改訂新版 世界大百科事典 「ゼムスキーソボル」の意味・わかりやすい解説
ゼムスキー・ソボル
zemskii sobor
16世紀半ばから17世紀にかけてロシアで行われた一種の身分制議会。〈全国会議〉の意。国政参加の場を広げようと,各身分の代表を集め,その意見を聞き,政府の政策への支持を求めるために開かれた。対立する諸身分の融和を求め,内政改革を準備するために1549年モスクワ大公イワン4世により召集された会議(ソボル)が最初のものとされる。会議は定期的ではなく,必要に応じツァーリの命令により召集された。典型的な会議の構成は〈貴族会議〉および高位聖職者より成る〈聖職者会議〉の構成員,政府高官と士族および大商人の代表より成った。まれに町人,農民の代表も参加した。16世紀には,特に大商人を欠く場合が多く,リトアニアとの和戦を審議した1566年の会議のみが十分な構成をもった。士族の代表の多くは,出身地からの選出よりは政府の任命により出席した。17世紀には広範な代表選出制が整ったが,常に全国から一様に代表が出たのではなく,緊急の場合にはモスクワ在住者のみで構成された。ときには代表はその身分,地域の要求を陳情書として提出した。会議では,ツァーリの選出,王位の承認,国内改革,宣戦・講和などの対外政策,新規の課税,一揆対策などが審議の対象となった。審議結果は参加者の署名のある文書にまとめられたこともある。士族の参加者数が最大であったが,それは審議結果に必ずしも影響しなかった。最も頻繁に開かれ,重要な役割を果たしたのは17世紀初めの動乱時代からロマノフ朝ミハイル帝の時代であり,国内諸勢力の糾合,同帝の選出,動乱後の再建に大いに寄与したが,17世紀後半に会議はしだいに少なくなった。総じて歴代のツァーリは不規則な諮問機関として会議を利用するにとどまった。1634年,会議の常設機関化を求めた士族の提案が拒否されたように,会議は法的に明確な組織と権限を得られず,王権を制限することもなく,ピョートル大帝以後,絶対主義への移行とともに消滅していった。
執筆者:伊藤 幸男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報