イタリアの航空技術者で北極探検家。南部のアベリノに生まれ,ナポリ大学で工学を修め,飛行船設計者となり,空軍技術大佐となる。1925年北極探検に航空機を求めていたアムンゼンに,政府の意向を帯して飛行船N1号を設計した。軍用を改造してノルゲ号と改名,エルズワースに売却された飛行船を指揮し,26年5月12日北極点を通過して北極横断に成功した。少将,侯爵を授けられた。操縦したのはノビレで,アムンゼンやエルズワースは乗客にすぎないと主張したが,北極横断の功績を独占できなかった。独力で国威を高めようと新造飛行船イタリア号で28年5月に再挑戦し,同24日極点上空到達後,スバールバル諸島北北東で飛行船が大破,救助に向かったアムンゼンは遭難死したが,ノビレは救出された。部下をおいてひとり真っ先に救援機に乗ったため,退役,国外追放となった。31年ソ連の北極探検航海に参加,32-36年ソ連飛行船技術育成に協力した。46-53年イタリア共産党から立候補し国会議員を務めた。
執筆者:石山 洋
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イタリアの北極探検家、航空(飛行船)技師、空軍少将。南イタリアのアベリーノに生まれ、ナポリ大学工学部を卒業。半硬式飛行船の優れた耐航性に着目し、自ら設計・製作を行い、これを使って北極飛行に成功した。1926年アムンゼンやエルズワースとともに、飛行船ノルゲ号(N‐1)でスピッツベルゲンから北極を横断しアラスカに到達した。しかしこのあとアムンゼンと確執を生じた。28年イタリア号(N‐4)で自ら探検隊を指揮し北極飛行に赴き、5月24日北極点上空に到達したが、帰途スピッツベルゲン島北北東の氷上に墜落し、ノビレ以下の生存者はスウェーデン機やソ連の砕氷船に救出された。彼と感情的な対立状態にあったアムンゼンは救援に出動し、かえって悲劇的な最期を遂げた。この事件でノビレは空軍とナポリ大学教授の職を去り出国した。ソ連の航空コンサルタントなどを経て43年空軍少将に復帰、またナポリ大学教授に復職した。晩年は政界にも進出した。日本海軍のN‐3号購入に伴い1927年(昭和2)来日した。
[半澤正男]
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…北極点到達をめざし飛行機を最初に用いたアムンゼンは1925年5月21日,スバールバルからアメリカ人エルズワースとともに北緯88゜まで飛んだ。さらに翌26年,アムンゼンは飛行船ノルゲ号による北極点経由の横断飛行を計画し,エルズワースやイタリア空軍のノビレUmberto Nobile(1885‐1978)とともにスバールバルで準備をしていた。このときアメリカ海軍のR.E.バードは飛行機で5月9日極点までを往復した。…
…北極点到達をめざし飛行機を最初に用いたアムンゼンは1925年5月21日,スバールバルからアメリカ人エルズワースとともに北緯88゜まで飛んだ。さらに翌26年,アムンゼンは飛行船ノルゲ号による北極点経由の横断飛行を計画し,エルズワースやイタリア空軍のノビレUmberto Nobile(1885‐1978)とともにスバールバルで準備をしていた。このときアメリカ海軍のR.E.バードは飛行機で5月9日極点までを往復した。…
※「ノビレ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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