改訂新版 世界大百科事典 「デンマーク映画」の意味・わかりやすい解説
デンマーク映画 (デンマークえいが)
世界映画史上,デンマークはまず,接吻とバンプvampを生んだ国として知られ,次いでカール・ドライヤーという巨匠の名に値する大監督を生んだ国として評価される。
1906年に世界で最初のメジャー(大手)の映画会社の一つ,ノルディスク社がオーレ・オルセンによって創立され,10年代には早くも最初の黄金時代を迎える。アウグスト・ブロムAugust Blom,ウアバン・ガーズUrban Gadといった監督による姦通と犯罪の社交界メロドラマが〈妖婦(バンプ)と接吻という二つの欠くべからざる要素〉を映画にもたらし,世界中で大成功を収めた(ジョルジュ・サドール《世界映画史》によれば〈唇と唇が長々と官能的に触れ合い,恍惚となった女性は顔を後ろにのけぞらせた〉ので世界中でスキャンダルになるというほどの反響だったという)。同じころイタリアがスクリーンの〈ディーバ(女神)〉を生み出してハリウッドの〈スター・システム〉の模範となったように,デンマークはロマン主義文学から生まれた〈ファム・ファタール(運命の女)〉を〈典型的な映画的人物に作りあげてバンプと名付け〉(ジョルジュ・サドゥール《世界映画史》),セックスを夢という名の商品にして売り出して世界を制覇するハリウッドのお手本となるのである。とくに目のふちに黒いくまをつくり,ほおが落ちくぼんだ凄絶な美に輝く〈悲劇女優〉,アスタ・ニールセンAsta Nielsen(《深淵》1910,《テンプテーション》1911)は国際的な人気スターとなり,〈北欧のドゥーゼ〉〈スカンジナビアのサラ・ベルナール〉などとも呼ばれた。
しかし,ニールセンは夫のガーズ監督とともにドイツに去り,やがてデンマーク映画はドイツの表現主義映画(表現主義)にとって代わられる。また他方では,新興のスウェーデン映画がデンマーク映画に代わって北欧を支配するようになり,第1次世界大戦後のデンマーク映画は急速に衰弱していく。《密書》(1913)でデビューした怪奇趣味のベンヤミン・クリステンセンBenjamin Christensenは,スウェーデンで彼の最高傑作として知られる《魔女》(1919-21)を撮り,それからドイツをへてハリウッドにいき,《悪魔の曲馬団》(1926),《妖怪屋敷》(1928),《恐怖の一夜》(1929)といったアメリカ製の〈ホラー映画〉に北欧の神秘主義から生まれたその怪奇趣味を埋没させ,また,《裁判長》(1918)と《サタンの書の数頁》(1919)でデビューしたカール・ドライヤーも,スウェーデン,フランス,ドイツをへて(怪奇映画の傑作として知られる《吸血鬼》(1932)はドイツとフランスの合作映画である)戦後になってやっとまたデンマークに戻るまで孤高の歩みを続けることになった。
その後は60年代に脚光を浴びたヘニング・カールセン(《飢え》1966,《花弁が濡れるとき》1967),70年代に登場したイェンス・ヨーゲン・トースン(《クリシーの静かな日々》1970)といった監督の名が記憶される。
執筆者:広岡 勉
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報