ロシアの革命家、ソ連の政治家。モスクワで教師の子として生まれる。1905年革命の影響を受け、1906年にロシア社会民主労働党に入党、ボリシェビキに属した。1907年モスクワ大学法学部経済学科入学。1908年党モスクワ委員会の指導部に入り、逮捕と釈放を繰り返したのち、1911年にアルハンゲリスク県に流刑され、そこから西ヨーロッパに逃走した。ブハーリンはここでレーニンと接触して大きな影響を受け、理論家として頭角を現した。第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)後アメリカに渡り、トロツキーらと反戦国際主義派の『新世界』紙を編集し、『帝国主義と世界経済』(1915)、『帝国主義国家の理論によせて』(1916)を執筆。これはレーニンの帝国主義論、国家論形成に影響を与えた。
1917年の二月革命後、横浜経由で帰国し、モスクワの党とソビエトで活躍。第6回党大会で中央委員(~1934。その後1937年まで中央委員候補)に選ばれた。十月革命後は党機関紙『プラウダ』編集長。ブレスト・リトフスク講和条約締結問題をめぐる党内論争では、ドイツとの革命戦争を主張。またその後の社会主義建設路線をめぐる論争でも左翼共産主義者としてレーニンと対立したが、のち誤りを認めた。1919年のコミンテルン(第三インターナショナル)創設以来、その重職を占めるとともに『共産主義のABC』(プレオブラジェンスキーとの共著、1919)、『史的唯物論』(1921)などを著し、理論家として世界的な名声を博した。ネップ(新経済政策)期に入ると、農民との和解と漸進的な工業化による「一国社会主義」を主張、1924年に政治局員となり、スターリンと党内多数派を形成した。1927~1928年、穀物調達危機に際しての「非常措置」の導入や急激な工業化路線を主張するスターリンと対立、ルイコフ、トムスキー(1880―1936)らと「右翼反対派」を形成したが、1929年にはコミンテルンの役職や政治局から排除され、失脚した。
1933年には自己批判し、政府機関紙『イズベスチア』の編集長に任命され、1936年の「新憲法」起草に大きな役割を果たしたが、大粛清のなかで1937年2月に逮捕され、1938年3月の公開裁判でファシズムの手先と宣告、処刑された。彼の名誉回復の動きはソ連時代からロシア国内でも広がっていたが、死後50年たった1988年、ペレストロイカに伴い、ソ連最高裁判所は国家反逆罪の判決を撤回、名誉回復がなされた。
[藤本和貴夫]
『佐野学編『唯物史観』『帝国主義論』(1929、1930・白揚社)』▽『救仁郷繁訳『ブハーリン著作選1 過渡期経済論――転形過程の一般理論』』▽『和田敏雄他訳『ブハーリン著作選2 経済学者の手記――新しい経済年度の開始によせて』』▽『佐藤博他訳『ブハーリン著作選3 世界経済と帝国主義』(1969、1970・現代思潮社)』▽『S・F・コーエン著、塩川伸明訳『ブハーリンとボリシェヴィキ革命』(1979・未来社)』▽『ロイ・アレクサンドロヴィチ・メドヴェーデフ著、石堂清倫訳『失脚から銃殺まで=ブハーリン』(1979・三一書房)』▽『アンナ・ラーリナ著、和田あき子訳『夫ブハーリンの想い出』上下(1990・岩波書店)』▽『ソ連司法人民委員部、トロツキー編著、鈴木英夫・菊池昌典訳『ブハーリン裁判』新装版(1991・鹿砦社)』
ソ連邦の政治家。モスクワの教師の家に生まれ,中学校在学中から革命運動に関係,1905年にロシア社会民主労働党に入党,ボリシェビキに属した。11年に投獄され,流刑地から脱走,ヨーロッパへ渡り,ウィーン大学で経済学を学んだ。しだいに亡命ボリシェビキの中で理論家として頭角をあらわした。15年《帝国主義と世界経済》を書き上げ,16年には論文《帝国主義国家の理論によせて》を脱稿,公表した。ともにレーニンの帝国主義論,国家論に影響を与えている。17年の二月革命ののち,アメリカから横浜経由で帰国した。帰国後はモスクワの党とソビエトで活躍し,十月革命後,党機関紙《プラウダ》の編集長となった(1918-29)。ブレスト・リトフスク条約をめぐっては,左翼共産主義者の指導者としてレーニン路線に反対した。内戦中,《共産主義のABC》(プレオブラジェンスキーとの共著。1919),《過渡期の経済学》(1920),《史的唯物論》(1921)を次々に著し,ロシア革命と共産主義の理論家・解説者として名声を得るにいたった。
ネップ時代に入ると,一国社会主義論に立ち,農民との協調のうえに漸進的な社会主義建設をはかる主張を展開し,スターリンとともに主流派をなした。コミンテルンでも活動し,26年より書記長を務めた。しかし,27年の対外緊張と穀物調達の危機の中で,農村への非常措置を主張するスターリン派に〈右翼偏向〉として攻撃され,ルイコフ,トムスキーらとともに失脚した。しかし,自己批判してスターリン派に協力するようになり,ファシズムとの闘争を強く唱えて,34年《イズベスチヤ》編集長として復帰した。35年からの新憲法の起草にも参加し,民主的な条項づくりに努力した。しかし,旧反対派に対するテロルの開始の中で,37年2月逮捕され,38年3月の公開裁判によって日独の〈ファシストの手先〉として処刑された。逮捕の前夜,若い妻にいつの日か正常な党指導部が生まれたとき,さし出してほしいと名誉回復の上申書を記憶させた。遺言をそのような形で残したところに党的人間であった彼の面目が出ている。この遺言はスターリン批判後,生き残った妻と遺児によって履行されたが,名誉回復が認められたのは1988年になってであった。
執筆者:和田 春樹
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1888~1938
ソ連共産党の指導者。1906年ロシア社会民主党に入党。革命後『プラウダ』編集長。理論家として知られ,全農民との協力,緩慢なテンポの工業化を主張し,28~29年にスターリンと対立し,失脚する。34年にスターリンの「上からの革命」の成果を認めて復活し,『イズヴェスチヤ』編集長となった。しかし,37年に逮捕,モスクワ裁判で死刑。逮捕直前に妻に遺書を口授し,記憶させた。
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… その後,トゥガン・バラノフスキーやR.ヒルファディングは,固定資本の建設をめぐる需要と供給の変動やその建設に動員される貸付資本の過不足の変動をも考慮に入れながら,基本的には不均衡説的商品過剰論を主張する。これに対し,K.カウツキーやN.ブハーリンは,マルクスの再生産表式の均衡条件が資本主義では不可避的な労働者大衆の消費制限によって破壊されざるをえないことを主張し,過少消費説的商品過剰論を説く。剰余価値の実現のためにかならず非資本主義的外囲が必要とされるとみたR.ルクセンブルクの資本蓄積論も,この系譜につらなる。…
…例えば,ロシア・マルクス主義の父と呼ばれるプレハーノフは,史的唯物論は〈学として現れうべき将来のあらゆる社会学に対するプロレゴーメナ〉であると規定し,社会哲学,ないし,社会諸科学・歴史諸科学に対する認識論的基礎部門として性格づける。これに対して,ボリシェビキきっての〈史的唯物論通〉と呼ばれたブハーリンは,〈史的唯物論はプロレタリア的社会学〉そのものであると規定し,哲学というよりもむしろ社会科学の次元に属するものと主張する。レーニンは,あるおりには〈史的唯物論がはじめて科学的社会学の可能性を創出した〉とプレハーノフに近い規定を与え,別のおりには史的唯物論を〈科学的社会学〉〈唯物論的社会学〉と呼んでブハーリンに近い規定を与えている。…
…この間スターリンはジノビエフ,カーメネフと協力してトロツキー派を抑え込むことに成功した。次いで一国社会主義論を採ったスターリンとブハーリンは提携して,ジノビエフ,カーメネフ派と争い,27年にはトロツキー派とも組んだこの合同反対派を完全に失脚させた。 この対立の背景には,経済が1926年に第1次大戦前の水準にまで復興し,ネップの漸進主義に対する不満が頭をもたげているという事情もあった。…
…18年には,ブレスト講和問題や食糧問題をめぐって左派エス・エル党はボリシェビキ権力と対立したため,ここにボリシェビキの一党制が確立し,反革命軍や外国からの干渉軍との戦いが本格化する戦時共産主義期を迎えた。
[レーニンの死の前後]
このころ党内には単一社会主義政権支持者やブハーリンら左派共産主義者,民主的中央集権派らの分派・グループがあったが,戦時共産主義期の終りの第10回党大会(1921)を前に,〈労働組合論争〉を契機として,三つの分派と多くのグループにまたがる厳しい党内論争が展開された。このためレーニンらは一時的に分派の禁止と党員の除名に関する決議によってこれを抑えるとともに,労働者反対派を公に非難した。…
※「ブハーリン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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