日本大百科全書(ニッポニカ) 「フランチェスコ」の意味・わかりやすい解説
フランチェスコ
ふらんちぇすこ
Francesco d'Assisi
(1181/1182―1226)
フランシスコ会の創立者。聖人。アッシジの富裕な繊維商ピエトロ・ベルナルドーネPietro Bernardoneとその妻ピーカPicaの息子。20歳ころまで父の下で商売に従事したが、遊び好きで友人間に人気があった。1202年のアッシジとペルージア間の紛争に出征し、捕虜となった。獄中で病気にかかり、釈放後の療養中に、これまでの生活に疑問を抱き、不安のなかに祈りと貧者への奉仕に専念した。ローマに巡礼を試みた際、聖ペテロの墓所に路銀を財布ごと献金し、乞食(こじき)となって施与にすがって生活した。この体験で福音(ふくいん)中のキリストの貧しさを体験した彼は、それ以降、世俗の事物への執着を断ち、無一物となってキリストの生き方を己の生活の手本とし、奉仕と托鉢(たくはつ)の生活を始めた。この生き方に共鳴した若者が集まってくると、ローマに赴き、教皇インノケンティウス3世から修道会としての認可と説教の許可を受けた(1209ころ)。
謙遜(けんそん)に徹した彼は、己を「小さき兄弟」とよび、粗衣にはだしで兄弟たちといっしょに放浪のなかに、キリストの教えを人々に説いて各地を巡った。1212年、アッシジの貴族の娘クララが、彼の生き方に共鳴してその仲間となったが、彼はその女性たちのために修道会(第二会)を創設した。1214年ころ南フランスからスペインを旅し、1219年にはエジプトからパレスチナを巡歴した。病気を理由に会長職を辞任した彼は、教皇の命令に従って「会則」を執筆し、1223年に教皇から認可された。また、1221年ころには、世間に居住しながら彼の精神を生きようと望む人々のために、在世会(第三会)を創設した。
彼は自然のあらゆる存在を兄弟姉妹とよび(『太陽の賛歌』)、小鳥や魚に説教を試み、狼(おおかみ)を回心させるなどして、世人に神の慈愛を示した。1224年アルベルナ山上で、キリストから五つの聖痕(せいこん)を受け、その2年後の10月3日、アッシジのポルチウンクラにおいて帰天した。墓所は同地の大聖堂にある。
[石井健吾 2017年12月12日]
『オ・エングルベール著、平井篤子訳『アシジの聖フランシスコ』(1969・創文社)』▽『J・J・ヨルゲンセン著、永野藤夫訳『アシジの聖フランシスコ』(1977・講談社/平凡社ライブラリー)』