ティルジット条約(ティルジットじょうやく)
Tilsit
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ティルジット条約
てぃるじっとじょうやく
1807年、ナポレオン1世とプロイセン王フリードリヒ・ウィルヘルム3世との間に結ばれた条約。ティルジットTilsitはニーメン(メーメル)川左岸の都市(現ロシア共和国カリーニングラード州ソビエツク市)。前年にプロイセンはナポレオンに宣戦を布告したが、イエナの戦いで敗れ、来援したロシア軍も同様の運命にあった。1807年2月、ロシア皇帝アレクサンドル1世とナポレオンは、ニーメン川上の筏(いかだ)で会見した。続いてプロイセン王と7月に和約が成立。条約では、エルベ川左岸の全域がウェストファリア王国とされ、ナポレオンの弟ジェロームが元首に就任。ダンツィヒは自由市とされる。また旧ポーランド領にワルシャワ公国が建設され、ザクセン王が支配者を兼ねるほか、莫大(ばくだい)な償金と軍備の制限がプロイセンに課せられた。
[金澤 誠]
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ティルジット条約
ティルジットじょうやく
Treaty of Tilsit
1807年7月ナポレオン1世とプロシア王フリードリヒ・ウィルヘルム3世およびロシア皇帝アレクサンドル1世とが,東プロシアのティルジットで結んだ和平条約。イェナ=アウエルシュテットの戦い,アイラウの戦いでプロシア,ロシアを破ったナポレオンは,この条約によって大陸制圧をほぼ完成した。おもな内容は,(1) プロシア領ポーランドにワルシャワ公国,エルベ川左岸にウェストファリア王国を創設,(2) ダンチヒを自由市とする,(3) プロシア軍隊を4万 2000に制限,償金の支払い,その完済までのフランス軍の駐屯,(4) ほかにロシアのフランスへの協力を求めた付帯秘密条約など。この結果プロシアの領土,人口は半減された。
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「ティルジット条約」の意味・わかりやすい解説
ティルジット条約【ティルジットじょうやく】
1807年イェーナの戦に大勝したナポレオンが東プロイセンのティルジットTilsitでロシア,プロイセンと結んだ平和条約。フランスは,エルベ左岸のプロイセン領を割取してウェストファーレン王国を,旧ポーランド領にはワルシャワ公国を建て,ダンチヒ(クダンスク)を自由市化。プロイセンはこのほか膨大な償金と軍備制限を課され,ロシアは大陸封鎖協力を約束した。
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ティルジット条約
ティルジットじょうやく
Tilsit
1807年,ナポレオン1世とロシア皇帝アレクサンドル1世およびプロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム3世の間に結ばれた平和条約
ティルジットはニーメン川左岸の都市。イエナの戦いなどでプロイセン・ロシア連合軍を破ったナポレオンは,この条約でプロイセン領土の大半を奪い,その西隣にウェストファリア王国を,東隣にワルシャワ大公国を建て,大陸におけるフランスの支配権を確立した。プロイセンはこの屈辱後,国民意識にめざめ,多くの国政改革を行った。
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世界大百科事典(旧版)内のティルジット条約の言及
【対仏大同盟】より
…第3次は,1805年にイギリス,オーストリア,ロシア,スウェーデンなどの間で結ばれたが,オーストリアとのプレスブルク条約(1805)によって解消した。第4次は,06年にイギリス,プロイセン,ロシアなどの間で結ばれたが,プロイセン,ロシアとのティルジット条約(1807)によって解消した。第5次は,09年にイギリス,オーストリアの間で結ばれたが,オーストリアとのシェーンブルン条約(1809)によって解消した。…
【プロイセン改革】より
…1807年から22年にかけてプロイセン王国で行われた農制,営業・租税制度,行政,軍制,教育制度などの諸分野にわたる一連の近代的改革。指導した2人の宰相の名をとってシュタイン=ハルデンベルクの改革Stein‐Hardenbergsche Reformenとも呼ぶ。
[概要]
1806年にイェーナの戦でナポレオン軍に完敗したプロイセンは,翌年のティルジットの和約で,領土の半ばを失い,多額の貢納金の支払,大陸封鎖令による対英貿易の禁止,フランス軍の駐留などの経済的圧迫を被り,国家存亡の危機にした。…
※「ティルジット条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」