大陸封鎖(読み)たいりくふうさ(その他表記)blocus continental[フランス]

改訂新版 世界大百科事典 「大陸封鎖」の意味・わかりやすい解説

大陸封鎖 (たいりくふうさ)
blocus continental[フランス]

ナポレオン1世が,敵国イギリス国力打撃を与えるために,みずからの支配するヨーロッパ大陸諸国とイギリス(およびその植民地)との間の交通や通商を全面的に禁止し,イギリスに対してヨーロッパ大陸の市場を閉鎖しようとした政策をいう。この大陸封鎖は,1806年のベルリン勅令翌年ミラノ勅令によって命令されたものであるが,それに関連する諸政策を含めた総称として,大陸制度continental systemと呼ばれる場合もある。

 もともとイギリスとフランスは,18世紀初頭から,東西両洋にわたって植民地の獲得と海外市場の確保をめぐる激しい争覇戦を展開していたが,その争いは,経済力と海軍力との点で優れていたイギリスの勝利に帰着し,とくに七年戦争の結果,フランスは,新大陸でもインドでも多くの植民地を奪われ,海外市場をイギリスによってほぼ独占されるにいたった。その後両国は,1786年に通商条約を結んで貿易を自由化したが,その結果,折から産業革命を遂行しつつあったイギリスの優れた経済力のために,フランスの産業は重大な脅威にさらされた。こうしてフランス革命期からナポレオン時代にかけて,フランスはイギリスに対抗して自国の産業を保護する政策をとる必要に迫られていた。フランス革命期の1793年に,イギリスが対仏大同盟に参加して両国の間に戦争が始まると,フランスはただちに86年の英仏通商条約を破棄するとともに,イギリスの海外貿易に打撃を与えて自国の産業を保護するための政策を実施した(その主要なものは1793年9月の航海法)。

 ナポレオンの政策は,革命期の政策を継承して,さらにそれを全ヨーロッパに広めたものである。1803年に両国間の戦争が再開されると,ナポレオンはまずイギリス本国およびその植民地の生産物のフランスへの輸入を禁止した。さらに06年,プロイセンを破ってバルト海に至る全ヨーロッパの支配を確立すると,同年11月21日にベルリン勅令を発し,(1)イギリスを封鎖状態におくこと,(2)イギリスとのあらゆる貿易・通信の禁止,(3)イギリス人に属するあらゆる商品の没収,(4)イギリス製またはイギリス植民地産のあらゆる商品の没収,(5)イギリスまたはその植民地の船舶と,イギリスに寄港した船舶とは,すべて大陸に入港せしめないこと,などを規定し,これをその支配下にあるヨーロッパ大陸諸国に守らせることにした。ついで,07年のミラノ勅令で,イギリスまたはその植民地の港を出港した船舶や,それらの港に向かっている船舶は,その船籍を問わず拿捕(だほ)されるべきことを命じて,ベルリン勅令を強化した。こうしたナポレオンの大陸封鎖は,単にイギリスに経済的打撃を与えることを目的としただけではなく,フランス産業のためにヨーロッパ市場を確保することをも狙ったものであった。しかし海上権を握るイギリスは,新大陸貿易の拡大などによって経済的にさして打撃を受けず,かえってヨーロッパ諸国の方が,イギリス商品や原料の輸入停止によって経済的苦境におちいった。そのため大陸封鎖の励行を迫るナポレオンの政策は,ヨーロッパ諸国の反抗を招き,かえってナポレオンの没落を早め,彼の没落とともに大陸封鎖も失効した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大陸封鎖」の意味・わかりやすい解説

大陸封鎖
たいりくふうさ
Blocus continental フランス語

ナポレオン1世が、トラファルガーの海戦(1805)で敗れた報復措置として、ヨーロッパ諸国に号令して経済的にイギリスの活動を封殺しようとした政策。ナポレオンは、1806年11月、ベルリン勅令の名で「陸によって海を征服する」決意を表明し、ロシアからスペインに及ぶ大陸諸国に、イギリスとの貿易、商業関係の中止を訴え、イギリスはもとよりイギリス植民地の製品を即時に没収すべき命令を下した。そして翌07年ミラノ勅令を発し、イギリスに寄港した商船はすべて拿捕(だほ)されるべき命令を付け加えた。イギリスに対し、ヨーロッパの市場を閉鎖し、あわせてフランス産業と商業の大陸進出を促そうとするのが、第一の眼目であった。イギリスは当然多大の打撃と衝撃を被った。が、同時に大陸諸国も取引上不都合な損失を受け、非難の声が年ごとに高まる傾向を生じた。なかでもロシアや東ヨーロッパ諸国は木材、穀物の輸出先をイギリスに定めていた関係で、唯一の商品市場を失い、土地貴族、独占商人の不満を誘発した。またオランダやスペインの生産者や商人も少なからぬ被害を感じた。そのため密輸が横行し、闇(やみ)行為の絶え間がなかった。当のフランスでも、商業資本家と産業人の間に意見と利害の対立が生じた。ポルトガルが離反し、ロシアが同盟から離脱した。この結果、ナポレオンは1812年のモスクワ遠征を企画したのである。

[金澤 誠]

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百科事典マイペディア 「大陸封鎖」の意味・わかりやすい解説

大陸封鎖【たいりくふうさ】

1806年以後フランス皇帝ナポレオン1世がとった対英経済封鎖政策。ベルリン勅令(1806年)・ミラノ勅令(1807年)によってヨーロッパ諸国の対英貿易を禁止,英本国とその植民地産品の没収,それらの地に寄港した船舶の大陸入港禁止等を命じた。かねてより対立していた英国に打撃を与え,また自国の産業を保護するための政策だったが,思った効果は得られずかえってナポレオンの治世を縮めた。
→関連項目ティルジット条約ナポレオン戦争ボナパルトミラノ勅令モスクワ遠征

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「大陸封鎖」の解説

大陸封鎖(たいりくふうさ)
Blocus continental

大陸制度ともいう。イギリスに対して,ヨーロッパ大陸の市場を閉鎖するために,ナポレオン1世がとった政策。1806年11月に彼はベルリン勅令を発し,イギリスとの貿易や通信の全面的禁止,イギリスおよびその植民地の商品の取引禁止と没収,イギリスおよびその植民地からきた船舶の大陸入港禁止と没収,などを命じ,翌年のミラノ勅令でこれを強化した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大陸封鎖」の意味・わかりやすい解説

大陸封鎖
たいりくふうさ

大陸制度」のページをご覧ください。

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