文学研究の一分野で、2か国以上にわたる国際的な文学現象を巨視的に扱う。文学の実証的研究が高度に発達してくると、限定された一国文学内の視野では不十分な場合が頻出する。夏目漱石(そうせき)や田山花袋(かたい)や芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)の研究では、ある段階で当然彼らが外国の諸文学から摂取したものを知る必要に迫られるし、『源氏物語』の研究では、その中国古典文学との関連や、ウェーリー、サイデンステッカーらの英訳を通して海外でどのように読まれ、摂取されたかが問題となる。ダンテ、シェークスピア、ゲーテ、あるいは『聖書』『イソップ物語』『アラビアン・ナイト』『グリム童話』などの国際性はいわずもがな、森鴎外(おうがい)からドイツを、二葉亭四迷(ふたばていしめい)からロシアを、漱石からイギリスを、永井荷風(かふう)からフランスを、ラフカディオ・ハーンから日本を取り去っての研究は偏頗(へんぱ)のそしりを免れえない。ビセンテ、リルケ、ナボコフ、ベケット、野口米次郎(よねじろう)らのように、2か国語で書いた作家・詩人もいる。こうした、国文学者の手に負えない分野を扱うのが、数か国の言語・文学・文化に通じた比較文学者であり、国文学研究の後を受けてその重要な欠落部分を補うとともに、新たな展望を拓(ひら)く。
[小林路易]
文学の国際的伝播(でんぱ)(源泉と運命)、作家・作品の国際的影響(放出と受容)、異質の文学要因の併存(独創と暗合)など、事実関係の追究が比較文学の主たる任務であるが、ときには、ギリシア悲劇と能、シェークスピアと近松門左衛門、モンテーニュと吉田兼好(けんこう)のような類似性をもつ任意の二者間の「対比研究」や、文学のみならず芸術・文化一般の伝承・授受を扱う「比較文化学」をも手がける。海外文学との接触は、外国語に堪能(たんのう)な一部の読者や、森鴎外・上田敏・永井荷風・堀口大学などの翻訳者を除いて翻訳によることが多いから、翻訳および翻訳者の研究もまた「媒体研究」とよばれる比較文学のもっとも重要な一分野である。たとえば、『伊曽保(いそほ)物語』(イソップ物語)、『葉武烈土』(ハムレット)、『鈍機翁冒険譚(たん)』(ドン・キホーテ)など苦心のあとのにじんだ初期の翻訳、重訳、漢文訳や、『御伽婢子(おとぎぼうこ)』『雨月(うげつ)物語』から黒岩涙香(るいこう)、尾崎紅葉(こうよう)を経て、島崎藤村(とうそん)、芥川龍之介、中島敦(あつし)、太宰治(だざいおさむ)、三島由紀夫らに至る翻案文学など、興味深い対象が多い。そのほか、模倣・剽窃(ひょうせつ)・転訛(てんか)・もじりの研究、作家の読書や海外体験の研究、作家の目に映った、事実とは異なる外国のイメージ(迷景)の研究、国際的文学潮流(古典主義、ロマン主義、象徴主義、超現実主義、構造主義など)、国際的文芸ジャンル(ソネット、書簡体小説、歴史小説、日本漢詩、俳句など)の研究、海外における外国文学研究の実態調査など、研究領域はすこぶる広い。「比較文学」の名称は誤解されやすいが、かならずしも二者の比較ということではなく、本来は視野を国外にまで大きく広げて影響関係の実体を明らかにする一元的文学研究の意である。ただし、多元的、網羅的な広域研究もまた比較文学研究の一分野で、文芸思潮の国際的な広がりの全体的な把握は、とくに「一般文学」の名でよばれている。
[小林路易]
比較文学は、ヨーロッパ諸国の文学研究が近代以後、各国別・各言語別に画然と縦割りで行われるようになるにしたがっておこった相互交流の要請の産物であり、デンマークのブランデス、イギリスのセンツベリらの先蹤(せんしょう)を経て、19世紀末からことにフランスにおいて発達した。1921年、バルダンスペルジェFernand Baldensperger(1871―1958)とアザールによって『比較文学雑誌』と『比較文学叢書(そうしょ)』がパリで創刊されて以来、ルソー、ゲーテ、バルザックなど近代作家に関する細かい歴史的事実の精査を中心に、フランスでの比較文学研究は一大学派をなした。今日ではフランスのほか、アメリカ、ロシア、ドイツ、イタリア、オランダなど世界の主要国のほとんどすべてに大なり小なり比較文学の研究センターが置かれ、活発な研究活動が行われている。
日本では明治20年代、坪内逍遙(しょうよう)の「比照文学」「兄弟文学」に始まり、第二次世界大戦後、東京大学・早稲田(わせだ)大学などいくつかの大学と日本比較文学会(1948設立)を中心に急速に発達した。なかんずく、東大に比較文学比較文化専門課程を創設した島田謹二の斯学(しがく)への貢献は大きい。
現在、比較文学は転換期にあり、今後、在来の微視的、実証的な研究と相まって、さらに広く、さらに自由に世界の文学現象が検討され、傑作誕生の神秘や、各国・各文明圏の文化的特性、ひいては全人類にとっての文学・芸術の究極的な意義が闡明(せんめい)されるようになることが期待されている。それと同時に、比較文学の研究成果の多くは、直接各国文学それぞれのなかへ分散して取り込まれるのが当然とみられるようになってきたから、比較文学はそれ独自の発達とともに、各国国文学の一分野の相貌(そうぼう)も呈しはじめている。
[小林路易]
『ギュイヤール著、福田陸太郎訳『比較文学』(1953・白水社)』▽『早稲田大学比較文学研究室編『比較文学――方法と課題』(1970・早稲田大学出版部)』▽『中島健蔵他編『比較文学講座』全4巻(1971~74・清水弘文堂)』▽『亀井俊介編『現代比較文学の展望』(1972・研究社出版)』▽『吉田精一他編『比較文学』(1972・潮文社)』▽『ヴァン・ティーゲム著、富田仁訳『比較文学』(1973・清水弘文堂)』▽『芳賀徹他編『講座比較文学』全8巻(1973~76・東京大学出版会)』▽『島田謹二著『日本における外国文学』全2巻(1975、76・朝日新聞社)』▽『ヴァイスシュタイン著、松村昌家訳『比較文学と文学理論』(1977・ミネルヴァ書房)』▽『松田穣編『比較文学辞典』(1978・東京堂出版)』▽『富田仁編『20世紀文献要覧大系16 比較文学研究文献要覧――日本近代文学と西洋文学1945~1980』(1984・日外アソシェーツ)』▽『佐々木英昭編『異文化への視線――新しい比較文学のために』(1996・名古屋大学出版会)』▽『渡辺洋著『比較文学研究入門』(1997・世界思想社)』▽『安徳軍一著『比較文学の視座 異文学間の言語宇宙』(1999・梓書院)』▽『秋山正幸著『比較文学の地平 東西の接触』(2000・時潮社)』▽『Y・シュヴレル著、福田陸太郎訳『比較文学』(2001・白水社)』▽『小林路易著『掛詞の比較文学的考察』(2001・早稲田大学出版部)』
各国文学の間の国際的影響,交流,対応関係に関する研究。
ヨーロッパ諸国における近代的文学研究は,まず,18世紀末から興ったナショナリズムの風潮を受けて,各国文学それぞれ個別に,独立一貫した流れとしてとらえようとする方向に進んだ。これが,一国の文学の発展を順に時代を追ってたどる,いわゆるイギリス文学,フランス文学,ドイツ文学などの方法であり,現在に至るまで文学研究の正統主流の位置を占めている。だが,19世紀に入ると,こうした〈国文学〉的研究の発展と並行して,一国の枠内には収まりきらない,国境を越えた文学の移動交流の動きを重視する見方が現れてきた。これは,近代ヨーロッパのように諸国が密接な政治的・文化的交流関係にあり,人々や情報の往来も盛んな世界では当然の発想であり,早くはドイツのゲーテ,フランスのスタール夫人らにそうした視野の芽生えがみられるが,やがて19世紀中葉から後半に入ると,しだいに独立した学問研究へと発展していった。デンマークのG.ブランデスの《19世紀文学の主潮》(1872-90),イギリスのH.M.ポズネットの《比較文学》(1886),ドイツのM.コッホの《比較文学雑誌》創刊(1887)などはその先駆であるが,なかでも中心となったのはフランスで,当時のフランス文学研究の大家F.ブリュンティエールは全欧的国際文学史の構想を精力的に提唱,その弟子にあたるテクストJoseph Texte(1865-1900)は比較文学畑における最初の学位論文《J.J.ルソーと文学的コスモポリティスムの起源》(1895)を著し,1896年にはリヨン大学に創設された最初の比較文学専門講座の教授に就任した。ここにほぼ学問研究としての比較文学は公認,確立されたといえる。
ついで20世紀に入ると,比較文学は引き続きフランスを中心に急速に発展した。その軸となったのは主としてバルダンスペルジェFernand Baldensperger(1871-1958),アザールPaul Hazard(1878-1944),バン・ティーゲムPaul van Tieghem(1871-1948)の3人の大家で,それぞれ,バルダンスペルジェは《フランスにおけるゲーテ》(1904)で作家が外国においてどのように受け取られていったかを調べる受容の研究を,アザールは《ヨーロッパ精神の危機》(1935)で諸芸術,学問,ジャーナリズムなど文化領域全般にわたり一時代の国際交流の諸相を調べる比較文化的研究を,バン・ティーゲムは《前ロマン主義》(1924-30)で特定の芸術思潮の国際的発展の歴史をたどる研究を,というようにめざましい研究分野の開拓に尽くした。その段階で現在までの比較文学研究の基本的な枠組み,方法論がほぼ固まったといえるが,きわめて多岐,広範囲にわたる研究領域を統括し,学問としての一貫性,客観性を確保するために,これらフランス派比較文学流派はひとつの基本原則を打ち出した。それは,比較の対象を,あくまで実際に接触交流があり,それを事実で裏づけうる文学現象の範囲に限定するということである。これは,確実な基準もなく思いつきであれこれを比べ合わせるという態度を戒め,この発展途上の学問に学問としての厳密な基礎を与えるための原則であり,20世紀前半の比較文学研究はおおむねこの原則に忠実に従い,主として近代ヨーロッパ内部での文学作品の受容,影響の実証的研究に集中した。
こうして,フランス実証学派比較文学研究は戦前までの学界を名実ともにリードし,大きな成果を挙げたが,やがてその弊害も現れるようになった。それは,事実による裏づけ,実証を重視するあまり,対象とする文学作品の内的本質に迫るよりも,接触交流の事実関係調査という作品の外的要因の研究を形式的,機械的に量産する結果となってしまったことである。これに加えて,従来の研究対象はあまりにヨーロッパに集中されており,ヨーロッパ外への視野に乏しかった。そして,これら直接的接触交流の少ない世界的規模での比較文学研究には,ただ実証一点張りの,受容,影響関係を中心とした方法だけでは不十分だった。
こうした反省の上に立って,戦後アメリカを中心に激しい反フランス派比較文学の動きが生まれた。多数の民族,文化が混在し,旧来の伝統にとらわれない新しい発想を受け入れるこの新興大国において,ウェレックRené Wellek(1903-95),アウエルバハErich Auerbach(1892-1957)ら,みずからもヨーロッパから移住してきた研究家を軸に,活発な理論,実践の試みが展開された。このアメリカ派は,戦前のロシア・フォルマリズム,アメリカのニュー・クリティシズム,言語学,修辞学など,多彩な関連領域の方法を導入して,一方では文学作品の内在的構造を分析し,そこからさらに文学の一般理論の構築に向かい,他方ではこうした構造分析的・一般理論的視点に立って,直接には接触交流のない文学作品間の類似,対応関係を巨視的に展望する,いわゆる対比研究の方向に,というように野心的,挑戦的な分野を開発した。従来のフランス実証学派と激しく対立したが,そのフランス内部においても,60年代に入ると,パリ大学のエティアンブルRené Étiembleらの発想方法の革新を唱える動きが現れて,百家争鳴の様相を呈した。以後,フランス,アメリカ以外にもソ連,ドイツ,イタリアなど各国でそれぞれに新しい動きが生まれ,今日,比較文学研究の方向は大きく揺れ動きながら拡大されつつあるといえる。
日本における比較文学の紹介は,1890年ごろ坪内逍遥によって始められ,その後,上田敏,厨川(くりやがわ)白村,矢野峰人らに引き継がれて進んだが,本格的,専門的な学問分野として確立されたのは,ようやく第2次大戦後のことといえる。1948年〈日本比較文学会〉が発足し,さらに53年には最初の専門的研究教育機関として東京大学大学院に〈比較文学・比較文化課程〉が創設され,島田謹二らを中心に盛んな活動が始まった。当初は,フランス実証学派の方法論を踏襲して,おもに西欧文学の近代日本における受容,影響の分野で多くの成果を挙げたが,やがて60年代から70年代に入ると,アメリカ派の方法論などの刺激も受けて急速に研究の視野は拡大し,外国に出た日本人また逆に日本に来た外国人の異文化体験の研究,美術・思想・風俗などの領域での比較文化的研究,明治以前の日本と西欧の接触の研究,中国・朝鮮などアジア諸国との交流の研究など続々と新分野が開発された。方法論的にも対比研究のほか,社会学,文化人類学,言語学など種々の隣接方法論が導入されて,日増しに活況を呈している。そして,これに応じて,同様に新領域に活動を広げつつある諸外国の研究者との交流も,国際学会,留学,教授交換などを通じて密接なものとなってきた。とりわけ特筆すべきことは,従来外国文化に対して受身的に摂取する一方であった状況から一変して,多くの外国人研究者が比較文学あるいは比較文化的視野から日本に本格的,積極的な関心を向け始めたことで,たとえば東大の課程には近年急速に各国からの研究者が集まり,セミナーなどでも盛んに日本語で発表討論を行うといったような光景が日常的に見られるようになった。こうした比較文学・比較文化分野での国際交流現象は,研究領域,研究方法の拡大と並行して今後いっそう進むであろう。
執筆者:大久保 喬樹
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