スレブレニツァの虐殺
1990年代に崩壊した多民族国家ユーゴスラビアの六つの共和国の一つ、ボスニア・ヘルツェゴビナの内戦末期の1995年7月に起きたボスニャク(イスラム系)住民らに対する虐殺。セルビア人勢力が東部スレブレニツァを制圧した同11日から主に17日までの間に、ボスニャクの戦闘員や、少年も含む男性避難民らを周辺各地で殺害した。銃による処刑に加え、多数を閉じ込めた倉庫を銃砲撃するなどして虐殺、遺体を埋めた。犠牲者は約8千人とされる。(ウィーン共同)
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スレブレニツァの虐殺
スレブレニツァのぎゃくさつ
Srebrenica massacre
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争さなかの 1995年7月,ボスニア・ヘルツェゴビナ東部の町スレブレニツァでセルビア人勢力が 7000人以上のボスニア人(ムスリム)の男子を虐殺した事件。虐殺に加えて 2万人以上のボスニア人が追放された(→民族浄化)。第2次世界大戦後のヨーロッパで最悪の大量殺人であるこの事件を機に,欧米諸国は停戦を強く求め,ボスニアの領有権をめぐる 3年に及ぶ紛争は終結した。しかし虐殺は,生き延びた人々に深い心の傷を残し,長らくボスニアの民族間の政治的和解の障害となった。非人道的な軍事行為を調査するため事件前に設立された旧ユーゴスラビア国際戦争犯罪法廷 ICTYは,この虐殺がボスニア人の強制追放も含めてジェノサイド(集団殺害)にあたると結論づけ,主たる責任はセルビア人勢力の指揮官にあるとした。同時に国際連合と欧米加盟諸国は,1993年に国連の安全保障理事会が「安全地帯」に指定したスレブレニツァの住民を虐殺と追放から守れなかった責任の一端はみずからにもあることを認めた。セルビアは虐殺の法的責任を問われることはなかったが,2010年セルビア議会は虐殺を阻止できなかったことを謝罪する決議を僅差で採択した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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