日本大百科全書(ニッポニカ) 「デーリー・ミラー」の意味・わかりやすい解説
デーリー・ミラー
でーりーみらー
The Daily Mirror
イギリスの大衆日刊紙。1903年に、アルフレッド・ハームスワース(後のノースクリフ卿(きょう))が「淑女のための新聞」として、女性中心のスタッフのもとで創刊した。24ページに簡潔な一般ニュース、社交、流行、ゴシップ、音楽評等々を盛り込み、広告も豊富で、価格は1ペニー。しかし、当初は部数が伸びず、1904年に世界初の写真入り新聞に衣替えし、価格も半ペニーに値下げしてから伸張が著しかった。1910年には、棺(ひつぎ)に横たえられたエドワード7世の遺体を撮影し、初めての写真スクープをものにした。1914年、A・ハームスワースは同紙を弟のハロルドHarold Harmsworth(後のロザミア卿)に売却する。その後1950年には約460万部、1964年には約500万部を記録するなど大部数紙となった。センセーショナルなニュースで知られるが、第二次世界大戦中は、1934年から主筆となっていたハリー・ガイ・バーソロミューHarry Guy Bartholomew(1884―1962)の編集方針が受け入れられ、労働者大衆にもっとも読まれる新聞となった。1951年にハームスワース一族の一人であるセシル・キングCecil King(1901―1987)が経営を受け継いだが、1968年に労働党政権の首相ウィルソンの退陣を求める社説を載せたために批判を浴びて失脚した。その2年後にはリード・インターナショナルと合併したが、徐々に経営に陰りがみえはじめ、1984年には、チェコスロバキア生まれのメディア経営者ロバート・マクスウェルRobert Maxwell(1923―1991)に買収された。マクスウェルは1991年に自殺といわれる不審死を遂げ、低迷の続く『デーリー・ミラー』はライバルのルパート・マードック所有のタブロイド紙『サン』との部数競争によって紙面が低俗化した。1999年には新興の地方紙グループであるトリニティ(1985年創立)と合併し、トリニティ・ミラー・グループとなった。部数は2000年の227万部から2011年には119万部へ大幅に減少した。
[橋本 直]