アイルランドの劇作家、小説家。ダブリン生まれ。トリニティ・カレッジ卒業後、パリの高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリュール)講師となり(1928~1930)、このときジョイスを親しく知る。最初の単行本はデカルトを主人公にした独白体の詩『ホロスコープ』(1930)。母校の講師として帰国、『プルースト論』(1931)を出版するが、1932年旅先から辞表を送って、ロンドンやドイツ各地を放浪する。連作短編小説集『蹴(け)り損の棘(とげ)もうけ』(1934)、長編小説『マーフィ』(1938)はイギリス文壇に認められず、1938年以後はパリに定住。ドイツ軍占領下のパリでレジスタンスに参加、またジョイス一家の出国を助ける。1942年、ゲシュタポの手を逃れて、妻とともに南フランスに隠れ、農村で小説『ワット』(出版は1953年)を書き続ける。
第二次世界大戦後、赤十字に志願して病院で働く。パリに戻ってフランス語で書き始め、長編小説三部作『モロイ』(1951)、『マロウンは死ぬ』(1951)、『名づけえぬもの』(1953)を完成。自我、心身、言語、物語の問題を極限まで追求したこの記念碑的作品執筆の合間に、いわば「息抜き」として戯曲『ゴドーを待ちながら』(1952)を書き、その上演で一躍有名になる。以後、全編句読点のない長編小説『事の次第』(1961)のほかは、小説とよべる作品はなく、ごく短い断片的散文が間歇(かんけつ)的に発表されるのみである。
劇作品としては、車椅子(くるまいす)の盲人を主人公として終末論的主題を展開した『勝負の終り』(1957)、テープレコーダーを小道具に使った一人芝居『クラップの最後のテープ』(1958)、土中に埋もれた女主人公のおしゃべりで成り立つ『しあわせな日々』(1961)、骨壺(こつつぼ)から首を出した男女2人による『芝居』(ドイツ初演1963年)など。テレビドラマ『ねえジョウ』(1966)や、ラジオドラマ『言葉と音楽』(1962)、映画台本『フィルム』(1964年にキートン主演で映画化)もある。
1969年ノーベル文学賞受賞。一作ごとに前人未踏の形式を創造し、現代人の孤独な意識のありようを、残酷さと憐憫(れんびん)、笑いと絶望の混じった視線で見つめてきたこの作家は、晴れがましい授賞式には出席しなかった。その後も、伝説的な社交嫌いの壁によって身を守り、眼病に耐えながら、極小のうちに極大を、単純さのなかに複雑さをたたえた作品を発表し続け、20世紀のもっとも重要な作家の一人と目されている。とくに戯曲においては、暗闇(くらやみ)のなかで唇だけがライトを浴びて独白する『わたしじゃない』(1972)、無言の老人に彼自身の過去を語る三つの声が襲いかかる『あのとき』(1976)、瓜(うり)二つの2人の老人が演じる『オハイオ即興劇』(1981)、弾圧されたチェコスロバキアの作家のために書かれた『カタストロフィ』(1982)などの上演は、そのたびに話題をよび、史上まれな高齢の現役作家ぶりを示した。英語とフランス語の両方で創作し、自作を翻訳するという点でも、特異な作家である。
[高橋康也]
『安堂信也・高橋康也訳『ベケット戯曲全集』全2巻(1967・白水社)』▽『安堂信也訳『モロイ』(1969・白水社)』▽『川口喬一訳『マーフィー』(1971・白水社)』▽『川口喬一訳『蹴り損の棘もうけ』(1972・白水社)』▽『高橋康也訳『ワット』(1972・白水社)』
イギリスのカンタベリー大司教(1162~1170)。ロンドン商人の子。カンタベリー大司教シアボールドTheobald(1090ころ―1161)に仕え、のちヘンリー2世に仕えて、信任厚く、1155年大法官となる。シアボールドの死後、ヘンリー2世の教会裁判権規制政策の実現を期待されて大司教に叙任されたが、王が1164年のクラレンドン法によって教会裁判権を規制しようとしたのに反対し、同年王への上納金を拒否して王と対立、フランスに亡命。1170年に和解して帰国したが、王に協力した聖職者を破門してふたたび王を怒らせた。同年末王側近の4人のナイトによってカンタベリー大聖堂内で殺害された。1173年聖者とされ、彼の墓には巡礼者が絶えなかった。チョーサー作『カンタベリー物語』は、その巡礼を題材にしたものである。
[富沢霊岸 2017年12月12日]
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アイルランド出身のフランスの小説家,劇作家。ダブリン近郊のプロテスタントの家庭に生まれ,トリニティ・カレッジに進んでフランスおよびイタリア文学を専攻した。1928年交換講師としてパリのエコール・ノルマル・シュペリウールで英語を教え,フランスの文壇と接し,また特にJ.ジョイスと知り合いその影響を受ける。30年母校に帰り哲学とフランス文学を講じるが,32年には教職を辞し,ヨーロッパ各地を遍歴する。この間,《プルースト論》(1931)や短編集,詩集を発表するがまったく認められない。37年パリのモンパルナスに居を定める。38年最初の長編小説《マーフィー》がロンドンで出版されるが,これも一部識者に知られたにすぎない。大戦中は抵抗運動に加わり難をのがれて南仏に住み《ワット》(1953)を書く。戦後パリに戻って文筆活動に専念し,フランス語による《モロイ》(1951),《マロウンは死ぬ》(1951),《名付けえぬもの》(1953)の小説三部作や戯曲《ゴドーを待ちながら》(1952)などの代表作を一挙に発表して注目を集める。特に《ゴドーを待ちながら》の初演(1953)はフランス劇界の時代を画したばかりでなく,国際的な成功を博し,小説の真価も徐々に認められる。以後,小説《事の次第》(1961),戯曲《勝負の終り》(1957),《しあわせな日々(美(うる)わしの日々)》(1963)などの傑作のほかラジオ・ドラマ,シナリオ,テレビ台本,散文詩なども著し,69年にはノーベル文学賞を受けた。既成の形式を打破したこれらの作品に描き出されるのは,近代的自我の喪失とそれに伴う論理や価値の体系の崩壊で,その結果理解不能な雑多と化した世界の中で,なお無意味な言葉をしゃべり続ける人間の意識の悲劇的なあり方であるといえよう。
執筆者:安堂 信也
イギリスのカンタベリー大司教。両親はノルマン人で父はロンドンの商人であった。カンタベリー大司教セオボールドに仕え,1154年首席助祭に登用された。翌年大司教の推薦でヘンリー2世の尚書部長官に任ぜられた。尚書部が政府の中枢機関となるのはベケットの力量に負う。セオボールドの死後,王の推薦で62年大司教に叙階された。しかし王の期待に反して,彼は大司教に就位すると直ちに尚書部長官を辞任し,教皇の指導する〈教会の自由〉の闘士に急変した。教会の独立は王と厳しい対立を引き起こし,ベケットは64年フランスに亡命を余儀なくされた。6年間の亡命の後,民衆の熱狂的な歓迎を受けて大司教座に帰った。しかし彼は親国王派の司教たちを破門したため,激怒した王は殺意をもらし,4人の騎士は70年12月29日ベケットをカンタベリー大司教座で殺害した。反響は全ヨーロッパに及び,教皇は彼を列聖した。カンタベリーは以後巡礼の地となった。ベケットの殺害はのちにT.S.エリオットによって《寺院の殺人》(1935)として劇化された。
執筆者:佐藤 伊久男
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「トマス・ベケット」のページをご覧ください。
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1118頃~70
カンタベリ大司教。イングランド王ヘンリ2世の信任厚く,大法官(1155年),大司教となったが(62年),教会に対して刑事裁判権を拡張しようとした国王と争い,1170年王の家臣にカンタベリ大聖堂内で暗殺された。73年聖人に列せられ,その廟はそれ以後聖地として多くの巡礼をよんだ。
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…イギリスの詩人,劇作家T.S.エリオットが1935年カンタベリー大聖堂での上演のために委嘱されて書いた劇。1170年,国王との対立からこの大聖堂で殺された大司教トマス・ベケットの殉教を主題としている。ギリシア劇風なコーラス,中世劇風な詩形,幕切れで刺客たちが観客に語りかける政治演説のブレヒト的な異化効果など,新しい手法を駆使しながら,宗教的主題を現代商業演劇にも通用するように巧みに劇化している。…
…価値感の変化や秩序の崩壊もその一因だが,パトス(激情)やカタルシスなどがそのままの形では存在しにくくなってきたことにもよるのであろう。悲劇,喜劇というジャンル分け自体が無意味になり,S.ベケットの不条理劇のような絶望的な表現が,道化的な手段を使って行われる。しかし一応の独立したジャンルとしては,現代でもなお喜劇が悲劇よりは成立しやすいのは,喜劇のほうが批判的,主知的な姿勢が強いからであろう。…
…23年の《滑稽恋愛三代記(キートンの恋愛三代記)》から29年の《キートンの結婚狂》に至る12本の〈フィーチャー(長編)〉を生み出した1920年代がキートンの黄金時代で,トーキー以後は1本のヒット作もなく,各国を転々とし,戦後はビリー・ワイルダー監督《サンセット大通り》(1950)やチャップリン監督・主演《ライムライト》(1952)で落ちぶれた映画俳優や芸人の役で特別出演したり,各地の劇場でボードビルを演じたりした。66年に70歳で死去する直前,カナダのアニメーション作家ジェラルド・ポタートンが,キートン・ギャグを集大成してみせた短編《キートンの線路工夫》(1965),サミュエル・ベケットがキートンのために脚本を書いたアラン・シュナイダー監督の短編《フィルム》(1965),およびリチャード・レスター監督がキートンへのオマージュとしてつくった《ローマで起った奇妙な出来事》(1966)で,突如,鮮やかな〈キートン復活〉を見せた。 キートン喜劇は,〈サイト(視覚的)ギャグ〉と〈追っかけ〉を二大要素とするスラプスティックスの頂点にありながら,いわゆるどたばたに堕さず,その喜怒哀楽をいっさい顔に出さない美しい端正な〈無表情〉(英語では〈デッドパン・マスクdeadpan mask〉とか〈ストーン・フェイスstone face〉などと呼ばれる)と,ただひたすら走るという単純なアクションによって抱腹絶倒の笑いを生み出すところに偉大な特質があった。…
…イギリス風の中流家庭でのイギリス風の夫婦の会話に始まるこの劇では,言語は日常性の意味を離れて核分裂し,それを語る人間のアイデンティティさえも崩壊させてしまう。このようなイヨネスコの劇が,最初ほとんど観客に受け入れられなかったのに対し,アイルランド生れのS.ベケットの《ゴドーを待ちながらEn attendant Godot》(1953)は対照的にパリだけでも300回以上の上演を重ね,世界各国でも上演されるなど,現代演劇でもっとも強い影響力をもつ作品となった。枯木が一本だけしかないという空虚な世界に,ゴドーという人物をただ待っている2人の主人公ウラディミールとエストラゴンの姿は,人間の状況の極限を表したもので,この無限の空虚の中に投げ出された人間は,地獄のような孤独から逃れるためにただひたすらしゃべり続けなければならない。…
…道化の古来の武器の一つであった身体言語が,新しいメディアによってめざましくよみがえったのである。第2次大戦後,S.ベケットが《ゴドーを待ちながら》(1953)において,浮浪者風な2人組の道化が空しく待ち人を待ちつづけるという悲劇的道化芝居をつくった。現代人の肖像としてのこの〈マイナスの道化〉は世界的に大きな衝撃を与え,道化の歴史を新たに画した。…
…
【20世紀】
20世紀フランス演劇をその変革の相においてとらえれば,大別して三つの時期を認めることができる。第1は,1913年,J.コポーによる〈ビユー・コロンビエ座〉創設から,両大戦間におけるL.ジュベ,C.デュラン,G.ピトエフ,G.バティの4人の演出家による〈カルテル四人組〉の時代,第2は,J.L.バローによるカルテルの遺産の発展と並行して50年代に起きる三つの事件,すなわちJ.ビラールによる〈民衆演劇運動〉と〈演劇の地方分化〉の成功,E.イヨネスコ,S.ベケット,A.アダモフ,J.ジュネらの〈50年代不条理劇〉の出現,そして〈ブレヒト革命〉であり,第3の時期は,68年のいわゆる〈五月革命〉によって一挙に顕在化した社会的・文化的危機の中で,演劇が体験した一連の大きな〈異議申立て〉(A.アルトーの徴の下に広がった〈肉体の演劇〉を中核とする)とその結果である。
[演出家の時代――コポーと〈カルテル四人組〉]
演出家で集団の指導者をフランス語でアニマトゥールanimateurと呼び,20世紀を〈アニマトゥールの世紀〉と称するが,コポーはアニマトゥールの枠組みそのものを提示した人物である。…
…後者のやり方の一種として,俳優やせりふによってそこにいるはずの見えない人物の存在を暗示したりすることもある。また,ベケットの《クラップの最後のテープ》のように,同一人物の声を肉声と録音した声とに分けて劇的緊張を生み出す場合もある。いずれにせよ,モノローグ劇は俳優の技量を試すためには適当な形式と考えられる。…
※「ベケット」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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