鄧小平(読み)とうしょうへい(英語表記)Deng Xiao-ping

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

鄧小平
とうしょうへい
Deng Xiao-ping

[生]光緒30(1904).8.22. 四川,広安
[没]1997.2.19. 北京
中国の政治家。中国共産党の指導者の一人。フランス留学中に中国共産党に入党。帰国後,革命運動,長征に参加し,日中戦争中は八路軍第 129師政治委員,党革命軍事委員会総政治部主任で,1945年党中央委員となった。第2次世界大戦後の内戦期には中原解放軍 (のち第2野戦軍) の政治委員。 50年党中央南局第一書記,西南軍政委員会副主席となり,52年政務院副総理,53~54年財政部長,54年党中央委員会秘書長。 56年党総書記となったが,文化大革命劉少奇とともに批判されて失脚。 73年副総理として復活し,74年政治局委員,75年1月の 10期二中全会で党副主席に就任したが,江青らの四人組から「資本主義復活をたくらむ党内最大の走資派」であると攻撃され,76年4月の党政治局決議により党内外の職務を解任された。 77年7月の 10期三中全会で党副主席,副総理,党中央軍事委員会副主席,軍総参謀長に復帰。 78年第5期全国人民代表大会で第一副総理,第5期政治協商会議全国委員会主席。 81年 11期六中全会で党副主席,党中央軍事委員会主席。 83年国家軍事委員会主席。中国の最高実力者となり,経済改革を進めたが,89年6月に起った「天安門事件」などの民主化要求には弾圧策をとった。同年 11月党中央軍事委員会主席を辞任したが,事実上の最高実力者の地位を維持した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル大辞泉の解説

とう‐しょうへい〔‐セウヘイ〕【鄧小平】

[1904~1997]中国の政治家。四川省嘉定の人。フランス留学中に中国共産党に入党。帰国後、長征・抗日戦に参加。1956年以来、党総書記・政治局常務委員などを歴任。文化大革命と1976年の天安門事件で二度失脚したが、江青ら四人組追放後に復活。1983年に国家中央軍事委員会主席に就任して最高実力者となった。1989年までにほとんどの公職から引退。トン=シアオピン。

トン‐シアオピン【鄧小平】

とうしょうへい(鄧小平)

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

世界大百科事典 第2版の解説

とうしょうへい【鄧小平 Dèng Xiǎo píng】

1904‐97
中国共産党の指導者。四川省広安県に生まれた。原名は希賢。勤工倹学生としてフランスに留学,1922年共産主義運動に加わった。24年中国共産党に加入し,27年春に帰国して党活動に専従した。小平の名はこのころから使いはじめたという。29年,広西武装蜂起を指導し,31年江西の中央革命根拠地に移ったが,左翼冒険主義路線に反対して,指導的職務を追われた。長征に参加,遵義会議に加わり,その後は軍・政の幹部として頭角を現し,45年の7回大会で党中央委員に選出された。

出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報

大辞林 第三版の解説

とうしょうへい【鄧小平】

1904~1997) 中国の政治家。長征・抗日戦に参加。1956年政治局常務委員・総書記。文革と76年の天安門事件で二度失脚するが、77年復活。83年国家中央軍事委員会主席。以後、中国の事実上の最高指導者として、開放政策をすすめた。トン=シアオピン。

出典 三省堂大辞林 第三版について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

小平
とうしょうへい / トンシヤオピン
(1904―1997)

中国の政治家。四川(しせん)省広安(こうあん)県(現、広安市)生まれ。「改革開放の総設計師」といわれ、その考え方は「小平理論」とよばれている。17歳で勤工倹学(海外で働きながら学ぶ運動)に参加しパリに留学(1920~1926)、そこで周恩来(しゅうおんらい)との親しい関係ができた。1924年に共産党に入党。1931年江西(こうせい)・湖南(こなん)で活動していた毛沢東(もうたくとう)らと合流し、中華ソビエト臨時政府の建設・拡大に従事する。やがて上海から移動してきたソ連留学生派の党中央による毛沢東批判が展開されるようになり、小平も毛沢東派として批判され、失脚する。1934年に長征の途上で中央秘書長として復活した。抗日戦争中は、軍総政治部副主任、八路軍129師団政治委員として有名な百団大戦などを指揮。国共内戦期には、劉伯承(りゅうはくしょう)小平軍は第二野戦軍に発展し、華北、華中、西南へと次々と国民党撃破の戦果をあげた。
 建国直後、1949年12月に党中央西南局が設立され、党第一書記に就任した。その後、1952年に政務院副総理に就任。1954年には国務院副総理、国防委員会副主席、さらには党中央秘書長など要職を兼務する。1956年の第8回党大会では「党規約改正報告」を行い、党中央書記処総書記に選出される。やがて始まった「反右派闘争」「大躍進」では毛沢東の呼びかけに積極的に応じたが、やがて大躍進の行きすぎを感じ、巧みに毛との距離を置くようになる。大躍進の挫折(ざせつ)後、国家主席の劉少奇(りゅうしょうき)が経済・外交の立て直しを指導したが、実質的にそれを支えたのが小平であった。彼の有名な「白い猫でも黒い猫でもネズミをとる猫がよい猫だ」というプラグマティックな「白猫黒猫論」はこの時期の発言である。やがて毛沢東は反撃を開始し、「資本主義の道を歩む実権派打倒」を呼びかけ、全国は大混乱となった。これが「文化大革命(文革)」である。
 数々の深い爪あとを残した文革の立て直しを図ったのは周恩来であったが、がんのため余命いくばくもない状態で、彼の後継者としてふたたび小平が復活した。はなお強い反発を示す「四人組」と戦いながら、周の提唱した工業・農業・科学技術・国防の「四つの近代化」実現に努めた。1976年1月周の逝去とともに三度目の失脚を余儀なくされたが、同年9月の毛沢東の死を経て1977年7月に再度復活を果たす。その後は、当時、党・軍・国家のトップのポストを占めていた華国鋒(かこくほう)との権力闘争を展開し、1978年12月の第11期中央委員第3回全体会議(三中全会)において、「改革開放路線への転換」に成功した。以後改革開放路線のもとで高度経済成長が実現する。
 小平路線の特徴は、(1)経済優先主義、(2)比較優位主義(先富論にみられる不均等発展の容認)、(3)社会主義体制外改革先行方式(もっとも「社会主義的」な国有企業の改革などを後回しにして農業改革、外資系企業の導入などを先行)、(4)市場経済の積極的導入、(5)漸進主義、(6)政治的安定の重視、(7)近代化建設のための国際平和・国際協調路線、「韜光養晦(とうこうようかい)」(光に当たらぬようにして力を醸成する)とよばれる対決回避・経済優先外交、などに集約される。1980年代には政治体制改革の必要性も説いていたが、1989年の天安門事件(六・四事件)後は、政治体制改革を放棄した。国際的に孤立し、経済停滞が続いた1992年、最後の檄(げき)ともいえる南巡講話を行い、改革開放の加速、市場経済の推進を訴えた。これが功を奏し、の死後も「小平路線」は支持され「富強中国」への道を着々と邁進(まいしん)した。[天児 慧]
『竹内実・吉田富夫監訳『小平は語る』上下(1983・風媒社) ▽天児慧著『巨龍の胎動 毛沢東vs小平』(2004・講談社) ▽エズラ・F・ヴォーゲル著、益尾知佐子、杉本孝訳『現代中国の父 小平』上下巻(2012・日本経済新聞出版社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典の解説

とう‐しょうへい ‥セウヘイ【鄧小平】

中国の政治家。一九五二年副首相、五六年共産党中央総書記となるが文革で失脚。七三年副首相として復活し七五年軍総参謀長を兼任。八一年党軍事委主席、八二年には中央顧問委主任を兼任、八三年国家中央軍事委員会主席に就任して最高実力者となった。トン=シアオピン。(一九〇四‐九七

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

世界大百科事典内の鄧小平の言及

【中華人民共和国】より

…馬は79年に名誉回復され,〈一人っ子政策〉が開始された。〈四つの現代化〉を目指す鄧小平体制は,今世紀末の人口を12億におさえようとしているが,それでも1人当り耕地面積は2割ちかく減少するし,そのためには自然増加率を0.95%以下におさえねばならない。人口問題こそは,現代中国の行方を占う最重要な鍵の一つである。…

【中国共産党】より

…そのため,生産関係を後退させても生産力の発展を優先させようとする路線と,生産関係の質的充実によって不均衡を発展的に克服しようとする路線の対立が生じ,深刻化した。後者の路線を推進する毛沢東ら主流派は,中ソ論争とからめた世論準備を経て,66年,プロレタリア文化大革命を発動し,劉少奇・鄧小平らのいわゆる〈実権派〉を打倒した。69年4月,文革の勝利を宣言した第9回全国大会では,前大会選出の中央委員・同候補委員で再選された者は3分の1にも満たなかった。…

【文化大革命】より

…73年に始まった〈反潮流〉の動きは,やがて翌74年の〈批林批孔〉運動へとひき継がれるが,その矛先は周恩来に向けられていた。75年には,文革のもたらした内政危機を乗り切るため,指導力のある鄧小平が奇跡の復活をとげ,重病の周恩来にかわって脱文革正常化をすすめるが,76年に入ると再度のまき返しにあい,鄧小平はふたたび打倒される。こうしたなかで,76年4月には〈天安門事件〉が起こり,極〈左〉的言辞を弄することで能事終われりとしている江青など文革派に対する民衆の怒りが爆発する。…

【劉少奇】より

…56年第8回党大会では政治報告を行い,党内ナンバー・ツーの地位を確立した。59年毛沢東の後をうけて国家主席に就任,大躍進政策の失敗と天災による経済の行きづまりを鄧小平党総書記と協力して調整政策を実施して切り抜けた。 しかし66年文化大革命が始まると,8月の8期11中全会で党内序列第8位に格下げされ,その後資本主義の道を歩む党内最大の実権派,〈中国のフルシチョフ〉という非難が集中し,王光美夫人とともに紅衛兵のつるし上げにあった。…

※「鄧小平」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報

今日のキーワード

アポ電詐欺

《「アポ」は「アポイントメント」の略》電話を使用した振り込め詐欺の一。身内の者になりすまして電話番号が変わったと伝え、再度電話して金銭を要求したり、役所の担当者や銀行員などになりすまして電話をかけ、後...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android

鄧小平の関連情報