・モール》(1914-25)をつくった。しかし,主として独立したエピソードからなっているヨーロッパの探偵ものなどに対して,アメリカの連続ものは観客の期待を続編につなぐため危機を強調する場面で1編を終えるスリルとサスペンスに富んだ完全な〈活劇〉のかたちをとり,20年ころには年間20~30本の作品がつくられてヨーロッパの市場を圧倒した。
トーキーを経て戦後の衰退へ
トーキーになって,こうした連続活劇の製作本数は減少したものの人気は衰えず,トーキー最初の連続活劇であるユニバーサル社の《スコットランド・ヤードのエースThe Ace of Scotland Yard》(1929)がつくられ,コロムビア,マスコット,リパブリック各社の作品がこれにつづいた。1930年代および40年代の連続活劇は,台詞が少なくアクション中心の,もっぱら〈土曜のマチネーの子どもたち〉を対象にしたもので,人物や趣向の多くは新聞連載の劇画や漫画雑誌からの借りものであった。もっとも人気を集めたトーキー連続活劇は,バスター・クラブBuster Crabbe(1907-83)扮するフラッシュ・ゴードンを主人公とした宇宙冒険ファンタジー《超人対火星人Flash Gordon》(1936)で,ふつうの連続活劇の約3倍にあたる35万ドルというもっとも費用をかけた作品であり,その後も38年と40年に2本の続編がつくられた。第2次世界大戦とともに,イメージの上で反日的な性格を持った《フーマンチューの太鼓Drums of Fumanchu》(1940)とか反ナチ的な《密林の女王Jungle Queen》(1941)などがつくられ,戦後は《スーパーマンSuperman》(1948)や《バットマンBatman and Robin》(1950)などがつくられたが,しだいに質が低下して粗悪化の一途をたどり,50年代半ばにはすたれて番組の穴埋めに使われるようになり,やがてこのジャンルはテレビに移行,本来の連続活劇はコロムビアの《ブレージング・ゼ・オーバーランド・トレイルBlazing the Overland Trail》(1956)が最後のものになった。
→アクション映画
執筆者:柏倉 昌美
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報