日本大百科全書(ニッポニカ) 「ペトラルカ」の意味・わかりやすい解説
ペトラルカ
ぺとらるか
Francesco Petrarca
(1304―1374)
イタリアの詩人、ルネサンス人文主義の先駆者。ダンテと同じく1302年にフィレンツェを追放された一公証人の子として、トスカナ地方のアレッツォに生まれた。ついで同地方のインチーザに幼年期を過ごしたあと、ピサを経て、8歳のとき一家は、教皇庁が移し置かれてまもない南フランスのアビニョンへ渡り、近郊のカルパントラに落ち着いた。ラテン語の初等教育を受けたのち、父親の意志に従いモンペリエ、ボローニャに留学して法律を学ぶが、かたわらウェルギリウス、キケロなどのローマ古典に心酔し、またボローニャでは俗語(イタリア語)の詩と出会い、新しい文学へも目を開かされた。26年、父親の死を機に法律の勉強を放棄してアビニョンへ帰る。そして翌27年4月6日の聖金曜日に、聖女クララ教会で、生涯にわたり詩的霊感の源泉となる女性ラウラLauraを見て、決定的な愛にとらえられたという。ここに、ラウラへの愛を歌う叙情詩人が誕生した。
[林 和宏]
古典文化復興へ
1330年ころ経済的理由から聖職についたペトラルカは、まもなくローマの名門貴族出身の枢機卿(すうききょう)ジョバンニ・コロンナに仕えて、以後長くその庇護(ひご)を受けることになる。37年、アビニョン郊外ボークリューズの谷に庵(いおり)を結び、この地をヘリコン山の泉になぞらえて詩作と古典研究に励んだ。翌年、野心作『アフリカ』(未完)の執筆に着手する。ウェルギリウスの『アエネイス』を継承しようとしたこのラテン語叙事詩は予想どおりの成功を収め、いまや古典文化復興の立役者としての名声が高まるなか、41年、中世文化の中心地パリの招請を断って、永遠の都ローマのカンピドリオの丘で念願の桂冠(けいかん)を戴(いただ)いた。なお、47年にローマで古代共和政の復活を図った親友コーラ・ディ・リエンツォに、コロンナ家との絶縁を恐れず熱烈な支持を寄せたのも、また教皇庁がローマへ戻るべきことを繰り返し主張したのも、同様に、ラテン文化の伝統に根ざした新しい文化の理想に発していた。
戴冠(たいかん)以降、諸侯に招かれて、パルマをはじめイタリア各地に滞在することが多くなっていくが、ついに1353年、新教皇との不和を機にイタリア定住を決断し、ミラノの専制君主ビスコンティ家の招きを受け入れた。このミラノ滞在時代には、平穏な著述生活のかたわら外交使節の大任を幾度か果たしている。その後、ペストを逃れて61年にパドバへ、翌年にはベネチアへと移り住み、そして70年に隠棲(いんせい)したパドバ郊外のアルクァが終焉(しゅうえん)の地となった。
[林 和宏]
その作品
ペトラルカが後世に残した作品は未完のものも含めて二十余編に上るが、ラテン文学の伝統を多様なジャンルにわたりよみがえらせて、ルネサンス人文主義の基礎を築いたラテン語の著作が大部分を占める。なお、ほとんどの作品が、長期に及ぶ改変、推敲(すいこう)を受けている。
まず、ラテン語の著作のおもなものは、詩作品に『アフリカ』、『牧歌』(1364)、伝記に『著名人列伝』(1351~53)、さらに、倫理について考究した作品群に、魂の師アウグスティヌスとの対話形式で仮借のない自己検討を試みた『秘密』(初稿1342~43)、文学者と修道士のそれぞれの孤独を賞揚した『孤独な生活について』(初稿1346)と『宗教的無為について』(初稿1347)、書簡集に『親交書簡』(1366)、『晩年書簡』(未完)、教皇庁批難の内容ゆえに宛名(あてな)を伏せた『無名書簡』(1360)、さらに、自然科学に対する詩の優位を主張した『ある医者に対する嘲罵(ちょうば)』(1355)などの論争文がある。
一方、イタリア語の作品は、叙情詩集『カンツォニエーレ』(1374)と、その主題を叙事的に展開させた詩『凱旋(がいせん)』(未完)の二作にすぎず、人文主義全盛の時代にはラテン語作品の陰に隠れがちであったが、16世紀以降、ペトラルカの代表作としてラウラへの愛を歌う『カンツォニエーレ』の声価は定まった。ダンテが中世キリスト教の統一的世界観に拠(よ)って神の光にまで高めた愛の概念を踏まえつつ、新しい時代の到来を予感するなかで、ペトラルカは追憶のなかの淡い光を歌う。つまり、ペトラルカはラウラのうちに残光を見ていたのである。
[林 和宏]