1825年12月14日、ペテルブルグの元老院広場におけるロシアで最初の武装蜂起(ほうき)。ロシア語で12月をデカーブリというところから、後年この蜂起に参加した人たちを「十二月党」(デカブリスト)とよぶようになった。この蜂起を計画したのは貴族出身の青年将校たちで、彼らのほとんどは1812年の祖国戦争(ナポレオン戦争)とその後の外征の参加者であった。彼らは、戦争中に農民出身の兵卒から農奴の悲惨な状態を聞き、さらにロシアに比べてはるかに進歩した西ヨーロッパの生活を目の当たりにみて、農奴制と専制政治を廃止して、ロシアを西ヨーロッパ並みの国家につくりかえることを目ざした。
1816年、アレクサンドル・ムラビヨフAleksandr Nikolaevich Muraviyov(1792―1863)ら6人の近衛(このえ)連隊の将校によって、デカブリストの最初の秘密結社「救済同盟」がつくられ、2年後により大きな「福祉同盟」へと改組された。しかし、この結社の200人に及ぶメンバーは、将来のロシアが立憲君主国となるべきか、それとも共和国となるべきか、皇帝(アレクサンドル1世)とその一族の処遇をどうすべきか、農民は土地をつけて解放すべきか、土地をつけずに解放すべきか、地主への補償はどうするかなどの問題をめぐって意見が分かれた。
1821年「福祉同盟」はスパイを警戒して偽装解散し、南ロシアの第二軍管区のあるトゥリーチンに本拠を置く「南方結社」と、ペテルブルグに本拠を置く「北方結社」とに二分した。前者は、ペステリ大佐の指導下に共和主義的な憲法草案「ルースカヤ・プラウダ」を自らの綱領として採択した。またこの結社には、スラブ諸民族の連邦を掲げる「統一スラブ結社」が合流した。一方、「北方結社」のニキータ・ムラビヨフNikita Mihailovich Muraviyov(1796―1843)は立憲君主制を目ざす憲法草案をつくった。だが、この結社には皇帝殺害を主張する過激な詩人ルイレーエフなども加入しており、綱領は一致しなかった。
1825年11月にアレクサンドル1世が旅行先で急死したあと、ロシア国内の政治の混乱に乗じ、彼らは首都と南ロシアで蜂起を敢行したが、政府軍によって容易に鎮圧された。そのあとの特別裁判で、ペステリ、ルイレーエフら5人の首謀者は絞首刑、121人がシベリアやカフカスへ徒刑との判決を受けた。デカブリストの挫折(ざせつ)は、人民の参加のない革命が結局は失敗に終わることを教えるとともに、自らの利害を顧みず祖国のため、人民のために一身を捧(ささ)げた彼らの行為は、その後のロシアの革命思想と革命運動に大きな影響を与えるところとなった。
[外川継男]
『ゲルツェン著、金子幸彦訳『ロシアにおける革命思想の発達について』(岩波文庫)』▽『岩間徹著『プーシキンとデカブリスト』(1981・誠文堂新光社)』
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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