改訂新版 世界大百科事典 「ラタナコーシン朝」の意味・わかりやすい解説
ラタナコーシン朝 (ラタナコーシンちょう)
Ratanakosin
タイの現王朝。トンブリー朝のタークシン王が精神錯乱に陥った後を受けて,軍の最高司令官チャクリ(のちのラーマ1世)が1782年バンコクを首都として創始した。始祖の名にちなんでチャクリ朝またはバンコク朝とも呼ばれる。6代目の王ワチラウットは,この王朝の歴代の王をラーマ何世と呼ぶ習慣を始めた。現国王プーミポン・アドゥンヤデートはラーマ9世。
ラーマ1世と2世の時代になおも存在していた西方ビルマからの軍事的脅威は,イギリスによるビルマ(現,ミャンマー)の植民地化が開始されるラーマ3世の治世となってようやく消滅し,ラオス,カンボジアおよびマレー諸国に対する宗主権の確立,国内の経営に専念できる状況が生まれた。3世王は西欧諸国に対し伝統的な閉鎖的姿勢をとり続け,門戸の開放を迫るイギリスおよびアメリカに対しても和親条約を結ぶ(イギリスとは1826年,アメリカとは1833年)にとどまったが,開明的な4世王モンクットが出るにおよび一転して開放策に転じ,1855年以降,イギリスをはじめとする先進列強諸国とつぎつぎに通商条約関係に入った。5世王チュラロンコンは東西よりする英・仏両植民地主義勢力の挟撃を被りながらもよく独立を全うし,中央官制,財政制度,地方行政制度など国家の諸制度を整備してタイが近代国家として世界に認められる基礎を築いた。ラーマ6世は第1次世界大戦への参戦を契機として国際連盟への加盟を実現し,タイの国際的地位をゆるぎないものとした。ラーマ7世のとき〈立憲革命〉(1932)が発生して絶対王制が崩壊し,立憲君主制国家タイが成立すると,王は病気治療のためイギリスに赴いたまま1935年退位を宣言した。
後継者となった当時10歳でスイス留学中の国王アーナンタはスイスにとどまったまま第2次世界大戦を迎え,戦後一時帰国中不慮の死を遂げた。10余年にわたる王政の事実上の空白は,アーナンタの弟で同じくスイスに留学していたプーミポンが9世王として即位することによりようやく埋められることとなった。立憲革命以来著しく低下していたタイ王室の威信は,クーデタによって登場したサリットがとくに60年以降,開発志向の独裁体制を正当化する手段として王室の権威と9世王に対する国民的人気を積極的に利用するようになってから急激な上昇を示すにいたった。王に対する国民的敬慕の念は73年の〈学生革命〉に始まる〈民主化の時代〉を経た今日においても依然として失われておらず,工業化の発展に伴う急激な価値意識の変動のなかにあって,ラタナコーシン朝はタイの政治的安定に一定の役割を果たし続けている。
執筆者:石井 米雄
美術
この王朝の美術は全体的に以前のアユタヤ朝美術の流れを継承しているが,新たに西洋美術からの影響が現れる。彫刻は仏像が主流で,ラーマ1世の時代の作品として,バンコクのワット・マハー・タート寺の仏堂にある本尊仏があげられる。このころの仏像はアユタヤ朝時代の製作様式に基づいているが,顔などは生気のないものが多い。チュラロンコン王の時代になると,インドのガンダーラ仏をまねて,より写実的な作りの仏像を作ろうとする動きがみられる。これは西洋の写実的な表現法がタイの仏像に影響を与えた結果である。仏像以外の彫刻作品で注目すべきものに,地獄で苦しむ人間を救いに向かった仏弟子プラ・マライを表す彫刻がある。絵画の部門では,寺院の内部の壁面を飾った仏教壁画にすばらしい作品が多い。これもアユタヤ朝の様式を継承し,その主題はおもに,仏伝図や本生話であった。代表的な作品として,バンコク国立博物館のプッタイサーワーン礼拝堂の仏伝図壁画があげられる。
工芸美術では,アユタヤ朝の伝統を保持した真珠貝による象嵌細工や,黒漆で下地を作り,その上を金泥で描いた漆絵が注目される。仏教建築を主体とする建築もアユタヤ朝建築の流れをくんだが,ラーマ3世の時代には中国建築からの影響を受けた。20世紀初めごろに建てられたバンコクのワット・ベンチャマーボーピット寺(大理石寺院)は,タイ建築に西洋建築の要素をうまく取り入れ,両者が結合して生まれた建築として注目される。
執筆者:伊東 照司
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報