フランシスコ会の創立者。〈もう一人のキリスト〉と称せられるほど,イエス・キリストの生涯と教えに忠実に従ったことで有名なイタリアの聖人。本名Giovanni Francesco Bernardone。アッシジAssisiの富裕な織物商の家に生まれ,アッシジの若者の先頭に立って気ままな青年時代を送ったが,隣町ペルージアとの戦いで捕虜となり(1202-03),大病を経験したことで転機が訪れ,やがてすべての現世的な快楽・野望を放棄し,福音書に記されているイエス・キリストの模範に従って生きようと決心する(1205)。托鉢しながら人々に罪の悔改めを説き,荒廃した教会を修復するフランチェスコの周囲には,やがて彼にならい,福音書の理想に従って生きようとする弟子たちの集団が形成され,1209年には〈小さき兄弟たちの修道会Ordo Fratrum Minorum〉(フランシスコ会の正式名称)の最初の会則が制定される。12年には,彼の影響によって回心したアッシジのクララに修道服を授け,ここにフランシスコ会第二会(女子修道会)が成立した。
フランチェスコの宣教活動はイタリア内部にとどまらず,シリア,モロッコ,および中近東に向けて旅立ったが,いずれも事故や病気のため成功するにはいたらなかった。他方,会員が増加し,組織が拡大するにつれて内部分裂のきざしがみられたため,フランチェスコは会員たちの精神的指導に全力を注ぐと同時に,会則の整備に着手し,21年,および23年最終的に改訂された会則を制定し,ローマ教皇ホノリウス3世の認可を受けた。晩年のフランチェスコは重病に悩まされ,盲目となったが,悲惨な境遇のただなかにあって,神によって創造されたすべてのものを賛美する《太陽の歌》を作った。彼は24年,アルウェルニア山上において,キリストの受難のしるしである聖痕を身に受けたと伝えられるが,これは文書に記録されている聖痕の最初の事例である。その2年後,26年10月4日にフランチェスコはフランシスコ会発祥の地,アッシジ近傍のポルティウンクラ(ポルツィウンコラ)修道院で没し,28年グレゴリウス9世によって列聖された。
フランチェスコの著作としては,イタリア国民文学の最初の作品と称せられる,前述の《太陽の歌》のほか,会則,祈り,会員たちに与えた訓戒書簡などが挙げられるが,そこから浮かび上がってくる彼の神学思想の特徴は,徹底的な心の貧しさの強調,教会に対するゆらぐことのない忠誠心,および聖体の秘跡に対する信心などである。最古の伝記としては,同時代人チェラーノのトマスによる二つの伝記,フランチェスコの3人の弟子,アッシジのレオ(《完全の鑑》),アンジェロ,ルフィーノによる伝記,およびボナベントゥラによる伝記のほか,《聖フランチェスコの小さき花》として広く読まれた伝記などがあるが,この最後のものは史実というよりは詩的伝説に近い。フランチェスコはキリスト教聖人のなかで詩人や作家の想像力に最も強く訴える一人であるが,彼の生涯を特徴づけている平和への熱望,人間を超えて自然界のすべての創造物にまでおしひろげられたキリスト教的愛は,現代のわれわれにも強い感銘を与える。
→フランシスコ会
執筆者:稲垣 良典
フランチェスコの波乱に富んだ生涯と逸話は,ヨーロッパの中世,ルネサンス美術に格好の題材を提供した。彼は美術作品においては,灰色または焦げ茶色の修道衣に三つの結び目をもつ縄(生涯の理想とした〈清貧〉〈純潔〉〈服従〉を象徴)を腰に巻く姿で表される。単独像では,骸骨,十字架を前にして祈る修道士として表される(エル・グレコ《瞑想するフランチェスコ》,1595ころ)。また彼の最大の奇跡であるセラピム(熾(し)天使)より聖痕を受ける場面(ジョット《聖痕拝受》,1320年代,フィレンツェ,サンタ・クローチェ教会)をはじめとして,〈財産の放棄〉〈火の証〉〈小鳥への説教〉〈清貧夫人との結婚〉などが,数多くの板絵や壁画の生涯伝連作に表された(アッシジ,サン・フランチェスコ教会上堂の同聖人伝壁画,1290年代など)。祝日は10月4日。
執筆者:篠 雅広
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フランシスコ会の創立者。聖人。アッシジの富裕な繊維商ピエトロ・ベルナルドーネPietro Bernardoneとその妻ピーカPicaの息子。20歳ころまで父の下で商売に従事したが、遊び好きで友人間に人気があった。1202年のアッシジとペルージア間の紛争に出征し、捕虜となった。獄中で病気にかかり、釈放後の療養中に、これまでの生活に疑問を抱き、不安のなかに祈りと貧者への奉仕に専念した。ローマに巡礼を試みた際、聖ペテロの墓所に路銀を財布ごと献金し、乞食(こじき)となって施与にすがって生活した。この体験で福音(ふくいん)中のキリストの貧しさを体験した彼は、それ以降、世俗の事物への執着を断ち、無一物となってキリストの生き方を己の生活の手本とし、奉仕と托鉢(たくはつ)の生活を始めた。この生き方に共鳴した若者が集まってくると、ローマに赴き、教皇インノケンティウス3世から修道会としての認可と説教の許可を受けた(1209ころ)。
謙遜(けんそん)に徹した彼は、己を「小さき兄弟」とよび、粗衣にはだしで兄弟たちといっしょに放浪のなかに、キリストの教えを人々に説いて各地を巡った。1212年、アッシジの貴族の娘クララが、彼の生き方に共鳴してその仲間となったが、彼はその女性たちのために修道会(第二会)を創設した。1214年ころ南フランスからスペインを旅し、1219年にはエジプトからパレスチナを巡歴した。病気を理由に会長職を辞任した彼は、教皇の命令に従って「会則」を執筆し、1223年に教皇から認可された。また、1221年ころには、世間に居住しながら彼の精神を生きようと望む人々のために、在世会(第三会)を創設した。
彼は自然のあらゆる存在を兄弟姉妹とよび(『太陽の賛歌』)、小鳥や魚に説教を試み、狼(おおかみ)を回心させるなどして、世人に神の慈愛を示した。1224年アルベルナ山上で、キリストから五つの聖痕(せいこん)を受け、その2年後の10月3日、アッシジのポルチウンクラにおいて帰天した。墓所は同地の大聖堂にある。
[石井健吾 2017年12月12日]
『オ・エングルベール著、平井篤子訳『アシジの聖フランシスコ』(1969・創文社)』▽『J・J・ヨルゲンセン著、永野藤夫訳『アシジの聖フランシスコ』(1977・講談社/平凡社ライブラリー)』
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イタリアの国民聖人。アッシジの商人の息子として生まれる。騎士的な生活に憧れて派手な青春時代を送るが,やがて回心し,フランチェスコ修道会の創始者となる。生涯清貧に徹して,万物に愛をそそいだ。
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…商才にも恵まれ,メディチ銀行の経営と公国の財政を立て直し,他方バザーリ,チェリーニなどおおぜいの芸術家を保護した。69年,公国はトスカナ大公国に昇格するが,後継者フランチェスコ1世Francesco I de’ M.は化学・物理にしか興味がなく,その治世下で財政は乱れ,国力は著しく低下する。次代のフェルディナンド1世Ferdinando I de’ M.は進歩的政策をとり,税制改革,農業商業の振興に努め,大公国は自由と活気を取り戻し,その存在はヨーロッパ列強の一つと認められた。…
…また,A.マンテーニャを宮廷画家として抱え,〈カメラ・デリ・スポージ〉に一族の生活を主題としたフレスコ画を描かせた。フランチェスコ2世(在位1484‐1519)の夫人イザベラ・デステは,ルネサンス期に活躍する女性の中でも最も魅力的な人物で,作家,芸術家に取り囲まれ,洗練された宮廷文化を繰り広げた。フェデリコ2世(在位1519‐40)は,神聖ローマ皇帝カール5世に献呈する〈ゼウスの愛の物語〉を扱った一連の作品をコレッジョ(1489‐1534)に委嘱。…
…古代ローマ時代の繁栄は,ミネルバ神殿,円形劇場,フォルムなどの遺跡にしのばれる。しかし,町が知られるのは,フランチェスコがここで生まれ,彼とフランシスコ会ゆかりの聖所が町や近郊に残されているためで,イタリアの主要な巡礼地である。聖人の遺体を安置したサン・フランチェスコ修道院教会(1228‐53)は,上下2堂からなる独特の重層形式による,イタリア初期ゴシック様式を示す。…
…アッシジの聖フランチェスコの最古の伝記の一つで,愛弟子のひとり修道士レオが師の言行を記録したものにもとづいて1300年ころまとめられた。福音書の伝えるイエス・キリストにならって生きることを決意し,もろもろの聖人たちのなかで最もキリストに近いと称せられるフランチェスコの姿を素朴で感動的な筆で描き出している。…
…それはカマルドリ会,カルトゥジア会,シトー会,プレモントレ会,騎士修道会,アウグスティヌス会,さらに托鉢修道会などで,ほかに女子のみの第2修道会や男女の第3修道会も成立した。新しい敬虔と〈神の国〉運動とを結合するこの改革は,12世紀に入ってクレルボーのベルナールにおいて頂点に達し,またアッシジのフランチェスコのような独特の人格を生んだのであるが,これらの人々にみる神秘主義は教会に対立する異端の登場と無関係ではない。 中世の異端は古代教会のアリウス派のように教義と信条をめぐって論争し,教会の外へ出て行くものではなく,むしろ教会的統一にさからい,その権威に従わないで熱狂的な行動を起こすか,あるいは権威と理性の対立を主張するものであった。…
…また13世紀末ころに編さんされたと思われる《ローマ人事績》は,古今の逸話およそ180編を集め,内容も雑多ではあるが,イギリスの学僧の手に成ると思われ,宗教的な敬虔が全般をおおい,宗教文学といわれるべき条も少なくない。一方イタリアに出た2人の修道会開祖,フランチェスコとドミニクスは,いずれもラテン語あるいはイタリア語で,教義や修道会会則,説教等を著した。中でも,フランチェスコの特異な人柄,その清貧の教えはその言行を録した《完全の鑑》に現れ,ことにイタリア語をもってした《太陽の歌》の〈いと高く,全能にまし善なる主よ〉は,中世を通じて最も浄(きよ)らかな歌の一つである。…
…これらに対して注目すべきは,フランシスコ会,ドミニコ会の建築である。アッシジのサン・フランチェスコ教会(1228‐53)はイタリアにおける最初のゴシック建築の一つであるが,フランスのアンジュー地方の初期ゴシック様式を採ったものである。13世紀後半から,イタリアをはじめ全ヨーロッパの都市にひろまった両托鉢修道会の特色ある建築は,フィレンツェのサンタ・クローチェ教会(フランシスコ会),サンタ・マリア・ノベラ教会(ドミニコ会)にうかがうことができる。…
… キリスト教でも,旧約・新約聖書に宗教的断食の記事が多く見いだされるが,なかでも荒野におけるイエスの40日にわたる昼夜の断食は有名である。またアッシジのフランチェスコがアルベルナ山に入ってから断食と祈りの生活に没頭し,自分の手足とわき腹にキリストの聖痕を得たことはよく知られている。カトリックでは斎日Fastというのがあって,大斎とか小斎という。…
…【長谷川 博】
[象徴,伝説]
ヒバリは朝を象徴する鳥であり,その歌声は清浄な愛をあらわすとされ,夜の愛を歌うナイチンゲールの対をなす。アッシジのフランチェスコは小鳥たちに説教したことで知られるが,とりわけこの鳥を愛でた。彼の死に際してはヒバリが寓居の屋根で輪をつくり,哀悼の歌をうたったという。…
…広義には分裂後独立したコンベントゥアル会,カプチン会をもふくむ。アッシジのフランチェスコの福音遵奉精神にひかれて1209年ころアッシジ近傍のポルティウンクラに集まった11人の有志によって発足した。清貧と謙遜の心得を説いた簡潔な〈原初会則〉があったと推測されるが,原文は散逸して伝わらない。…
※「フランチェスコ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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