日本大百科全書(ニッポニカ) 「トーマス」の意味・わかりやすい解説
トーマス(Frank Edward Thomas)
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Frank Edward Thomas
(1968― )
アメリカのプロ野球選手(右投右打)。大リーグ(メジャー・リーグ)のシカゴ・ホワイトソックスで一塁手、指名打者としてプレー。相手に大きなダメージを与えるところから「ビッグハート(大きな傷)」の異名をとる強打者である。
5月27日、ジョージア州コロンバスで生まれる。オーバーン大学から1989年、ドラフト1巡目(全体7番目)指名を受けてホワイトソックスに入団。1990年の途中からは早くも大リーグに定着し、91年からはチームの主力となった。ボールを引き付けて打つバッティングは、打撃コーチのウォルト・リニアックWalter John Hriniak(1943― )の名前をとり「リニアック打法」とよばれ、右打者ながら右方向へも大きなホームランを飛ばした。1993年には、打率3割1分7厘、ホームラン41本、打点128の好成績でチームの地区優勝に貢献し、最優秀選手(MVP)に選ばれた。プレーオフではトロント・ブルージェイズに敗れてリーグ優勝はできなかったものの、1試合4個を含めて10回も四球で歩かされるほど、相手から恐れられた。1994年もMVPを受賞。1997年には打率3割4分7厘で初の首位打者となった。1998年は不振で初めて打率3割を切って2割6分5厘に終わり、99年は打率こそ3割に復活したものの故障の影響でホームラン15本、打点77の数字しか残せなかった。2000年は打率3割2分8厘、ホームラン43本、打点143と完全復活。地区優勝の原動力となった。2001年はふたたび故障にみまわれて20試合の出場にとどまり、2002年も低調な成績に終わった。
[山下 健]
2003年以降
2003年には42本のホームランを打ち、自身5回目となる年間40本以上を記録、7月には大リーグ史上36人目となる400本塁打を達成した。また、8月には通算2000本安打も達成している。2004年は左足首の故障で74試合の出場にとどまり、打率2割7分1厘、ホームラン18本、打点49。翌05年も前年の故障の影響などで不本意なシーズンを送り、チームのワールド・シリーズ優勝には貢献できなかった。2006年はオークランド・アスレチックスでプレー。指名打者として137試合に出場し、打率2割7分、ホームラン39本、打点114の好成績を残してチームの地区優勝に貢献した。しかし、1シーズンのみでアスレチックスを離れ、2007年はトロント・ブルージェイズでプレー。155試合に出場し、打率2割7分7厘、ホームラン26本に終わったが、6月には大リーグ史上21人目となる500本塁打を達成した。2008年シーズン途中からはふたたびアスレチックスでプレー。
2007年までの通算成績は、出場試合2251、安打2409、打率3割3厘、本塁打513、打点1674。獲得したおもなタイトルは、首位打者1回、MVP2回。
[編集部]
トーマス(Sidney Gilchrist Thomas)
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Sidney Gilchrist Thomas
(1850―1885)
イギリスの製鉄発明家。早く父に死なれ、一家を支えるために17歳で裁判所の書記になった。しかし好学の念やみがたく、夜学に通い、家に化学実験室をつくり、学問を捨てなかった。夜学の先生チャロナーGeorge Chalonerが「転炉法で脱リンに成功すれば大金持ちになれる」と語るのを聞いて、この問題の解決に情熱を燃やした。それまではベッセマーの転炉法でも、ジーメンスとマルタンの平炉法でも、ケイ酸成分の酸性耐火材を炉材として使用していたが、それでは銑鉄のリンを除去できず、高炉で低リン鉄鉱石から製造した低リン銑鉄にしか適用できなかった。大部分の鉄鉱石はリンを含有しているので、転炉法も平炉法も適用範囲が限られていた。高名な製鉄家たちが脱リン法の開発に知恵を絞ったが成功しなかった。トーマスは従来の研究を検討し、塩基性の石灰が脱リンの唯一の鍵(かぎ)であることを確信した。銑鉄中のケイ素が酸化されて浮上しスラグになるが、同じく酸化されてスラグに入るリンは還元されて鋼に戻ってしまう。このとき、スラグにケイ酸よりも多量の石灰を添加すると、塩基性の石灰と酸性のケイ酸は結合するが、ケイ酸と結合できない過剰石灰が酸化されたリンとしっかり結合して安定した化合物をつくり、リンはもはや鋼に戻らない。しかし従来のように酸性のケイ酸の耐火物であると、スラグ中の石灰は炉壁のケイ酸とも激しく反応して炉壁がたちまち破壊されてしまう。そのため炉壁に石灰石、マグネサイト、ドロマイト(苦灰石)などから製造した塩基性の耐火材を使用する必要があったのだが、それらの物質から耐久性のある耐火材をつくることは技術の新課題であった。彼はドロマイトを従来以上の高温で焼いてクリンカーにし、タールを接着剤に使用してこの難問を解決した。こうして塩基性耐火材が工業界に誕生し、塩基性転炉法が確立した。ベッセマーの酸性法はベッセマー法とよばれ、塩基性法はトーマス法とよばれることになった。塩基性法は平炉法にも適用され、溶鋼法は含リン銑鉄にも適用され大発展を遂げた。
[中沢護人]
トーマス(E. Donnall Thomas)
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Edward Donnall Thomas
(1920―2012)
アメリカの内科医。テキサス州マートに生まれる。1941年テキサス大学を卒業、1943年同大学で修士号取得。1946年ハーバード大学医学部を卒業。臨床研修で1年間血液学を学んだ後、2年間軍務につく。マサチューセッツ工科大学で1年間の研究を経て、ピーター・ベント・ブリガム病院(のちにブリガム婦人病院)に勤務。このとき、同病院の外科医であったJ・マレーと出会い、その腎臓(じんぞう)移植(腎移植)研究にも携わる。1955~1963年コロンビア大学医学部教授、1963年からワシントン大学教授。1975年よりフレッド・ハッチンソン癌(がん)研究センターに勤務(2002年退職)。
骨髄移植は外科的処置を必要とせず、幹細胞を含む骨髄を患者に静脈注射することで移植できることを明らかにした。さらにイヌを使った骨髄移植実験を重ね、1956年に遺伝的に同一である一卵性双生児で骨髄移植に成功。1969年には一卵性双生児ではない血縁者からの移植にも成功した。骨髄移植により、遺伝性の貧血や白血病などの免疫系疾患の治療が可能となった。これらの功績により、マレーとともに1990年のノーベル医学生理学賞を受賞した。
[馬場錬成]
トーマス(Norman Matton Thomas)
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Norman Matton Thomas
(1884―1968)
アメリカの社会党指導者。オハイオ州生まれ。プリンストン大学、ユニオン神学校を卒業してニューヨーク・ハーレム地区の長老派教会の牧師となったが、平和主義者として第一次世界大戦へのアメリカの参戦に反対。1918年社会党に入党。全国市民自由局(のちにアメリカ市民自由連合に改称)、産業民主主義同盟などの創立者の1人として社会民主主義的な運動に取り組んだ。ニューヨーク市長選に二度出馬、1928年以降は大統領選に社会党候補として六度も出馬したが、いずれも敗退。ニューディールの社会改良策を評価しながらも原則論として反対した。反戦、反共、反ファシズムを信条としていた。
[河内信幸]
トーマス(Kurth Thomas)
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Kurth Thomas
(1904―1973)
ドイツの合唱指揮者。テニング生まれ。ライプツィヒ音楽院で教会音楽を学び、1934~39年ベルリン音楽大学教授。フランクフルトで活動ののち、57~60年由緒あるライプツィヒ聖トーマス教会カントル(合唱長)。その後ケルン、リューベックで合唱指揮。62年(昭和37)ドイツ・バッハ・ゾリステンのチェンバロ奏者として初来日。64、65年に単身来日、合唱講習会を開いた。『合唱指揮教本』(1935)の名著がある。バッハ演奏の伝統を受け継いでいた音楽家の1人。
[岩井宏之]