スースロフ
Mikhail Andreevich Suslov
生没年:1902-82
フルシチョフ,ブレジネフ時代のソ連邦共産党の指導的理論家で,党活動と国際共産主義運動を指導した。ロシア共和国西部ウリヤノフスク州の農村に生まれ,1921年入党。28年モスクワのプレハーノフ国民経済大学卒業。31年より党中央統制委員会に所属し,いわゆるトロツキー,ブハーリン,ジノビエフ派の粛清に腕をふるう。37年以後ロストフ州党書記など地方党幹部を歴任したのち,47年党中央委員会書記。48-49年のユーゴスラビアのチトー制裁のためのコミンフォルム会議を指導。49-50年《プラウダ》編集長。52-53,55-66年党中央委員会幹部会員,66年以来同政治局員をつとめ,1956年ハンガリー事件弾圧に指導的役割を果たす。63年7月中ソ会談首席代表。68年日本共産党との関係改善のため来日し,81年4月ポーランドを訪問。代表的理論指導者とみなされていた。
執筆者:袴田 茂樹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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スースロフ
すーすろふ
Михаил Андреевич Суслов/Mihail Andreevich Suslov
(1902―1982)
ソ連の政治家。11月21日サラトフ県(ロシア連邦ウリヤノフスク州)の貧農の家に生まれる。1921年に入党。1928年にモスクワ国民経済大学を卒業後、1931年から党機関の専従活動家。1947年に党中央委員会書記になって以来、1982年1月25日に死去するまで、ずっとその地位を維持。1952年10月~1953年3月と1955年7月以降、党中央委幹部会員・政治局員。一時、党機関紙『プラウダ』編集長を兼任。1954年以降ソ連最高会議連邦会議外交委員長。イデオロギー問題の専門家で、1963年の中ソ共産党会談で鄧小平(とうしょうへい)総書記と論争、1968年(昭和43)に来日し、断絶状態にあった日本共産党との関係の調整にあたった。遺体はモスクワの赤の広場に葬られた。
[中西 治]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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スースロフ
Suslov, Mikhail Andreevich
[生]1902.11.21. サラトフ,シャホウスコエ
[没]1982.1.25. モスクワ
ソ連の政治家。 1921年共産党に入党。モスクワ労働者学校,プレハーノフ国民経済大学,赤色教授大学で学んだのち,党中央統制委員会で働き,37年ロストフ州党委員会書記として粛清に加担。 46年党中央委員会宣伝部長,『プラウダ』紙編集主幹としてイデオロギー面の指導を担当,コミンフォルムのチトー批判,ハンガリー事件の処理,中ソ論争の展開などに活躍した。 47年党中央委員会書記,55~66年同幹部会員。 66年政治局員兼書記に就任。のちにソ連最高会議連邦会議外交委員長。歴代書記長人事に穏然たる権力を振い,キングメーカーといわれた。 68年来日。
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