日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブハーリン」の意味・わかりやすい解説
ブハーリン
ぶはーりん
Николай Иванович Бухарин/Nikolay Ivanovich Buharin
(1888―1938)
ロシアの革命家、ソ連の政治家。モスクワで教師の子として生まれる。1905年革命の影響を受け、1906年にロシア社会民主労働党に入党、ボリシェビキに属した。1907年モスクワ大学法学部経済学科入学。1908年党モスクワ委員会の指導部に入り、逮捕と釈放を繰り返したのち、1911年にアルハンゲリスク県に流刑され、そこから西ヨーロッパに逃走した。ブハーリンはここでレーニンと接触して大きな影響を受け、理論家として頭角を現した。第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)後アメリカに渡り、トロツキーらと反戦国際主義派の『新世界』紙を編集し、『帝国主義と世界経済』(1915)、『帝国主義国家の理論によせて』(1916)を執筆。これはレーニンの帝国主義論、国家論形成に影響を与えた。
1917年の二月革命後、横浜経由で帰国し、モスクワの党とソビエトで活躍。第6回党大会で中央委員(~1934。その後1937年まで中央委員候補)に選ばれた。十月革命後は党機関紙『プラウダ』編集長。ブレスト・リトフスク講和条約締結問題をめぐる党内論争では、ドイツとの革命戦争を主張。またその後の社会主義建設路線をめぐる論争でも左翼共産主義者としてレーニンと対立したが、のち誤りを認めた。1919年のコミンテルン(第三インターナショナル)創設以来、その重職を占めるとともに『共産主義のABC』(プレオブラジェンスキーとの共著、1919)、『史的唯物論』(1921)などを著し、理論家として世界的な名声を博した。ネップ(新経済政策)期に入ると、農民との和解と漸進的な工業化による「一国社会主義」を主張、1924年に政治局員となり、スターリンと党内多数派を形成した。1927~1928年、穀物調達危機に際しての「非常措置」の導入や急激な工業化路線を主張するスターリンと対立、ルイコフ、トムスキー(1880―1936)らと「右翼反対派」を形成したが、1929年にはコミンテルンの役職や政治局から排除され、失脚した。
1933年には自己批判し、政府機関紙『イズベスチア』の編集長に任命され、1936年の「新憲法」起草に大きな役割を果たしたが、大粛清のなかで1937年2月に逮捕され、1938年3月の公開裁判でファシズムの手先と宣告、処刑された。彼の名誉回復の動きはソ連時代からロシア国内でも広がっていたが、死後50年たった1988年、ペレストロイカに伴い、ソ連最高裁判所は国家反逆罪の判決を撤回、名誉回復がなされた。
[藤本和貴夫]
『佐野学編『唯物史観』『帝国主義論』(1929、1930・白揚社)』▽『救仁郷繁訳『ブハーリン著作選1 過渡期経済論――転形過程の一般理論』』▽『和田敏雄他訳『ブハーリン著作選2 経済学者の手記――新しい経済年度の開始によせて』』▽『佐藤博他訳『ブハーリン著作選3 世界経済と帝国主義』(1969、1970・現代思潮社)』▽『S・F・コーエン著、塩川伸明訳『ブハーリンとボリシェヴィキ革命』(1979・未来社)』▽『ロイ・アレクサンドロヴィチ・メドヴェーデフ著、石堂清倫訳『失脚から銃殺まで=ブハーリン』(1979・三一書房)』▽『アンナ・ラーリナ著、和田あき子訳『夫ブハーリンの想い出』上下(1990・岩波書店)』▽『ソ連司法人民委員部、トロツキー編著、鈴木英夫・菊池昌典訳『ブハーリン裁判』新装版(1991・鹿砦社)』