チェコスロバキア映画(読み)チェコスロバキアえいが

改訂新版 世界大百科事典 「チェコスロバキア映画」の意味・わかりやすい解説

チェコスロバキア映画 (チェコスロバキアえいが)

ジョルジュ・サドゥールの《世界映画史》によれば,〈自然の美しさと人間の生活感や大胆な官能的欲望を写し出すリアリズム〉が特色だった第2次大戦前のチェコスロバキア映画は,ナチス占領をへて,戦後は〈幻想と抵抗〉の映画に変わっていく。チェコスロバキアの首都プラハ(現チェコの首都)は,ヤン・クリゼネツキーJan Krizenecky(1868-1921)がパリで購入した撮影機兼映写機〈シネマトグラフ・リュミエール〉で最初の劇映画(喜劇)を撮って以来,東欧の映画の中心地であった。1907年にはプラハに最初の映画常設館が建ち,12年にはマックス・ウルバンMax Urban監督が彼の夫人であり最初のスターであるアンナ・セドラチコーバAnna Sedlackova主演の《恋の終り》などをつくった。

 第1次世界大戦後,2人の若い映画作家,カレル・ラマーチKarel Lamačとグスタフ・マハティGustav Machatyが,彼らの発見したスター,アニー・オンドラ(のちにイギリスでヒッチコック映画のヒロインになる)とともにチェコスロバキア映画を盛り立てていくが,とくに人間の欲望,性的本能を象徴的なイメージに描いたマハティ監督の《春の調べ》(1933)は,チェコスロバキア映画を一躍世界に知らしめた作品で,ヘディ・キースラー(のちにハリウッドに招かれてヘディ・ラマールと名のる)の全裸シーンが話題を呼び,世界中で大ヒットした。

 プラハは1930年代にはヨーロッパで最高の撮影所の施設を誇る映画の中心地となり,ビクトル・トゥールヤンスキー監督,アルベール・プレジャン主演の《炎のボルガ》(1934),ジュリアン・デュビビエ監督《巨人ゴーレム》(1935)といったフランス映画もプラハでつくられた。

 ナチス占領下のチェコスロバキア映画には見るべきものがなく,45年,プラハ解放直後,映画の国営化が定められ,国立映画学校FAMUがプラハに開校した。そして,47年,カレル・ステクリーKarel Steklý監督の《シレーナ》がベネチア映画祭グランプリに輝き,人形アニメーションの巨匠イルジ・トルンカの《チェコの一年》が国際的な評価を得たときから,戦後のチェコスロバキア映画が始まる。後者の流れはさらに実写とグラフィックなアニメーションを合体させたカレル・ゼーマン(1910- )の《悪魔発明》(1958),《狂気の年代記》(1964)などに受け継がれ,発展していく。50年代にはFAMU出身の映画監督が一線に出てくる。ボイテッチ・ヤスニーVoyteč Jasny監督《九月の夜》(1957)がチェコ映画の〈新しい波〉の口火を切り(さらに1963年にはカンヌ映画祭で特別賞を受賞したヤスニー監督の《猫に裁かれる人々》が,チェコスロバキア映画に世界の注目を集めさせる),60年代にはベラ・ヒティロバ(《ひなぎく》1966),ヤン・ニェメッツ(《夜のダイヤモンド》1964),ミロシュ・フォルマン(《ブロンド娘の恋》1965),イルジ・メンツェル(《監視された列車》1966),ヤロミル・イレシュ(《叫び》1963)といった気鋭の若い映画作家たちが〈プラハの春〉を謳歌するが,68年夏のソ連軍侵攻により沈黙を余儀なくされる。また国外逃亡組のなかにはハリウッドに渡って成功したミロシュ・フォルマン改めミロス・フォアマン(《アマデウス》1984など)がいる。70年代末から80年にかけてヒティロバ(《りんごゲーム》1976,《無慈悲の時代》1980),メンツェル(《すばらしき映画野郎》1978)らの復活がわずかにチェコ映画の〈希望〉と期待されている。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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