保守党(読み)ほしゅとう(英語表記)Conservative Party

精選版 日本国語大辞典 「保守党」の意味・読み・例文・類語

ほしゅ‐とう ‥タウ【保守党】

[1] 保守主義を政治上の立場とする党派。ほうしゅとう。
※内地雑居未来之夢(1886)〈坪内逍遙〉一〇「保守党(ホシュトウ)の敗北した塩梅なんざア、実に愉快極ったぜ」
[2]
[一] イギリスの政党。一八三〇年ごろからトーリー党後身として形成された。自由党と交替で政権を担当。一九世紀末には帝国主義政策を推進した。第一次世界大戦後は労働党と対立して二大政党政治を展開している。
[二] ドイツの政党(一八七六‐一九一八)。自由保守党とともにドイツ帝国(第二帝政)を支えた政党。国家人民党はその後身。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「保守党」の意味・読み・例文・類語

ほしゅ‐とう〔‐タウ〕【保守党】

保守主義の立場をとる政党。

平成12年(2000)に自由党過半数国会議員が離党して結成した政党。同党の自由民主党との連立政権離脱方針に反対し、政権に残留。平成14年(2002)に解党し、一部議員が民主党離党者と合流し保守新党を結成した。
英国の政党。労働党と並ぶ二大政党の一。1830年ごろトーリー党の後身として形成。当初は貴族・地主の、現在は産業資本の利益を代表する。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「保守党」の意味・わかりやすい解説

保守党 (ほしゅとう)
Conservative Party

イギリスの主要政党の一つ。20世紀初頭から1997年5月の敗北までの97年間に,連立を含め政権の座にあった期間は3分の2に近い63年に達する。イギリス政治の宿弊であるアイルランド問題をめぐり,19世紀末から1920年代まで〈統一党Unionist Party〉を名のる時期もある。保守党は院内党名で,院外組織名は〈保守および統一協会全国同盟National Union of Conservative and Unionist Associations〉である。保守党が党員数を公表することはまれだが,1980年代に約120万人程度だったとする推定がある。年1回党大会が開かれるが,政策・人事上の影響力は概して低い。中核的支持基盤は財界,中産階級,農村部上層にあるが,90年代の調査によれば労働者階級の4割程度が同党支持に回る。党首は上院有力貴族の意向,下院の動向,首相指名などをもとに〈浮上〉するのが伝統とされたが,1965年および74年の改革で党下院議員による厳格な投票制が確立され,サッチャーやメージャーJohn Major(1943- )ら新しいタイプの党首の登場を促した。

 世界で最も早く近代化が始まり,強力な民衆的組織政党を発達させたイギリスで,保守を正面に掲げる党が今日まで強固な政党として存続してきたのはなぜかが,ときに問題になる。その答えの一部は問い自体に含まれている。外圧によらず徐々に近代化が進んだ結果,伝統的な地位・影響力の維持に有効な〈前近代的要素〉,すなわち王室,国教会,貴族院などの制度とそれを支える身分的序列感覚が,近代化と部分的な共生関係を保ちながら維持され,説明抜きで政治に利用できたのがその一因である。また対抗政党である自由党,ついで労働党が未来先取り型の綱領政党化しがちだったことが,漸進主義に立つ保守党の存在理由を強めた点も指摘できる。時代の先取りを本領とする綱領型政党は,当の時代の到来によってみずからの政治的存在理由を弱め,結果として行過ぎや理論の名による硬直化の追認に陥りやすい(したがって厳格な世界観政党の政権維持には,過度の権力支配,または,腐敗による一党独裁の危険が伴う)。他方保守党は,対抗政党の支持勢力を弱め中立化するのに適切な時機と範囲で相手の政策を採用し追認するという利点に恵まれ,かつそれは政治的な要請,端的には選挙上の要請を支配動機とする点で,政策の背景となるイデオロギーや支持基盤に拘束される度合が小さい。そこに〈国民的合意の党〉〈実務と分別の党〉などのイメージ培養基盤が生まれる。誕生まもない保守党を〈組織された剽窃(ひようせつ)organised hypocrisy〉〈トーリーの人間によるホイッグの政策Tory men and Whig measures〉と批判したにもかかわらず,結局はそれを最も効果的に実行し,党興隆の基礎を築くことになるのは,B.ディズレーリにほかならなかった。ここに保守党の一面が如実に現れている。もっとも,20世紀初頭の硬直した政治姿勢や1970年代以降の労組との対決姿勢にみられるように,この種の操作につねに成功するほど党がイデオロギーから自由なわけではないが,党首が高い指導者的地位を認められ,党が概して党首に従順な立場を守るのも,上記の規範的保守党イメージと関係する。なお集権的な内務・警察機構や常備軍の発達が微弱だったことから,過激な対抗運動に対して実力弾圧の余地が少なく,かつ相対的に富裕で開明された貴族・地主には,買収や譲歩などの政治性の濃い対応余地の大きかったことが,保守党に柔軟な漸進主義を許容する土譲となった。

 発生の直接起源は,選挙法改正要求に代表されるような改革運動の急進化のみならず,これに反発して過剰な現状維持に走る頑迷派トーリーにも対抗するため,E.バークの保守的政治哲学やフランスから輸入された〈保守の党parti conservateur〉の概念をよりどころに,R.ピールが中心となりトーリー党が保守党に再編された1834年にさかのぼる(もっともそれ以降もトーリーという呼称は保守党と同義で頻繁に用いられる)。46年の穀物法撤廃を契機に,ピールら党中枢議員と一般議員・農村支持層との対立が激化し,非ピール派の党本体は一時〈保護主義党Protectionist Party〉を名のって翌年の総選挙以降分裂が表面化する(非ピール派に近代保守党の起源を求める有力な見解もある)。その後党名を元に戻し,穀物法撤廃を追認したにもかかわらず,約20年間,同党は農村地主的で〈まのぬけた党stupid party〉とみなされがちで,パーマストン下の自由党が強力な統治政党としての地位を長く享受したこともあって,短期かつ非力な2度の例外(1852,58-59)を除き,万年野党的低迷を続けた。ダービー少数保守党政府による67年の選挙権の大幅拡大と,ディズレーリ首相下の70年代中葉の社会改革諸法の導入および党組織の整備は,それまで政治的市民権を否認されていた,都市部を中心とする労働者の多くを体制に組み込み,保守党地盤とする試みであり,党躍進の基礎を築いた。もっとも選挙法改正は,ディズレーリのみならず党,ひいては政治体制全般を一か八かの危険な賭,つまりディズレーリの言う〈暗闇の跳躍leap in the dark〉に引き込む決断であり,新有権労働者の保守党化という直接効果よりも,自由党に打撃を加え,結局は,両党を大衆組織政党に向かわせた点でより大きな意味がある。また〈トーリー民主主義Tory democracy〉という名の社会改良の提唱も,同時代の労働者の社会状態の改善よりは,後世の保守党内改革派のイデオロギー的基盤の強化に貢献することになる点に,いっそう大きな効用が認められる。つまり,80年代中ごろまでの同党は統治が当然の権利であり義務であると内外ともに認めるという意味での〈自然的統治政党〉にはまだ距離があったといえる。

 しかし1885年のグラッドストーンによるアイルランド自治政策の提唱および翌年の法案提出を契機に自由党が分裂したこと,この結果すでに進行していた都市部非国教会系産業資本家・中産階級の自由党離れが加速されたこと,都市部を中心に保守党組織の強化が進んだことなどから,86年の総選挙では,伝統地盤の農村部以外に,全国226バラ(独立都市)選挙区の過半数の114区で保守党が勝つ。この勝利以降,自由党から分裂した自由統一党との連携を基に,ボーア戦争時のような熱狂的・好戦的国家感情,いわゆるジンゴイズム高揚にも助けられ,ソールズベリー首相の保守党はつごう13年半に及ぶ政権掌握に成功し,都市化し産業化した社会諸勢力を取り込んだ〈国民的〉〈帝国的〉な統治党としての地位の確立をみる。他面,同時期にイギリスの経済競争力や帝国の政治的・経済的な効用低下も進み,党内に保護貿易主義の台頭とそれによる指導力・党イメージの低落が生じたため,1906年の総選挙は157議席という党史上最悪の敗北に終わる。しかも統治党としての過信と惰性は自由党政府の〈人民予算〉やアイルランド問題に対する過激で硬直した対応を呼び,極度に悪化した社会状況をさらに緊張させた。この党および社会を危機から救ったのは第1次大戦である。戦争の長期化と全体化によって自由党が哲学と組織を消粍し戦時連立内閣を契機に分裂・弱体化していくのとは対照的に,保守党は自由党の風雲児ロイド・ジョージを連立内閣の首相にかつぐことで戦後の党勢回復に成功する。自由党から労働党への基軸政党の移行や,経済大恐慌時の労働党の分裂といった政界再編成に伴う混乱のなかで,一貫して党の一体性を保った保守党は,第2次大戦前最後の1935年総選挙で53.7%の得票率を記録した。

 労働・自由両党を含んだ戦時連立内閣の首相として苦しい戦いを勝利に導いた救国の英雄W.チャーチルを前面に出して選挙に臨んだ保守党にとって,戦後第1回の45年総選挙の敗北は大きな衝撃となる。しかし先立つ30年間の大部分を政府党として過ごした保守党にとって,敗北は再教育の好機ともなった。戦時連立で労働党との政策的共通性や相互了解が強まっていたのを背景に,H.マクミラン,R.A.バトラーらを中心に〈ディズレーリ伝統〉に依拠する基本政策の刷新と,党組織の民主化,近代化が進められる。この結果,ケインズ流の混合経済主義を基調に,のちに〈バッケリズムButskellism〉(それぞれ蔵相の経験をもつ保守党のバトラーと労働党のH.T.N.ゲーツケルの名の合成語に由来する)と呼ばれるようになる福祉主義的国家運営の面における,労働党との収れん現象が生まれた。その後労働党の内部抗争の激化や全般的な経済繁栄に支えられ,50年代前半の最盛時には280万人に達した党員を背景に,51年以降13年間に及ぶ長期政権期に入った。しかし70年代に入り深刻さを増した経済・財政状態の下で,政権のいかんを問わず,公共部門の肥大化を伴う統治方式の維持は困難となる。労組との正面対決を争点に掲げ74年総選挙に惜敗したE.ヒースが,大幅に改定された党首選出規則によって退けられたのをうけて,番外のサッチャーが党首に急浮上する。

 初の女性首相(在職1979-90),中産階級下層の出身,党首への昇進経路・選出方法,戦後の合意政治見直しの強調などの諸点で,〈鉄の女性Ironlady〉とあだ名されるサッチャーの政治スタイルは保守党の歴史に一時期を画した。
保守主義
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「保守党」の解説

保守党(ほしゅとう)

①〔イギリス〕Conservative Party イギリスの政党,トーリ党の後身。選挙法改正後の1830年代に従来の「トーリ」に代わって保守党を名乗るようになり,ピールが必要な改革は容認する保守の理念を明らかにして時代の趨勢に応じたが,穀物法の廃止をめぐって党内が分裂。自由貿易を唱えるピール派が離脱したあと,ディズレーリが党勢の立て直しを図り,グラッドストン自由党と競って二大政党制による議会政治を展開した。内政面ではトーリ・デモクラシーを旗印に大衆社会状況に対応する政策を追求したが,外政面では露骨な拡張主義の帝国主義政策をとった。第一次世界大戦後,自由党が凋落すると,古い体質からの脱皮を図り,労働党を相手に,二大政党制を維持している。

②〔ドイツ〕Deutsche Konservative Partei ドイツの政党。1848年三月革命ののちプロイセン保守派は結集してユンカーの利益擁護にあたったが,ビスマルクの統一事業が進展するにつれて混乱し,66年ビスマルクを支持する一派は自由保守党を結成,本流は76年全ドイツ的な規模で勢力を再編成しドイツ保守党を結成した(~1918年)。以後両保守党は政府与党となり農業の利益擁護と体制の維持に努めた。国家人民党はその後身である。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「保守党」の解説

保守党
ほしゅとう
Conservative Party

イギリスの政党
トーリー党の後身。おもに地主貴族の利害を代表して1830年ごろ成立。ホイッグ党の後身である自由党と二大政党政治を展開し,帝国主義を推進した。第一次世界大戦後からは労働党と対立し,しばしば政権を担当している。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の保守党の言及

【イギリス】より

… 19世紀後半に入り,都市化と産業化の成熟,あるいは1867,84両年の選挙権の大幅拡大などを背景に,トーリーとホイッグは,土地貴族支配を頂点では残しながらも,院外党組織の拡充,党規律の強化,社会政策の積極的導入を進めた。この過程で名望家政党から大衆組織政党への脱皮が進み,トーリーは保守党,ホイッグは自由党と名称も変え,現代的な二大政党制が成立する。同時に,選挙によって多数派となった政党が,党首を首班とする内閣を通して,選挙公約に掲げた一連の政策を実施する傾向,つまり政党内閣化が進んでいく。…

【政党】より


[イギリス]
 しかし,政党はまさしくこの時期に発達し,しだいに政治的に無視できない勢力を形成するようになった。イギリスの場合,のちの保守党,自由党へと発展していくトーリー派とホイッグ派の対立は,17世紀に始まる。そして18世紀初頭のR.ウォルポールや,18世紀末から19世紀初頭のW.ピット(小)の活躍により,議会内の多数派が政権を担当する議院内閣制が確立するに至り,さらに1830年の総選挙でのトーリー党の敗北によって,50年ぶりにホイッグ党が政権に復帰し,32年の選挙法大改正前後のころから保守党と呼ばれるようになったトーリー党とホイッグ党の交互の政権担当により,〈議会主義の黄金時代〉が現出されることになった。…

【トーリー党】より

…イギリスの保守党の前身。ピューリタン革命期の王党派にその起源を求めることもできるが,通常は1670年代末に国王チャールズ2世の後継者をめぐる対立のなかで,血統による王位継承と国王大権とを擁護しようとした党派をさす。…

※「保守党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

潮力発電

潮の干満の差の大きい所で、満潮時に蓄えた海水を干潮時に放流し、水力発電と同じ原理でタービンを回す発電方式。潮汐ちょうせき発電。...

潮力発電の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android