デサンクティス(英語表記)Francesco De Sanctis

デジタル大辞泉 「デサンクティス」の意味・読み・例文・類語

デ‐サンクティス(Francesco De Sanctis)

[1817~1883]イタリアの文芸批評家・政治家ロマン主義批評の最もすぐれた成果一つといわれる「イタリア文学史」を発表した。

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精選版 日本国語大辞典 「デサンクティス」の意味・読み・例文・類語

デ‐サンクティス

  1. ( Francesco De Sanctis フランチェスコ━ ) イタリアの評論家。一八四八年、ブルボン王朝に対するナポリ民衆蜂起に参加して捕えられ三年後に釈放。六一年国家統一時にカブール内閣の文相、七一年ナポリ大学教授。主著イタリア文学史」。(一八一七‐八三

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改訂新版 世界大百科事典 「デサンクティス」の意味・わかりやすい解説

デ・サンクティス
Francesco De Sanctis
生没年:1817-83

イタリアの批評家。ブルボン王政下の南イタリアに生まれ,ナポリで伝統的な文法修辞学を修めて教職に就く。フランス二月革命を受けてイタリア全土に解放と統一を目ざすリソルジメント運動が高揚した1848年,学生とともにナポリ蜂起に参加。50年に反体制のかどで逮捕され,2年半に及ぶ獄中生活ののちトリノ亡命,同地で《神曲》講義を開始。56年,スイスのチューリヒ工科大学の教授に就任し,イタリア文学を講じた。60年,ガリバルディによる南イタリア解放が進むなか,勇躍ナポリへ帰って政治活動に没頭し,翌年,統一イタリアの国会議員に選出され,文部大臣に就任するなど,政治改革への情熱を終生燃やしつづける一方で,65年から旺盛な批評活動を再開し,66年に《批評論集》,69年に《ペトラルカ論》,70-71年には主著《イタリア文学史》2巻を刊行。71年からは《文学史》を補完する19世紀イタリア文学をナポリ大学で講じ,晩年は当時まだ新しい自然主義文学の研究にも意欲的に取り組んだ。デ・サンクティスは早くからヘーゲル美学に学んだが,やがて形式は理念を包含するという文学観を提起して,近代批評の基礎をすえたのみならず,リソルジメント精神の文学的実践をイタリア文学史の雄大な総合としてなしとげ,クローチェに始まる20世紀のイタリア批評界において文字どおり偉大な教師として仰がれた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「デサンクティス」の意味・わかりやすい解説

デ・サンクティス(Francesco De Sanctis)
でさんくてぃす
Francesco De Sanctis
(1817―1883)

イタリアの文学者。士官学校教授を務めていた1848年5月、ブルボン王朝の支配に反対するナポリの民衆蜂起(ほうき)に加わったかどで、50年に投獄され、2年半にわたる獄中生活の間、ヘーゲルの『論理学』を耽読(たんどく)し、タッソを主人公とする詩『牢獄(ろうごく)』を書く。その後、アメリカへ強制的に送られそうになるが、マルタ島で脱走してトリノへ逃れる。その後、チューリヒ工科大学でダンテ、ペトラルカ、タッソなどを講ずる。恩赦を得て、ナポリへ帰ると、カブール内閣の文部大臣を務めるなどの政治活動のかたわら、『評論集』(1866)、『ペトラルカ論』(1869)、『続評論集』(1872)を相次いで刊行。また、文学作品を通じて各時代の社会や精神生活を再構築し、ヨーロッパにおけるロマン主義批評のもっとも完成した作品といわれる『イタリア文学史』(1870~71)を発表した。著作は『デ・サンクティス全集』(1951~ )に収められている。

[川名公平]

『池田廉・在里寛司他訳『イタリア文学史』全二巻(1970、73・現代思潮社)』


デ・サンクティス(Gaetano De Sanctis)
でさんくてぃす
Gaetano De Sanctis
(1870―1957)

イタリアの古典古代史家。ローマ大学でK・J・ベロッホに学び、アテネ史の研究で学位を得た。1929年にローマ大学教授となったが、やがて失明。31年にはファシスト政府に抵抗して職を追われた。しかし二重の不幸にも屈せず研究を続け、45年に終身教授に迎えられた。主著『ローマ史』Storia dei Romani四巻(1907~23)、『ギリシア史』Storia dei Greci二巻(1939)。

[古山正人]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「デサンクティス」の意味・わかりやすい解説

デ・サンクティス
De Sanctis, Francesco

[生]1817.3.28. モッライルピーナ
[没]1883.12.29. ナポリ
イタリアの文学史家,評論家。自由主義思想の愛国者としてフランスの支配に反抗し,ブルボン政庁に捕えられたが,のちチューリヒに亡命,同地の大学でイタリア文学を講じた。 1860年に帰国,独立期の文相 (1861~62) として教育改革を行い,71年以降はナポリ大学で比較文学を講じた。主著『ペトラルカ論』 Saggio critico sul Petrarca (69) ,『イタリア文学史』 Storia della letteratura italiana (2巻,70) 。

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世界大百科事典(旧版)内のデサンクティスの言及

【アリオスト】より

…中世フランスの叙事詩《ローランの歌》に始まる騎士物語叙事詩の到達点,集大成となった畢生の大作《狂えるオルランド》決定版を上梓したあと,33年7月,59年の生涯を終えた。 いまや古典となったデ・サンクティスの《イタリア文学史》は,中世を締めくくる作品としてのダンテの《神曲》に比して,〈アリオストのうちにルネサンスは終わった〉とし,《狂えるオルランド》は〈ルネサンスの精華,イタリアでいまなお唯一,神聖なものとして崇拝されているもの,“芸術”に捧げられた神殿である〉と評している。日本へのアリオストの作品紹介はタッソとともにきわめて遅れており,《狂えるオルランド》の邦訳も坪内章の抄訳のみにとどまっている。…

【イタリア文学】より

…またボッカッチョの〈愛〉は現実的,肉体的な,地上の感覚に基づいている。このことから,後年,近代の文学史家デ・サンクティスは《デカメロン》を〈人曲〉と呼び,現代の研究家ブランカは〈十日百話〉の散文中に埋めこまれた夥しい11音節の韻律を取り出して,これを〈商人の叙事詩〉と名づけ,物語の基盤に〈愛〉〈運〉〈才〉があることを指摘した。 《デカメロン》は枠物語の形式をとり,個々の地の文章の枠のなかに,ペストの難を逃れて語りあう男女10人の〈小話〉が組み込まれている。…

【デカメロン】より

…ダンテの《神曲》に対して《人曲》ともいわれている。 19世紀のイタリアの大文学史家デ・サンクティス以来,この作品は,中世の教会と封建制度を嘲笑する新興ブルジョアジーの勝利の記録としてたたえられた。たしかに,ありとあらゆる悪事を働いた悪党の代表人セル・チャペレットが臨終の際,自分の実際の言動とすべて反対のように告白したことによって聖者に列せられる第1日第1話や,聖職者の堕落ぶりや肉体の欲望をたたえる話などに関するかぎり,デ・サンクティスの評価は正しいが,中世的な騎士精神や信心深さをたたえた話も少なくない。…

【メッツォジョルノ】より

…こうした彼の考えは,19世紀ロマン主義の文学に大きな影響を与えた。 19世紀に入ると,国家統一に向かって政治的にも社会的にもさまざまな胎動が繰り返され,それと呼応するかのように多くの優れた文学者が輩出したが,なかでも旺盛な活動を展開した一人がF.デ・サンクティスであった。形式と内容,生活と文化は密接不可分の関係にあるとする彼の批評原理は,クローチェ,さらにはグラムシを介して,現代にも濃い影を落としている。…

【リソルジメント】より

…また文学研究の領域では文学史の叙述が重要な意味を担った。すなわち,デ・サンクティスは主著《イタリア文学史》(1870‐71)においてイタリア民族とその文化の歴史を文学をとおして統一的にとらえ,リソルジメントの理念を文学的に実践した。 リソルジメントの理想によって支えられてきたイタリアのロマン主義も,獲得された現実に対する幻滅のために感傷的傾向を帯びるようになると力を失い,代わって60年代以降スカピリアトゥーラ派の運動が起こり,やがて現実を直視するベリズモの時代に移る。…

※「デサンクティス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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