イギリスの保守政党。1世紀半にもわたるその歴史と、つねに政権を担いうる党としての強靭(きょうじん)さで、国内はもとより、外国をみてもほかに比類のない伝統ある統治政党。
[犬童一男]
18世紀末葉から19世紀前葉のトーリー党の後身。18世紀に長くホイッグ党一党体制が続き、トーリー党組織の連続性が確証されがたいので、通説では、17世紀名誉革命当時のトーリー党までさかのぼらない。トーリー党にかわる保守党が形成されるのは1830年以降である。この年に初めて近代政治的意味をもった保守conservativeということばが評論誌で使われ、それ以来、刷新されつつあったトーリー党が保守党とよばれるようになった。1832年の第一次選挙改革前に、のちに中央本部ができるまで党本部の役割をもった議員組織のカールトン・クラブが設けられた。第一次改革後には、全国各地に保守党協会やクラブといった地方組織が生まれた。そして1841年総選挙で初めて多数を制し、ロバート・ピールの下に政権の座に返り咲く。しかし1846年の穀物法撤廃で分裂し、ピール派Peelites(自由貿易派)が党を離れるが、その後、1867年に第二次選挙改革を行ったディズレーリの下に、大衆政党としての保守党が構築された。彼の下に1867年に保守党全国連合が創設され、1870年には中央本部も設立された。1868、1874~1880年に内閣を率いたディズレーリは、大衆の体制内化を図る近代的保守主義を唱えて諸改革をなし、かつ帝国主義とよばれる対外政策を推進した。彼の保守主義は、後世の保守党政治家に継承されてきた。
1886年には、J・チェンバレンがアイルランド自治法案への反対から自由党を出て自由統一党をつくった。保守党はこの党と連合し、初めソールズベリー、のちにはバルフォアの下に1905年まで、1892~1895年を除く17年間政権を握った。この連合から保守党は統一党Unionistともよばれたが、自由統一党は1910年代に保守党に吸収される。
[犬童一男]
1906年総選挙での敗北後野党となるが、1914年に戦時連立内閣に入り、1922年ロイド・ジョージ連立内閣を倒し、保守党ボナ・ロー内閣を樹立。ボールドウィン内閣(1923、1924~1929年)がこれに続き、社会政策を重視した。1931年からの挙国一致内閣では、保守党が実権を握り、1935~1937年ボールドウィン第三次内閣、続いて1940年までN・チェンバレンNeville Chamberlain(1869―1940)内閣となる。第二次世界大戦中の戦時指導はおもに、同年5月首相となったW・チャーチルの戦時連立内閣によって行われた。この内閣は、「ゆりかごから墓場まで」という社会福祉制度の青写真を示したビバリッジ報告によって大々的な社会改革に着手し、教育改革も遂行したが、1945年7月総選挙で敗れ労働党に政権を渡した。
労働党政権下の野党期に保守党は、目覚ましい党改革を行った。有能な党員が資金はなくても下院議員候補者になれる組織改革、福祉国家を認めた産業憲章の制定などである。こうして保守党は再生し、1951年チャーチルの下に政権の座に戻った。労働党は外交問題で分裂状態に陥り、1951年、1955年、1959年と総選挙で連敗した。比較的繁栄期でもあり、チャーチル引退後、政権はイーデン(1955~1957)、マクミラン(1957~1963)、ヒューム(1963~1965)と引き継がれた。その後6年の労働党政権を経て、1970年にヒース内閣が成立するが、労組対策と経済運営の困難さから、1974年に崩壊。その翌年サッチャーが党首に選ばれ、1979年総選挙で保守党は政権の座に返り咲く。
[犬童一男]
サッチャー内閣はマネタリズム(貨幣主義)の経済政策でインフレを抑制しただけでなく、イギリスを抜本的に立て直す課題を設定し、それに応じた。国営産業の民営化、行政改革、教育改革のほか、ユニオン・パワーを抑えこんだ労働組合改革などである。これらの政策によって1980年代にイギリスは大きく変わり、第二次世界大戦後の混合経済・福祉国家からアメリカ型の市場経済の国に近づいた。こうした変革に伴い、1980年代から大量の失業者と貧困家庭が生じたが、イギリス国民は確信に基づくサッチャリズムの政権を支え、保守党は1983年と1987年の総選挙でも圧勝した。
しかし、首相のサッチャーは1990年11月に行われた保守党下院議員による党首選挙第1回投票の結果、党首の座から降り、第2回投票で蔵相メージャーが党首に選ばれた。保守党党首の選出方法は、1965年にヒースが党首に選ばれたとき以来、首脳たちの密室協議による方式から全議員が選ぶ方式になった。サッチャーが引退を余儀なくされたのは、彼女の政権末期におけるその統治のあり方が政権党内でも問題にされ、閣僚間ですら首相が信望をなくしていたことによる。外相ハウSir Geoffrey Howe(1926―2015)の下院での辞任演説(1990年11月)は、首相のEMU(経済通貨同盟)に消極的な政策などへの批判であった。また財産税(レートRates)にかわる住民税として導入を強行した人頭税(ポールタックスPoll Tax)とよばれたコミュニティ・チャージ(すべての国民に均等課税する税制)には世論が反対し、保守党内でも批判の声があがった。
[犬童一男]
1990年の党首選の結果メージャーが首相となる。彼の課題は前政権末期に崩れかけた政権党の統一性を修復し、国民の支持を取り戻すことにあった。外相には閣僚歴豊かで外交通のハードDouglas Richard Hurd(1930― )を留任させ、コミュニティ・チャージ税制を見直すために元国防相のヘゼルタインMichael Ray Dibdin Heseltine(1933― )を環境相に任命した。外相ハードの下に、EC(ヨーロッパ共同体)外交は順応的なものとなり、ポール・タックスも環境相ヘゼルタインの下、見直されて自治体税(カウンシル・タックス)となった。こうして前政権末期の行き過ぎた政策は是正されたが、民営化は水道、電気にまで広げられ、教育、労働などの1980年代の改革も堅持された。このようにメージャー内閣はサッチャリズムの多くを受け継いだ政権であったが、その目標は1992年の総選挙で信任され保守党4連勝を達成することであった。そして1992年4月総選挙で、キノックNeil Gordon Kinnock(1942― )が率いる労働党を振り切ってこれを成し遂げ、保守党政権は13年を超える長期政権となった。
だがこの政権は当初から多難であり、あまり人気のない政権でもあった。1992年9月イギリスの通貨ポンドの為替相場が投機によって落ち込み、ERM(為替相場メカニズム)からイタリアの通貨リラとともに外されたことで、経済運営で信頼されていた保守党は面目を失くした。また減税の党としての保守党のイメージも、付加価値税(VAT)の増税によって失われた。1979年には8%であったVATは1990年代に入りその税率を上げ、1993年には家庭用光熱費(電気・ガス)にまで8%、1995年から17.5%の課税を決めた。しかしこれには反対が強く後者は実施されなかった。イギリスはマーストリヒト条約によって成立したヨーロッパ連合(EU)の有力国ではあるが、通貨統合(単一通貨)や共通の労働時間や労使交渉などを規定した社会憲章Social Chapterへの参加を留保し、ヨーロッパ連合との関わりをめぐってメージャー政権の保守党は大きく分裂。このような内紛に加えてメージャー政権の下で保守党政治家たちの腐敗行為が相次いで新聞、テレビに取り上げられsleazy(低俗な)ということばが頻発した。そうした影響からメージャー内閣は人気を落としていった。
1997年5月1日の任期満了の解散・総選挙で首相メージャーの保守党は、ブレアが党首として率いる労働党に完敗した。保守党の地盤であるイングランドでもアシュダウンPaddy Ashdown(1941―2018)が率いる自由民主党に敗れた。スコットランドとウェールズは保守党空白区となり、得票率は前回を10%余り下回る31.4%、保持できた議席は659議席中、労働党に254議席の差をつけられ165議席に落ち込んだ。1832年総選挙での大敗後初めての惨敗である。政権はただちにブレア党首の労働党にわたり、メージャーは党首を辞任、党首選が行われ、過去200年の保守党の歴史では最年少の党首である36歳の前ウェールズ相W・ヘイグRt.Hon.William Jefferson Hague(1961― )が選出された。ヨーロッパ連合への関与をめぐる党内亀裂を埋め、老化して弱まった党組織を立て直すことが、ヘイグの第一の課題となった。2001年6月の総選挙で保守党は惨敗、ヘイグは引責で辞任し、同年9月イアン・ダンカンスミスIain Duncan Smith(1954― )が党首に選ばれた。しかし、イラクの大量破壊兵器情報を巡る操作疑惑などでブレア政権を追いこむことができず、また秘書手当不正受領疑惑が起きるなどで辞任を求める声が高まり、2003年10月党首信任投票が行われた。結果は不信任票が過半数を占め、ダンカンスミスは党首を辞任した。同年11月、元内相のマイケル・ハワードMichael Howard(1941― )が党首に選出された。
[犬童一男]
もっとも基礎的な組織単位は選挙区結社であり、イングランドとウェールズに569、スコットランドに72ある。これらの選挙区組織代表約5000人が、毎年10月開催の全国連合年次大会に出席する。また選挙区組織は全国党本部と連係して下院議員候補者を選出し、党資金を集める。全国連合の年次大会やその執行機関は、労働党や自由党の場合と異なり政策形成の役割をもたない。重要問題について決定権をもつのは党首であり、中央本部、党調査局、党政治センターなどからの報告を受け、政策決定がなされる。陰の内閣(シャドー・キャビネット)の閣僚任命も党首によってなされる。党首は従来、長老指導者たちによって密室で選ばれていたが、1965年から1981年までの労働党のように、下院議員の投票で選出されるようになった。党員数は1953年にピークの280万から1978年に125万、1997年に40万と下がった。青年部、婦人部、労組部といった組織もあり、労働者階級に属する投票者の3人に1人がつねに保守党に投票してきたことが注目される。
[犬童一男]
『村川一郎著『イギリス保守党』(教育社・入門新書)』▽『R・T・マッケンジー著、早川崇・三沢潤生訳『英国の政党――保守党・労働党内の権力配置 上巻』(1965・有斐閣)』▽『M・サッチャー著、石塚雅彦訳『サッチャー回顧緑――ダウニング街の日々』上下普及版(1996・日本経済新聞社)』▽『梅川正美著『サッチャーと英国政治』(1997・成文堂)』▽『T. F. Lindsay, M. HarringtonConservative Party ; 1918-1970(1974, St Martins Press)』▽『S. Ludlam, Martin J. Smith (ed.)Contemporary British Conservatism(1996, St Martins Press)』▽『J. Critchley, M. HalcrowCollapse of Stout Party ; The Decline and Fall of the Tories(1997, Trafalgar Square)』
かつて日本に存在した政党。2000年(平成12)4月3日、自由党から分裂して発足し、2002年12月25日に民主党の離党者と合流して保守新党を新たに結成する。2003年11月21日に解散し、自民党に合流した。終始、自民党および公明党と連立を組み、政権の一翼を担った。
1999年(平成11)に自民党・公明党との三党連立政権をつくっていた自由党党首の小沢一郎は、自民党総裁の小渕恵三(おぶちけいぞう)に対等合併を要求して拒絶されると、2000年4月1日に連立離脱を決めた。自由党内で過半数の国会議員を擁する連立残留グループが、扇千景(おおぎちかげ)(1933―2023)を党首として結成したのが、保守党である。結成時、衆議院議員20名、参議院議員6名。連立を組んでから日が浅い自民党と公明党は、緩衝政党として保守党を必要とした。
ところが、保守党が連立政権のなかで独自性を発揮することはむずかしく、同年の衆議院選挙と翌2001年の参議院選挙で惨敗する。党首が野田毅(のだたけし)(1941― )にかわり、2002年には熊谷弘(くまがいひろし)(1940― )ら民主党の離党者と合流し、新たに熊谷を党首とする保守新党を、衆議院議員10名、参議院議員4名で結成した。この過程で野田や小池百合子(こいけゆりこ)(1952― )らは保守新党に参加せず、自民党に合流した。保守新党も2003年の衆院選で敗北を喫すると、自民党への合流を決めた。これに伴い、政権の枠組みは自民・公明の二党連立に移行した。
保守新党から自民党に加わった国会議員は、二階俊博(にかいとしひろ)(1939― )を中心とする派閥「新しい波」を結成し、2009年の衆院選後に志帥会(しすいかい)(伊吹文明(いぶきぶんめい)(1938― )派)に合流した。
[中北浩爾 2021年7月16日]
イギリスの主要政党の一つ。20世紀初頭から1997年5月の敗北までの97年間に,連立を含め政権の座にあった期間は3分の2に近い63年に達する。イギリス政治の宿弊であるアイルランド問題をめぐり,19世紀末から1920年代まで〈統一党Unionist Party〉を名のる時期もある。保守党は院内党名で,院外組織名は〈保守および統一協会全国同盟National Union of Conservative and Unionist Associations〉である。保守党が党員数を公表することはまれだが,1980年代に約120万人程度だったとする推定がある。年1回党大会が開かれるが,政策・人事上の影響力は概して低い。中核的支持基盤は財界,中産階級,農村部上層にあるが,90年代の調査によれば労働者階級の4割程度が同党支持に回る。党首は上院有力貴族の意向,下院の動向,首相指名などをもとに〈浮上〉するのが伝統とされたが,1965年および74年の改革で党下院議員による厳格な投票制が確立され,サッチャーやメージャーJohn Major(1943- )ら新しいタイプの党首の登場を促した。
世界で最も早く近代化が始まり,強力な民衆的組織政党を発達させたイギリスで,保守を正面に掲げる党が今日まで強固な政党として存続してきたのはなぜかが,ときに問題になる。その答えの一部は問い自体に含まれている。外圧によらず徐々に近代化が進んだ結果,伝統的な地位・影響力の維持に有効な〈前近代的要素〉,すなわち王室,国教会,貴族院などの制度とそれを支える身分的序列感覚が,近代化と部分的な共生関係を保ちながら維持され,説明抜きで政治に利用できたのがその一因である。また対抗政党である自由党,ついで労働党が未来先取り型の綱領政党化しがちだったことが,漸進主義に立つ保守党の存在理由を強めた点も指摘できる。時代の先取りを本領とする綱領型政党は,当の時代の到来によってみずからの政治的存在理由を弱め,結果として行過ぎや理論の名による硬直化の追認に陥りやすい(したがって厳格な世界観政党の政権維持には,過度の権力支配,または,腐敗による一党独裁の危険が伴う)。他方保守党は,対抗政党の支持勢力を弱め中立化するのに適切な時機と範囲で相手の政策を採用し追認するという利点に恵まれ,かつそれは政治的な要請,端的には選挙上の要請を支配動機とする点で,政策の背景となるイデオロギーや支持基盤に拘束される度合が小さい。そこに〈国民的合意の党〉〈実務と分別の党〉などのイメージ培養基盤が生まれる。誕生まもない保守党を〈組織された剽窃(ひようせつ)organised hypocrisy〉〈トーリーの人間によるホイッグの政策Tory men and Whig measures〉と批判したにもかかわらず,結局はそれを最も効果的に実行し,党興隆の基礎を築くことになるのは,B.ディズレーリにほかならなかった。ここに保守党の一面が如実に現れている。もっとも,20世紀初頭の硬直した政治姿勢や1970年代以降の労組との対決姿勢にみられるように,この種の操作につねに成功するほど党がイデオロギーから自由なわけではないが,党首が高い指導者的地位を認められ,党が概して党首に従順な立場を守るのも,上記の規範的保守党イメージと関係する。なお集権的な内務・警察機構や常備軍の発達が微弱だったことから,過激な対抗運動に対して実力弾圧の余地が少なく,かつ相対的に富裕で開明された貴族・地主には,買収や譲歩などの政治性の濃い対応余地の大きかったことが,保守党に柔軟な漸進主義を許容する土譲となった。
発生の直接起源は,選挙法改正要求に代表されるような改革運動の急進化のみならず,これに反発して過剰な現状維持に走る頑迷派トーリーにも対抗するため,E.バークの保守的政治哲学やフランスから輸入された〈保守の党parti conservateur〉の概念をよりどころに,R.ピールが中心となりトーリー党が保守党に再編された1834年にさかのぼる(もっともそれ以降もトーリーという呼称は保守党と同義で頻繁に用いられる)。46年の穀物法撤廃を契機に,ピールら党中枢議員と一般議員・農村支持層との対立が激化し,非ピール派の党本体は一時〈保護主義党Protectionist Party〉を名のって翌年の総選挙以降分裂が表面化する(非ピール派に近代保守党の起源を求める有力な見解もある)。その後党名を元に戻し,穀物法撤廃を追認したにもかかわらず,約20年間,同党は農村地主的で〈まのぬけた党stupid party〉とみなされがちで,パーマストン下の自由党が強力な統治政党としての地位を長く享受したこともあって,短期かつ非力な2度の例外(1852,58-59)を除き,万年野党的低迷を続けた。ダービー少数保守党政府による67年の選挙権の大幅拡大と,ディズレーリ首相下の70年代中葉の社会改革諸法の導入および党組織の整備は,それまで政治的市民権を否認されていた,都市部を中心とする労働者の多くを体制に組み込み,保守党地盤とする試みであり,党躍進の基礎を築いた。もっとも選挙法改正は,ディズレーリのみならず党,ひいては政治体制全般を一か八かの危険な賭,つまりディズレーリの言う〈暗闇の跳躍leap in the dark〉に引き込む決断であり,新有権労働者の保守党化という直接効果よりも,自由党に打撃を加え,結局は,両党を大衆組織政党に向かわせた点でより大きな意味がある。また〈トーリー民主主義Tory democracy〉という名の社会改良の提唱も,同時代の労働者の社会状態の改善よりは,後世の保守党内改革派のイデオロギー的基盤の強化に貢献することになる点に,いっそう大きな効用が認められる。つまり,80年代中ごろまでの同党は統治が当然の権利であり義務であると内外ともに認めるという意味での〈自然的統治政党〉にはまだ距離があったといえる。
しかし1885年のグラッドストーンによるアイルランド自治政策の提唱および翌年の法案提出を契機に自由党が分裂したこと,この結果すでに進行していた都市部非国教会系産業資本家・中産階級の自由党離れが加速されたこと,都市部を中心に保守党組織の強化が進んだことなどから,86年の総選挙では,伝統地盤の農村部以外に,全国226バラ(独立都市)選挙区の過半数の114区で保守党が勝つ。この勝利以降,自由党から分裂した自由統一党との連携を基に,ボーア戦争時のような熱狂的・好戦的国家感情,いわゆるジンゴイズムの高揚にも助けられ,ソールズベリー首相の保守党はつごう13年半に及ぶ政権掌握に成功し,都市化し産業化した社会諸勢力を取り込んだ〈国民的〉〈帝国的〉な統治党としての地位の確立をみる。他面,同時期にイギリスの経済競争力や帝国の政治的・経済的な効用低下も進み,党内に保護貿易主義の台頭とそれによる指導力・党イメージの低落が生じたため,1906年の総選挙は157議席という党史上最悪の敗北に終わる。しかも統治党としての過信と惰性は自由党政府の〈人民予算〉やアイルランド問題に対する過激で硬直した対応を呼び,極度に悪化した社会状況をさらに緊張させた。この党および社会を危機から救ったのは第1次大戦である。戦争の長期化と全体化によって自由党が哲学と組織を消粍し戦時連立内閣を契機に分裂・弱体化していくのとは対照的に,保守党は自由党の風雲児ロイド・ジョージを連立内閣の首相にかつぐことで戦後の党勢回復に成功する。自由党から労働党への基軸政党の移行や,経済大恐慌時の労働党の分裂といった政界再編成に伴う混乱のなかで,一貫して党の一体性を保った保守党は,第2次大戦前最後の1935年総選挙で53.7%の得票率を記録した。
労働・自由両党を含んだ戦時連立内閣の首相として苦しい戦いを勝利に導いた救国の英雄W.チャーチルを前面に出して選挙に臨んだ保守党にとって,戦後第1回の45年総選挙の敗北は大きな衝撃となる。しかし先立つ30年間の大部分を政府党として過ごした保守党にとって,敗北は再教育の好機ともなった。戦時連立で労働党との政策的共通性や相互了解が強まっていたのを背景に,H.マクミラン,R.A.バトラーらを中心に〈ディズレーリ伝統〉に依拠する基本政策の刷新と,党組織の民主化,近代化が進められる。この結果,ケインズ流の混合経済主義を基調に,のちに〈バッケリズムButskellism〉(それぞれ蔵相の経験をもつ保守党のバトラーと労働党のH.T.N.ゲーツケルの名の合成語に由来する)と呼ばれるようになる福祉主義的国家運営の面における,労働党との収れん現象が生まれた。その後労働党の内部抗争の激化や全般的な経済繁栄に支えられ,50年代前半の最盛時には280万人に達した党員を背景に,51年以降13年間に及ぶ長期政権期に入った。しかし70年代に入り深刻さを増した経済・財政状態の下で,政権のいかんを問わず,公共部門の肥大化を伴う統治方式の維持は困難となる。労組との正面対決を争点に掲げ74年総選挙に惜敗したE.ヒースが,大幅に改定された党首選出規則によって退けられたのをうけて,番外のサッチャーが党首に急浮上する。
初の女性首相(在職1979-90),中産階級下層の出身,党首への昇進経路・選出方法,戦後の合意政治見直しの強調などの諸点で,〈鉄の女性Ironlady〉とあだ名されるサッチャーの政治スタイルは保守党の歴史に一時期を画した。
→保守主義
執筆者:水谷 三公
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①〔イギリス〕Conservative Party イギリスの政党,トーリ党の後身。選挙法改正後の1830年代に従来の「トーリ」に代わって保守党を名乗るようになり,ピールが必要な改革は容認する保守の理念を明らかにして時代の趨勢に応じたが,穀物法の廃止をめぐって党内が分裂。自由貿易を唱えるピール派が離脱したあと,ディズレーリが党勢の立て直しを図り,グラッドストンの自由党と競って二大政党制による議会政治を展開した。内政面ではトーリ・デモクラシーを旗印に大衆社会状況に対応する政策を追求したが,外政面では露骨な拡張主義の帝国主義政策をとった。第一次世界大戦後,自由党が凋落すると,古い体質からの脱皮を図り,労働党を相手に,二大政党制を維持している。
②〔ドイツ〕Deutsche Konservative Partei ドイツの政党。1848年三月革命ののちプロイセン保守派は結集してユンカーの利益擁護にあたったが,ビスマルクの統一事業が進展するにつれて混乱し,66年ビスマルクを支持する一派は自由保守党を結成,本流は76年全ドイツ的な規模で勢力を再編成しドイツ保守党を結成した(~1918年)。以後両保守党は政府与党となり農業の利益擁護と体制の維持に努めた。国家人民党はその後身である。
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…もともとこの両党は,他のラテン・アメリカ諸国においてと同様,エリート層の利益を代表するものとして誕生した。保守党は伝統的大地主層に基盤をもち,中央集権的で教会の権益をも代弁する。一方,自由党は近代的商工資本家層を基盤とし,連邦主義的かつ反教権主義的であった。…
…他のラテン・アメリカ諸国とは異なって,1833年憲法以来,これらの支配階級の権益を保持しながら,ヨーロッパ型の立憲政治が確立された。その後,保守党,自由党などが結成されて,政党政治が定着した結果,政治は安定し,クーデタ,政変はきわめて少なかった。政治は選挙制度,大統領の権限,宗教・教育・言論などの自由などをめぐり,秩序重視派の保守党と自由尊重派の自由党との二大政党間の対立を軸として展開した。…
… 19世紀後半に入り,都市化と産業化の成熟,あるいは1867,84両年の選挙権の大幅拡大などを背景に,トーリーとホイッグは,土地貴族支配を頂点では残しながらも,院外党組織の拡充,党規律の強化,社会政策の積極的導入を進めた。この過程で名望家政党から大衆組織政党への脱皮が進み,トーリーは保守党,ホイッグは自由党と名称も変え,現代的な二大政党制が成立する。同時に,選挙によって多数派となった政党が,党首を首班とする内閣を通して,選挙公約に掲げた一連の政策を実施する傾向,つまり政党内閣化が進んでいく。…
…
[イギリス]
しかし,政党はまさしくこの時期に発達し,しだいに政治的に無視できない勢力を形成するようになった。イギリスの場合,のちの保守党,自由党へと発展していくトーリー派とホイッグ派の対立は,17世紀に始まる。そして18世紀初頭のR.ウォルポールや,18世紀末から19世紀初頭のW.ピット(小)の活躍により,議会内の多数派が政権を担当する議院内閣制が確立するに至り,さらに1830年の総選挙でのトーリー党の敗北によって,50年ぶりにホイッグ党が政権に復帰し,32年の選挙法大改正前後のころから保守党と呼ばれるようになったトーリー党とホイッグ党の交互の政権担当により,〈議会主義の黄金時代〉が現出されることになった。…
…イギリスの保守党の前身。ピューリタン革命期の王党派にその起源を求めることもできるが,通常は1670年代末に国王チャールズ2世の後継者をめぐる対立のなかで,血統による王位継承と国王大権とを擁護しようとした党派をさす。…
※「保守党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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