北極点North Poleを中心として広がる海洋とそれを取り巻く大陸の最北部からなる地域をいう。北極を他の地域から分かつ境界はいくつかある。まず北緯約66度33分の北極圏Arctic Circleは、地球の自転軸(地軸)が地球の軌道面に対して約23度27分傾いているため生ずるもので、ここより北では1年のうち夏季太陽が沈まない日および冬季太陽が出ない日が、それぞれ少なくとも1日以上あり、北極点ではほぼ半年昼、半年夜が続く。したがってこれは天文学的な境界といえる。多く用いられるのは生態学的な境界である樹木の北限線で、最暖月平均気温10℃の地点を結ぶ線にほぼ等しい。ここから北は蘚苔(せんたい)類や地衣類、草本や矮小(わいしょう)な灌木(かんぼく)(低木)などの生育するツンドラと、氷雪の地帯である。北極は通常このような北極地域をさすが、北極点をいうこともある。北極地域は南極地域と対照的に、北極点を中心として広がるほぼ南極大陸と同じ面積の北極海がその大半を占めている。北極海はユーラシア大陸、北アメリカ大陸の2大陸および世界最大の島グリーンランド(1979年デンマークの自治領となり、現在公式にはカーラリット・ヌナートKalaallit Nunaatとよばれる)に囲まれた地中海である。北極地域約2700万平方キロメートルのうち、陸地面積は約1000万平方キロメートルである。
[吉田栄夫]
北極海を囲む陸地は時代的にきわめて古い岩石からなる大陸であり、楯状地(たてじょうち)や卓状地が広く、先カンブリア時代の片麻(へんま)岩や結晶片岩、花崗(かこう)岩などが分布し、また、これらの基盤岩の上に水平的な構造をもつ古生層をのせている所がある。グリーンランドは地質学的にはカナダ楯状地と連なる古い大陸で、西部のイスア地域では世界最古の岩石の一つが知られている。楯状地の縁辺部には古生代のカレドニア造山運動、バリスカン造山運動を受けた地域が識別され、アラスカのブルックス山脈、東シベリアのチェルスキー山脈などは中生代の造山運動を受けたとされる。海底のロモノソフ海嶺もそれとする考えもある。
シベリアのレナ川、エニセイ川など、あるいはカナダのマッケンジー川などの北極海に注ぐ大河川は、多くの土砂を運び、新しい堆積層をつくる。レナ川やマッケンジー川は、河口に顕著な三角州を形成している。
[吉田栄夫]
北緯90度は地軸が地球表面と交わる所で、地理学的北極点であるが、ほかに地磁気に関係した極が地球物理学的に重要である。磁石の磁針が自由に動くものであれば、それが垂直に立つ所、すなわち、地磁気の伏角(ふっかく)が90度となる地点を北磁極(2001年で北緯79度22分、西経104度30分付近)という。また、地球の磁場を地球の中心に位置する磁気双極子で近似して求めた極を、地磁気北極または北磁軸極という(北緯78.8度、西経70.8度付近)。
オーロラ(極光)は、上層大気に降り注ぐ高速の荷電粒子(これらを総称してオーロラ粒子とよぶことがある)が、窒素や酸素などの分子や原子に衝突してこれらを励起し、高度90キロメートルあたりを下端とし、120キロメートルを中心として270キロメートルほどの高さまで発光させる。オーロラをつくる荷電粒子は電子や陽子がほとんどで、とくに明るく光らせるのは電子である。荷電粒子は磁力線に沿って入射するので、極地以外で見られることはめったにない。地磁気極から緯度にして23度ほど離れた所(地磁気緯度67度)を中心とする同心円状の地帯は、オーロラが出現する頻度がもっとも高い地帯で、オーロラ帯(極光帯)とよぶことがある。北半球ではこれはグリーンランド南部、アイスランド、ノルウェー北縁、シベリア北縁部のノバヤ・ゼムリャ、アラスカのフェアバンクス、ラブラドル半島北部などを結ぶ地帯である。
北極と南極で同じ磁力線で結ばれる二つの地点を共役点というが、オーロラ帯にある共役点が双方とも陸上にある地点は少ない。アイスランドのフッサフェルと南極昭和基地はこのような珍しい関係にあり、オーロラの同時観測である共役点観測がしばしば行われた。
[吉田栄夫]
北極の気候は、生態学的観点からW・ケッペンの気候分類にしたがえば、最暖月平均気温が0℃を上回らない氷雪気候と、最暖月平均気温が0℃以上10℃以下のツンドラ気候の二つに大別される。
氷雪気候の地域は、グリーンランド氷床と、カナダの北極海の諸島やセーベルナヤ・ゼムリャなどの北極海の島々の、氷河に覆われた所である。広く恒久的に海氷に覆われた北極海の主要部も含められよう。ツンドラ気候の地域は、北極海を取り巻く陸地に広がり、ここでは地下に数百メートルに及ぶ厚い永久凍土層が分布する。夏には活動層とよばれる表層が融解して排水の悪い土地となり、蘚苔(せんたい)類や地衣類が繁茂し、また各所に草本や矮性(わいせい)低木が生育する、いわゆるツンドラ地帯をなしている。
極地域の気候の特徴は、著しい低温と強風である。降水量は正確な測定が困難であるが、一般に少ない。北極の気温は南極に比べて大ざっぱにいって20℃ほど高い。年平均気温が零下30℃を下回る所は、グリーンランド内陸でさえほとんどない。なお、北半球の寒極とされるオイミャコン(北緯63度16分、東経43度15分、海抜800メートル)では、1938年零下77.8℃の記録があるとされ、1967年にも零下71.0℃を記録しているが、北極地域として定義される範囲ではない。グリーンランド内陸でも零下60℃台である。北極縁辺海域のアイスランドおよびアリューシャン列島付近は低圧帯となることが多く、とくに冬季低気圧が発達し、グリーンランド南部などでは年降水量1000ミリメートルを超す。他方、北極海には特徴的な北極層雲が発達するが、沿岸地域を含めて年降水量250ミリメートル以下とされる。
[吉田栄夫]
いわゆる温暖化ガスの大気中濃度の増大に伴って、地球温暖化が憂慮されるようになった。ことに気温の上昇が他の地域より大きくなると予測され、氷雪域を抱えてその変動が地球規模の影響を与えるおそれのある高緯度地域が、注目を集めている。気候変動に関する政府間パネル(IPCC)などによると、過去1世紀の間に地球規模でおよそ0.5℃の気温上昇がみられるという。北極地域の気候変動については、気温やさまざまな現象の変化が探られている。たとえば1966年から1995年までの30年間の気温の変動をみると、北アメリカ大陸やユーラシア大陸では最大1.5℃の上昇があり、他方南グリーンランドやバフィン島などでは1℃程度の低下があったとされる。北極海域はデータが少なく不明である。また、20世紀後半の数十年間に、北極海の海氷面積が若干減少し、厚さも薄くなった所がある。陸域の降水量は増加し、一方積雪面積は減少しているという。氷河末端の後退傾向も認められる。なお、海氷面積の変動や氷河の質量収支変動が、エルニーニョ/南方振動指数変動と相関関係にあることも指摘されており、北極の氷雪環境が広域的な海洋環境と関係が深いことが知られるようになった。
[吉田栄夫]
現存する氷河は、グリーンランド氷床と、エルズミア島、アクセルハイバーグ島、セーベルナヤ・ゼムリャ、スバールバル諸島などの北極海の島々、ごく一部の大陸山岳地にみられる氷帽(ひょうぼう)や谷氷河、圏谷氷河である。
グリーンランドは総面積およそ217万平方キロメートルのうち、その80%ほどが氷に覆われる。平均海抜高度2132メートル、最高所は3300メートルに達し、平均氷厚1515メートルとされる。氷床から流出する氷河のうち、バフィン湾に流入するヤコブスハウン氷流は、末端で年間8360メートルと測定されており、知られているなかでは世界でもっとも速い流速をもつ。グリーンランド氷床では、南極氷床とともにその氷が過去の地球環境を記録しているとして、氷床深層掘削が行われ、多くの知見が得られている。すなわち、最終氷期(最後の氷河時代)から最近までの気候変化、世界各地の火山活動、産業革命以後の人為的な大気の汚染などが探られている。グリーンランド以外の地域の氷河は、面積総計25万平方キロメートルである。最近は氷河末端の後退が目だつが、氷河によっては数十年の周期で急に流動速度が大きくなり、末端が顕著に前進するサージとよばれる現象もみられる。
氷期にはヨーロッパ大陸と北アメリカ大陸は、それぞれスカンジナビア氷床、ローレンタイド氷床とよばれる氷床に広く覆われたことはよく知られている。北極地域の地形は現存氷河のほかこれらの第四紀の氷床や氷河による侵食や堆積、あるいは周氷河作用によって、その多くが形成された。たとえばグリーンランドの縁辺部には、氷期に拡大していた氷床やその中の氷流の侵食によって形成された、面的侵食平原や氷食谷、圏谷の地形が発達する。バフィン島などではモレーン(堆石)の発達が著しい所がある。
一方、現在ツンドラ地帯となっている所は、氷期に氷床に覆われた地域と覆われなかった地域があるが、地下にはシベリアで最大1500メートル、カナダで500メートルに達するという厚い永久凍土層があって、ここには非淘汰多角形土(ひとうたたかくけいど)とよばれる特徴的な周氷河地形が発達する。なお、永久凍土層の厚さは南に向かって減じ、北極地域外のタイガとよばれる森林地帯まで、多くは不連続永久凍土層となって延びる。また、永久凍土層の存在と地下水の流動、凍結によって、地表が円形に盛り上がったピンゴとよばれる地形も形成される。永久凍土層は大陸棚の海底下にも広がっている。
[吉田栄夫]
針葉高木林の限界から北方では、一般にヤナギ、カンバなどの低木群落が広い面積を占め、針葉樹が点々と混生する地域が広がり、タイガと極地の移行帯をなしている。真の極地では、チョウノスケソウ類、キョクチヤナギなどの矮性(わいせい)低木のほか、イネ科、カヤツリグサ科、イグサ科などの草本に蘚苔(せんたい)類、地衣類を多く混じえた植生となる。北極圏は高山と違って、地形が平坦(へいたん)なうえに積雪が少ないため、雪崩(なだれ)斜面、崩壊地などの植物群落は発達せず、わずかな凹凸をもった構造土が広い面積を占める。植物群落は凸状部に生育する乾燥型のものと、凹地部に生育する湿潤型のものがモザイク状に入り乱れていることが多い。また、エルズミア島などのように、ごく高緯度の島ではほとんど無植生となる。
北極圏の植物には北半球温帯の高山と共通する種類が多いが、固有の属(アークトフィラ属Arctophila)や固有の種類(コロポディウム・ラティフォリウムColpodium latifolium、デュポンティア・フィッシェリDupontia fischeri、フィプシア・アルギダPhippsia algida)などもあり、北極植物区系区とされる。北極圏の植物の大部分は新生代第四紀の寒冷な氷期には氷床の下となったが、積雪量の少ないアラスカの内陸部や、氷床に突出するヌナタク(岩峰や岩稜(がんりょう))の南斜面などでは生存を続けたと考えられている。
[大場達之]
海では太陽光を利用して植物プランクトンや海氷下部に珪藻(けいそう)が繁殖する。それにつれて、植食性の橈脚(とうきゃく)類やオキアミなどの動物プランクトンが増加する。動物プランクトンをタラなどの魚類やヒゲクジラが捕食する。さらに、シャチ、ホッキョクグマなどは、魚類、アザラシ、ヒゲクジラなどを食う。また、動物プランクトンはウミガラスやウミスズメなどの餌(えさ)でもあり、これらの海鳥は開水面のできる夏季に、南方海域から渡ってくる。
陸上のツンドラ帯では、植物に依存して生活する昆虫類、ダニ類が夏季に活動し、昆虫類を捕食するクモ類も現れる。池沼からはカ類やブユ類が発生し、個体数は多い。これらの小動物を餌とする鳥類も、南方の地域から飛来する。カリブー(トナカイ)も、夏季には南方から移動してくる草食哺乳(ほにゅう)類である。草食哺乳類のうちでもジャコウウシは冬季になっても南方へは移動せずにやや高い山で生活し、レミングは生活の場を地下に切り替えてツンドラ帯にとどまる。ホッキョクギツネ、ホッキョクオオカミなどの肉食哺乳類、シロフクロウのような肉食性の鳥類は草食哺乳類を捕食する。これらの動物の分布や個体数は草食哺乳類の分布や個体数に左右されて変動する。
[星合孝男]
北極海は、いくつかの海嶺とそれによって分かたれる深さ3000メートルを越える深海平原(最深部は5440メートル)からなる主要部と、その周辺を占めるグリーンランド海、ノルウェー海、バレンツ海、カラ海、ラプテフ海、東シベリア海、チュクチ海(チュコト海)、ボーフォート海などの付属海からなり、バフィン湾を含めることもある。総面積1400万平方キロメートルで、南極大陸の面積(棚氷を含めて)にほぼ等しい。北極海は大陸に囲まれた地中海といってよいきわめて閉鎖的な海で、深さ1000メートル足らずのデンマーク海峡を通じて大西洋につながるほかは、浅い大陸棚を通じてベーリング海やバフィン湾につながるのみである。
厚い多年性の海氷に覆われた北極海の科学的知見を得ることは容易ではなかった。まず、1893~1896年ノルウェーのF・ナンセンが探検船フラム号によって、漂流を含めて探検を行い、橇(そり)によって北緯86.4度まで達するなど、多くの科学的成果を得た。北極点近くには陸地はなく深い海洋であることもこのとき明らかにされた。1937~1938年ソ連のパパーニンら4人は、氷上に漂流観測所「北極1号」を設けて、漂流しながら科学観測を行った。こうした海氷や卓状氷山(北極では氷島(ひょうとう)という)に基地を設けて行う漂流観測は、ソ連によるものは1990年「北極31号」まで行われ、おもにシベリアから極点付近を経てグリーンランド海に到達している。アメリカも1950年代から氷島T3に観測基地を設けるなどして、観測を行っている。このような観測により、北極海の表層には主部の大きな時計回りの海流と、暖流の北大西洋海流の届くバレンツ海の反時計回りの海流などが知られてきた。
また、漂流観測のほか冷戦時代の原子力潜水艦の往来で、かなり詳細な海底地形が明らかにされるようになった。アメリカの原子力潜水艦ノーチラス号が1958年8月3日北極点で浮上を果たしたことは有名である。また、海上からはソ連の原子力砕氷船アルクチカが1977年8月17日北極点に到達した。海底地形をみると、北極海中央にはグリーンランド北部からノボシビルスク諸島方面へとロモノソフ海嶺が走り、その太平洋側にはアルファ海嶺、メンデレーエフ海嶺、チュクチ・キャップ(チュクチ海台)などの高まりが、フレッチャー深海平原、カナダ深海平原、メンデレーエフ深海平原などを分けている。
ロモノソフ海嶺のヨーロッパ側には、もっとも深い北極深海平原を隔てて比較的低い北極中央海嶺が、グリーンランド北東縁近くからノボシビルスク諸島方面へと延びている。その地形は典型的な開きつつある中央海嶺の形態を示し、ナンセン断裂帯などのずれを介して、大西洋中央海嶺に続く活動的な海嶺とみられている。そしてこのシベリア側への延長は、日本に延びるユーラシアプレートと北アメリカプレートの境界に連なるとする説がある。また、東シベリアの一地点に位置すると考えられるプレート回転の中心軸から北極側はプレートの生まれる開くプレート境界、日本側は閉じる境界と考えられている。
なお、北極海では大陸棚が広いことも特徴的で、ことにシベリア沖では幅700キロメートルあまりに達する所もある。
[吉田栄夫]
ここでおもに取り上げるのは、厳しい北極の自然のなかで古くから生活してきた人達、いわゆる先住民族である。北アメリカ大陸にはエスキモー(カナダでは自らをイヌイットとよび、公式にもこれが使われるようになった)が約4万人住む。アザラシやトナカイなどの狩猟生活を営んできたが、この伝統的な生活は、極地の開発に伴う雇用の機会の増大、貨幣経済の浸透、政府の政策などにより、大きく変わってきた。また、その南の北極地域には約2万6000人の北米先住民(アサバスカ語族)が住んでいる。グリーンランドにはエスキモーが居住するが、ここでは混血が進んでおり、グリーンランド人として示されることが多く約4万人が住む。
ユーラシア大陸では、古くからの多様な民族の活動の影響を受け、古アジア(旧アジア)系、アルタイ系、ウラル系などの語族に大別されるいくつかの言語(語族)で分けられる、多くの民族が住む。主要なものをあげると、東シベリア東部には古アジア系の1万4000人のチュクチ、その西にはアルタイ系の約29万人のサハ(ヤクート)、西シベリアにはウラル系の約3万5000人のサモエードグループの人達が住む。ヨーロッパロシアには、ウラル系の約28万人のコミ人が、またフィンランド、スウェーデン、ノルウェーには、ウラル系の約3万5000人のサーミ人が生活している。ロシアのコラ半島にも2000人ほどのサーミ人が住むという。また、ベーリング海峡の西側に少数のエスキモーが住んでいる。
非先住民は、おもに行政、運輸、鉱業などに従事する人達である。ことに北極の開発に力を入れてきたロシアは、ほかの国に比べてより多くの都市的集落を築いてきた。
[吉田栄夫]
生産活動は、アザラシやトナカイ、クジラの狩猟、漁労、トナカイの遊牧など自給的な活動や、毛皮猟などと、近代的な漁業および鉱産資源の開発である。漁業は北極の海域での古くからの産業である。ノルウェー海やアイスランド周辺でのタラ漁はヨーロッパにとって重要なものであった。現在タラ、ニシン、ヒラメなどがバレンツ海、ベーリング海を含めて漁獲されているが、北極の特徴的な魚とされ、日本で現在シシャモとして親しまれているペリンも多く漁獲されている。しかし、いずれの魚種も資源の減少が心配されている。
古い楯状地の結晶質岩石からなる地域が広い北極地域の陸地は、金やプラチナ、鉛・亜鉛などの金属資源、燐灰石(りんかいせき)や氷晶石などの非金属資源等多くの鉱物資源を埋蔵する所である。石油や天然ガスなどエネルギー資源の賦存(ふそん)も知られている。しかし、厳しい自然条件や輸送上の問題などが、ほかの地域の鉱業との競争をむずかしくし、開発を妨げている。
早くから開発されたのは、グリーンランド南西のイビグトゥートでの氷晶石の採掘であった。グリーンランドではイスアの鉄鉱石の採掘も計画されたが、稼行はされていない。ウランが将来の可能性ある資源といわれている。カナダは鉱産資源の探査に力を入れてきた。現在、鉛・亜鉛、金、銀、銅、ニッケル、ウランなどの産出があるが、埋蔵量に比すれば少ない。アラスカでは同様に埋蔵量は豊富であるが、鉱業はカナダよりかなり小規模である。スカンジナビアでは19世紀から稼行しているキルナの鉄鉱山が有名である。
多くの鉱物資源の開発に力を入れてきたのはロシアである。ニッケル、銅、錫(すず)、コバルト、プラチナ、金、銀あるいはダイヤモンド、燐灰石などが採掘されている。コラ半島には多くの非金属鉱床が知られており、燐灰石鉱床は世界最大である。
エネルギー資源をみると、第二次世界大戦後北極海沿岸の陸地と沖の大陸棚に石油・天然ガスの埋蔵が知られるようになった。陸上ではロシアのオビ下流盆地、アラスカのノーススロープ、カナダのマッケンジーデルタなどである。すでに生産が行われている所もあるが、自然条件や輸送条件などが厳しく、将来の開発をまつ所が多い。大陸棚での大規模な開発は、採掘に関するさらなる技術的発展を必要としよう。環境保護の問題も重要で、アラスカやシベリアの石油や天然ガスのパイプラインは、野生動物の移動を妨げないよう設計されている。また、レナ川河口やマッケンジー川河口などには大きな自然保護区が設けられており、環境保護と調和した開発が課題である。
[吉田栄夫]
かつてアメリカ合衆国とソビエト連邦が直接軍事的に対峙(たいじ)する所として、陸上にはレーダー基地網やミサイル基地が設けられ、海域では原子力潜水艦が行き交った北極地域の戦略的地位は、冷戦終結とともに大きく変わった。旧ソ連時代にゴルバチョフがペレストロイカ(改革)、グラスノスチ(情報公開)の一環として、ソ連北極地域を開放するという宣言を行った。これを受けて1988年12月、レニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)でソ連各地からの研究者や日本を含む多くの関心ある国々の研究者が集まり、北極地域の国際的な協同研究や、開発について討議を行った。これを契機として国際北極科学委員会(IASC(アイアスク))が結成され、ソ連からロシア連邦への転換も相まって、新たな北極の国際化の時代が始まった。
なお、スバールバル諸島の領有権について、1920年ノルウェーの主権を認めるとともに、条約加盟国には平等な経済的権益を保証するとするスピッツベルゲン条約(スバールバル条約)がパリで日本を含む29か国により締結され、スバールバルの特別な国際的地位が定まった。現在この経済的権益を現実に行使しているのは、ノルウェーと石炭採掘を行っているロシアだけである。
[吉田栄夫]
北極地域ではグリーンランド、アイスランドおよびスバールバル諸島のスピッツベルゲン島などはすでに9~12世紀ごろに発見されている。15世紀ごろからヨーロッパ人による探検が頻繁に行われ、それらの有名な探検家の名前が、バレンツ、バフィン、ハドソン、フランクリンなどの地名に残されている。1878~1879年にはスウェーデンのノルデンシェルドがベガ号によってユーラシア大陸の北を通って太平洋に出る北東航路を初めて開発した。1932年にはソ連の砕氷船シビリャコフ号がこの航行に成功した。また、北アメリカ大陸の北を経て太平洋へ出る北西航路の開拓についても多くの試みがなされたが、1903~1906年にノルウェーのアムンゼンがヨーア号で完航するに至った。
北極点到達への最初の試みは、1609年にハドソンによって行われ、1773年になってイギリス政府がフィリップスConstantine John Phillips(1744―1792)を団長とした探検隊を派遣したが、スバールバル諸島のほんの北部までしか探検できなかった。1827年にはパーリーWilliam Edward Parry(1790―1855)が氷上を橇(そり)で進んだが、北緯82度45分まで到達したにすぎなかった。これらすべての探検はグリーンランドとスバールバル諸島の間のルートを用いたが、これは南風による流氷に妨げられ、好適ではなかった。そのためフランクリンはグリーンランドの西岸を北上するルートを開発し、ヘイズIsaac Israel Hayes(1832―1881)がこのルートを用いて帆船「合衆国号」で北極点への近接を試みたが、彼はスミス海峡のエタに到達しただけであった。1871年にはホールCharles Francis Hall(1821―1871)が改良船ポラリス号で北緯82度11分の地点に達した。1875~1876年にネアスGeorge Strong Nares(1831―1915)を団長とするイギリス探検隊が、「アラート号」と「ディスカバリー号」の2隻の船団で北極へ向かい、後者の船長マーカムAlbert Hastings Markham(1841―1918)の率いる橇隊が氷盤の上を北上し、北緯83度20分まで達して、それまでの最北記録を更新した。1879年にはアメリカの探検隊が「ジャネット号」で遠征を試み、当時北極点方面から延びる広い陸地と考えられていたウランゲル島から北へ向かおうとして、ウランゲルが島であることを発見した。しかし、ジャネット号は流氷に閉じ込められて17か月にわたって漂流し、北極海東方のノバヤ・シビリ島付近で沈没、探検隊員はレナ川河口にたどり着いたが、2名を除きすべて飢えと寒さで命を落とした。
ノルウェーの有名な探検家で海洋学者のF・ナンセンは、1893年6月にフラム号を駆って北極海へと船出した。あらかじめ2~3年にわたって氷で閉じ込められて漂流することも予想していた。1895年3月ナンセンらは漂流していたフラム号から橇で極点に向かった。4月上旬彼らはそれまでの最北到達の記録を破る北緯86度14分の地点に達した。この探検は多くの科学的成果をもたらし、初めて北極点付近には陸地がなく、深い海であることを明らかにした。
その後、アメリカ、ロシア、イタリアの探検隊は北極点への接近を試み、いずれも不成功であったが、イタリア隊は1900年に北緯86度34分に達し、新記録をつくった。
アメリカ人ピアリーは、1891~1892年、1893~1895年の2回にわたって長期の探検を行ったが北極点には到達できなかった。また彼は1898~1902年、1905年、1908~1909年と北極点到達を試み、ついに1909年4月6日に橇旅行によって北極点に最初に到達した。しかし、1908年4月21日にアメリカ人クックFrederick Albert Cook(1865―1940)が2人のイヌイットとともにすでに北極点に達していたと報告されていて、ピアリーとクックの両者のうちいずれが北極点の探検に早く成功したかについて論争がおきたが、ピアリーの主張が一般に認められている。
空中から北極点を通過しようとの試みは、最初にスウェーデンの科学者アンドレーSalomon August Andrée(1854―1897)によって行われ、1897年7月スバールバル諸島からアンドレーら3人がゴンドラに乗った気球が北極海上空を飛行した。海氷上に降下後3人は2か月にわたって陸地を求めて歩き、ホワイト島(ゼムリャ・フランツァ・イオシファ諸島とスバールバル諸島の間のスバールバル寄りにある島。ノルウェー語表記ではクビトオイヤKvitøya島)にたどり着いたが1か月後死亡した。1925年にアムンゼンらが飛行艇によって北緯87度44分の地点の上空に達している。最初に北極点上空に到達したのはアメリカ人のバードで、1926年5月9日、スバールバル諸島から飛行機で通過した。その2日後にアムンゼンとノビレがスバールバル諸島から飛行船で北極点を通過し、アラスカに達している。
1882~1883年には第1回極年が設定され、欧米11か国が共同観測基地を設けた。第2回極年は1932~1933年で、日本もサハリン(樺太(からふと))における観測を分担した。1957~1958年の国際地球観測年では北極海の海氷や氷島上に米ソの四つの漂流観測所が設けられた。
また、アメリカ、ソ連およびカナダは北極の各地に気象・雪氷・凍土などの観測所を設け、研究を行ってきた。1958年にはアメリカの原子力潜水艦ノーチラス号が北極点通過の際、北極点で浮上、海中から北極点を訪れた。さらに、1977年にはソ連の原子力砕氷船アルクチカが初めて海上から北極点に到達した。また、北極海上空を通過するヨーロッパ―アメリカ―日本を結ぶ民間機航空路は、かつて頻繁に利用されたが、アラスカのリダウト火山の噴火の影響が一つの契機となり、さらにソ連の崩壊によって、シベリア上空がより開かれた航空路として提供されるようになり、利用されなくなった。
[市川正巳・吉田栄夫]
『ウォリー・ハーバート著、木村忠雄訳『北極点を越えて』(1970・朝日新聞社)』▽『E・エバンズ・プリチャード著、梅棹忠夫・蒲生正男訳『世界の民族16 北極圏』(1978・平凡社)』▽『セルゲイ・アレクサンドロヴィチ・アルチューノフ著、本荘よし子訳『北極圏に生きる』(1989・国際文化出版社)』▽『NHK取材班他著『NHK大型ドキュメンタリー 北極圏1~6』(1989~1990・日本放送出版協会)』▽『アレクサンドル・コンドラトフ著、斎藤晨二訳『北極大陸物語』(1991・地人書房)』▽『石渡利康著『北極圏地域研究』(1995・高文堂出版社)』▽『バーバラ・テイラー著、ジェフ・ブライトリング写真、幸島司郎訳『ビジュアル博物館57 北極と南極』(1995・同朋舎出版)』▽『バーナード・ストーンハウス著、神沼克伊・三方洋子訳『北極・南極――極地の自然環境と人間の営み』(1996・朝倉書店)』▽『田辺裕監修、広松悟訳『図説大百科 世界の地理3 カナダ・北極』(1998・朝倉書店)』▽『岩坂泰信編『北極圏の大気科学――エアロゾルの挙動と地球環境』(2000・名古屋大学出版会)』▽『谷田博幸著『極北の迷宮――北極探検とヴィクトリア朝文化』(2000・名古屋大学出版会)』▽『ジャクリーン・ブリッグズ・マーティン著、ベス・クロムス絵、千葉茂樹訳『氷の海とアザラシのランプ――カールーク号北極探検記』(2002・BL出版)』▽『ワシーリー・ミハイロヴィチ・パセツキー著、加藤九祚訳『極地に消えた人々 北極探検記』新装復刊(2002・白水社)』▽『神沼克伊監修・著、麻生武彦・和田誠・渡邊研太郎・東久美子著『北極と南極の100不思議』(2003・東京書籍)』▽『国立極地研究所編『南極・北極の百科事典』(2004・丸善)』▽『佐藤秀明著『北極――イヌイット』(角川文庫)』▽『フリチョフ・ナンセン著、加納一郎訳『極北 フラム号北極漂流記』(中公文庫)』
天体の自転軸が天体の表面と交わった点の一つ。地球の北極,火星の北極,月の北極などという。自転軸が天体の表面と交わる点は二つあるが,その点から周極星の日周運動を見た場合に,反時計回りに見えるほうをその天体の北極,時計回りに見えるほうを南極という。
地球の自転軸を無限に延長して天球と交わらせた2点のうち,北側の点を〈天の北極〉という。赤緯+90°の点に当たる。地球の自転軸が歳差や章動,極運動などにより空間に対して変動するため,恒星に対する天の北極の位置は変化する。現在(1985)は赤緯約+89°のところに2等星のこぐま座のα星があり,これを北極星と呼んでいる。
執筆者:古川 麒一郎
北極は狭義には地軸の北端の北緯90°の北極点North Poleを指す。広義には北極海を中心とする,ユーラシア,北アメリカ両大陸の北辺,グリーンランドを含む北極地域Arcticを指す。英語のArcticはギリシア語のarktikos(北の)に由来し,北天の熊座のarktos(現在のおおぐま座Ursa Major)の下にある地域を意味する。北緯66°33′の北極圏以北では1年間に少なくとも1日以上太陽が水平線下に沈まない日があり,逆に1日以上の太陽が昇らない極夜の日がある。北極圏以北の面積は2100万km2ある。北極地域の特徴は北極海とその隣接海域の海氷,降積雪,低温,氷河と氷床,凍土地帯,ツンドラ植生などにある。したがってツンドラ地帯の南限,または森林の北限を北極地域の境界とするのが現実的である。この境界は7月の平均気温が陸地で10℃,海洋で5℃の等温線にほぼ一致し,ユーラシアとアラスカで北緯70°付近,カナダ,グリーンランド,ベーリング海で北緯60°前後となる。この定義による北極地域の面積は約2700万km2で,陸地は約1000万km2を占める。北極地域には北極点のほかに種々の極点がある。地球磁場に関連する北磁極(磁石の北極が真下を指す)は,北緯79°17′,西経105°53′にある(1997現在)。また地球磁場を地球の中心におかれた双極子磁石で近似したとき,この磁石の軸が地球表面に交わる北磁軸極はグリーンランド北西部の北緯79°,西経71°付近にある。この点を中心に半径約2500km付近に最大頻度をもつ極光帯がドーナツ状に取り巻いている。陸岸から遠く海氷の密集する北緯84°,西経170°付近は到達不能極Pole of Inaccessibilityや氷極と呼ばれていたが,航空機や強力な砕氷船の発達により無意味となった。
極夜の続く冬季には放射冷却が北極の熱収支を支配する。低温域はグリーンランド,カナダ北極群島(バフィン,エルズミア,ビクトリア,デボン,バンクスほか),シベリア北東部である。北極海では海洋の熱が海氷をとおしたり割れ目から表面へ運ばれ,放射冷却による熱の損失を補償するので陸地ほど低温にならない。1月の気温は北大西洋の北極域で-5℃ぐらいであるが,カナダ北部やグリーンランドでは-60℃以下の気温がときどき記録される。北極海では-50℃以下になることは少ない。極夜の季節が終わっても全域がほとんど雪で覆われているため,表面の太陽光線の反射率は70%に達し,雪面の放射冷却が大きいので融雪は5~6月ごろに始まる。融雪は加速度的で,裸地やツンドラの反射率は5~15%となり,地表面に多量の熱が吸収され,大気や海水を暖める。北極海の海氷上の積雪も夏には融け,氷上に水たまりが現れ,気温も0℃前後に上昇することがある。沿岸域では20℃に達することも珍しくない。北極海の夏の湿度は95~98%に達し,霧や低い層雲が発生し雲量が多い。降水量のほとんどは降雪によるが,北極海で年間150mm程度,グリーンランド南部やラブラドルで300~400mmに達する。北極に定常的ないわゆる冷たい北極高気圧が存在するという説は否定され,4月ごろに一時高気圧が現れ,相対的には低圧部となっている。1920年ごろから北極の気温上昇が認められ,50年代まで北極海の夏の多年性海氷面積が約100万km2減少した。19世紀末に比べると1930~40年代の冬の気温は5~7℃上昇した。50年代から気温の低下や海氷面積の増加が認められている。北極の気候変動には自然環境と人間活動が複雑に関係しているので不明な点が多い。近年,ヨーロッパ北部の工業地帯から発生する硫化物などのエアロゾル(エーロゾル)による北極煙霧が北アメリカ側へ流入しており,研究が進められている。
北極海の周辺の陸地は古い楯状地や卓状地が分布する。ユーラシアの北極海沿岸には低地が発達し,オビ,エニセイ,ハタンガ,レナ,インジギルカ,コリマの諸河川が北極海へ注ぐ。アラスカ北部やマッケンジー河口にも平たん地がある。山地はタイミル半島(最高点1146m),ベルホヤンスク山脈(2281m),チュコート半島(以上ロシア),ブルックス山脈(2831m,アラスカ),エルズミア島,バフィン島(以上カナダ),グリーンランド(最高点はグンビョアン山,3700m)の周縁部に見られる。先カンブリア時代の古い楯状地にはヨーロッパ北東部,シベリア台地,カナダ北部,グリーンランドが属し,ここでは氷河作用によるフィヨルド地形や氷食地形が残されている。シベリアや北アメリカ北部の平たん地や丘陵地にはより若い時代の堆積物に覆われている地域が多い。褶曲(しゆうきよく)山地は古生代から中生代にかけての造山運動によるもので,カナダのロッキー山脈の一帯と,これより古いウラル山脈がある。約2万年前には北極地域の大部分は巨大な氷床に覆われ,そのなごりである永久凍土は厚さ1500mに達するところもあり,総面積2100万km2となる。永久凍土層の表面は夏に融け冬に凍り,活動層と呼ばれ,南部で5mに達する。不連続的永久凍土は北緯50°付近まで見られ,年平均気温が約0℃の等温線に一致する。永久凍土は北極海の大陸棚にも延びており,海洋底永久凍土と呼ばれる。ちなみに中緯度にも点在的永久凍土があり,日本でも大雪山や富士山頂に存在する。
グリーンランド氷床(180万km2)をはじめ,北極の氷河総面積は約200万km2に達する。グリーンランド氷床は平均氷厚1500m,最大3200mで,中央部に南北に延びる二つのドームがあり,最高標高は3300m。氷床の周辺には山岳地帯があり,約20の溢流氷河から氷山となって流出(年間約280km3)する。とくに西岸からの氷山量が多く,北大西洋の大圏航路域に出現する。その他の氷河はスバールバル(スピッツベルゲン),アイスランド,ロシアの北極海の島,アラスカとカナダ北部に存在する。カナダのエルズミア島北岸には氷厚約50mの棚氷が存在し,一部が割れて北極海を漂流するものは氷島と呼ばれ,表面が平たんで南極海の卓状氷山に似ている。北極海の中には尖塔状の氷山は存在しない。ロシアの島からも氷島は生まれるが規模は小さい。氷島は漂流観測所の設置に適し,米ソが設けたが,数年後には北大西洋に流出・融解するため恒久的な維持はできない。北極海の中心部には多年性の海氷がある。厚さは3~4mのものが多く,氷片が重なり合った氷丘や氷丘脈は10~15mに達し,まれには20~25mに達するものもある。北極海の海氷は夏には面積500~800万km2と縮小し,シベリアや北アメリカの沿岸は6~9月に航行可能となる。秋には低塩分の河口や沿岸から結氷が始まり,ひと冬に1~2mの厚さとなる。また多年性海氷では夏に表面が融け,冬には底面で結氷し,この過程を数年繰り返して平衡氷厚3~4mに達する。冬の海氷面積は1200万km2に達する。冬にはオホーツク海や日本海北部のような中緯度海域でも海氷が発達し,北半球の海氷面積は1600万km2に達する。北極海の海氷の観測や研究はソ連がシベリア沿岸の北極航路の運航期間延長のために努力してきた。近年は原子力砕氷船による冬季の航行にも力を入れている。アラスカの北のボーフォート海では,海底油田や天然ガスの探査開発が始まっており,これに伴う掘削井,人工島,耐氷掘削船などに関連する海氷工学の研究が進展している。
樹木限界以北のシダ類以上の植物は約900種といわれ,顕花植物はアラスカの北極海沿岸やスバールバル諸島で約100種が知られており,80°以北のフランツ・ヨシフ諸島でも維管束植物37種,地衣類94種,コケ82種が知られている。多くは北極の固有種である。植生はツンドラ地帯,沼沢地,寒冷砂漠地に分けられる。植生を支配する環境条件として,冬の低温と水分欠乏,短い夏,積雪地では夏に過剰水分の供給,土壌中の栄養分欠乏,土中のバクテリアの欠乏,酸性土などがあげられる。これらの環境に適応した植物は比較的単純であるが不安定な生態系をつくっている。さらに動物相とともに生物相全体の生態系をつくる。短い夏の期間にはツンドラ地帯で多数の開花が見られるが,環境に適応して無性生殖をする種類もある。
生物相からは北極地域を定義しにくい。夏には大陸性の高気温に支配される低北極地域と,北極海の低温性気候に支配される高北極地域に分ける説がある。低北極の南限は樹木限界にほぼ一致し,高北極の南限はほぼ北緯70°以上にある。このような北極地域ではアラスカやシベリアで氷河期に氷に覆われなかった時代の生物相が進化し,他の地域へ広がったといわれる。北極地域の生物は中緯度のものと同一のものが多く,海で隔絶された南極とは異なる。北極の動物は約3000種に達し,この中に約150種の魚類と17種の海生哺乳類が含まれる。年間を通じ高緯度に現れるのはホッキョクグマ,ホッキョクギツネ,レミング,ジャコウウシなどで,南限部にはトナカイ(北アメリカでカリブーと呼ばれる)がおり,夏には森林帯へ移動する。鳥類にはシロフクロウ,ライチョウ,ワタリガラスなど種類が多く,キョクアジサシのように南極まで移動するものもある。ホッキョクグマは海氷上で生活し,真冬に極点付近に現れることがあり,その食べ残しを追ってキツネもその付近に現れる。ベーリング海や北大西洋北部は生物生産量が高く,魚類や海生動物が多い。しかし,1600年代の初めのグリーンランドクジラ(ホッキョククジラ)の乱獲に見られるように,クジラ,アザラシ,オットセイなども減少し,近年では国際協定で捕獲が制限されている。陸生動物も同様で,ホッキョクグマ(現在約1万頭と推定)の捕獲も関係国で制限している。
環境の変化は動植物の繁殖に大きな変動を与える。たとえば融雪期間が遅れると,鳥類の営巣地が少なくなり,雛の数が少なくなる。このため多数の昆虫類が生き残る(シベリアやアラスカでは夏にカ(蚊)が多数発生し人間活動に影響する)。さらにレミングなど,植物を摂取する動物群は栄養不足となり,増殖に変化が起こる。キツネのような肉食動物は鳥の雛よりもレミングなどを飽食するようになる。レミングの〈集団自殺〉といわれるのも動植物の全生態系の不均衡から起こるらしいといわれる。北極の生物相の種類は少ないが,各種の個体数は比較的多く,全生態系は必ずしも安定していない。
北極に住む原住民と移民あるいは白人との区別は明確でなくなりつつある。北アメリカではエスキモーやアメリカ・インディアンと白人とは分けられるが,白人であるラップ人やコミ族の住むスカンジナビアや旧ソ連のヨーロッパ地方では区別しにくく,グリーンランドのようにエスキモーと白人との混血が進んでいるところもある。北極の各国の行政区分も考慮した北緯50°~60°以北の約4100万km2(海を含む)の人口は約900万人で,このうち原住民は約104万人である。人口密度は1km2当り0.4人にすぎないが,アメリカ,カナダ,ロシア,アイスランドなど8ヵ国民を含んでいる。北極地域の住民はロシアの約650万人(1976)が最大で,ヤクート族約29万人,コミ族約28万人など約90万人の原住民を含む。エスキモーはグリーンランドの約4万人をはじめ,アラスカに2.8万人,カナダに1.2万人である。ラップ人は3.4万人,アメリカ・インディアン1.7万人などである。原住民は狩猟やトナカイの牧畜をするほか,白人が従事していた職種につく者も増えている。
北極海に最長の海岸線をもつソ連(現ロシア)は,1926年に東経32°04′35″と西経168°49′30″(本土領のほぼ東西に当たる)と北極点の間の扇形領域を領土と主張した。いわゆるセクター理論sector principleに基づく領土権の主張であるが,国際法に基づくものではなく,アメリカやカナダのように北極海に面する国は主張を認めていない。沿岸12カイリの領海や海峡域については他国船の通過は認めていない。沖合での他国の船や航空機の運航,氷上観測所の設置については流動的である。カナダも1907年から西経60°と141°間の扇形域を領土としているが,公式に宣言したものではない。70年北極域の環境保全の見地から海岸から100カイリ沖までを海洋汚染管制領と宣言した。これに対しアメリカが反対を表明した。カナダ北極群島北部とグリーンランドとの間の大陸棚の境界設定は73年に行われた。ノルウェーは1920年にスバールバル(スピッツベルゲン)条約を日本を含む39ヵ国で結んだ。スバールバルに領土権を主張するとともに,同島での軍事行動を禁止した。加盟国は同島での商業活動を行うことができるが,現在ロシアが石炭採掘を行っている。スバールバル周辺のカラ海側の大陸棚と,ノルウェーの大陸棚に関しロシアとの間に問題がある。グリーンランドはデンマーク領であったが,79年に自治法が制定された。北極海の中心部は200カイリ経済水域外であるが,浮氷域や氷島の主権については国際法上種々の解釈があり,各国の見解もそれぞれ異なっている。
執筆者:楠 宏
第2次大戦中,ドイツのUボートが大西洋で猛威を振るっていたとき,援ソ物資の補給ルートとして北極が使われた。戦後,核時代を迎えて,米ソが正面から向かいあう地域となるに及んで,その軍事的重要性は飛躍的に高まった。戦略核戦力を構成する3本柱(ICBM,SLBM,長距離重爆撃機)についていえば,米ソはICBM(大陸間弾道ミサイル)を,北極を隔てて,互いに相手の心臓部に向けて配備していた。そこで,たとえばアメリカは,北極越えに飛来するソ連のICBMや核爆弾を搭載した戦略爆撃機を一刻も早く捕捉するため,1956年にカナダと共同で,北緯70°線に沿って,DEWライン(遠距離早期警報組織)を設置した。またアメリカは58年8月8日,世界初の原子力潜水艦ノーチラス号による北極潜航横断の成功を発表した。ソ連も60年代に入ってから,原潜がムルマンスク方面から北極点へ行き,そこで氷を破って浮上,SLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)を発射できる態勢を誇示した。北極の地理的特徴は水深200mくらいの大陸棚が極点の近くまで延びているのと,氷質が単純でないことにある。とくに太平洋側は浅瀬が多いうえに,氷の外海への出口がないため,どんどん厚くなり,鋼鉄のように硬い多年性の氷が海中に50~100mの厚さで錐(きり)のように垂れ下がり,原潜の行動を危険かつ困難にしている。しかし,厚い氷の下に潜めば,衛星からも探知されにくいのは事実で,北極は原潜の訓練場になってきた。
執筆者:八木沢 三夫
古代ギリシアでは極北の地をトゥーレThoulē(ラテン語ではThule,またとくにUltima Thule)と呼んで世界の北端と信じ,ヒッパルコスによればトゥーレ周辺は人間の住み得ぬ土地とされていた。しかし前320年ころギリシア人ピュテアスがマッサリア(現,マルセイユ)を出発し,ブリタニア(グレート・ブリテン島)を発見し,北方にあるこのトゥーレの探査を試みた。トゥーレは現在グリーンランド(バフィン湾北)の地名チューレとして残っているが,ピュテアスはおそらくアイスランドを訪れ,海氷縁に達したのではないかといわれる。825年アイルランドの修道士ディクイルDicuilはアイスランド(トゥーレ)に定住者のいることを記述した。890年にノルウェーのオッタールOttar(Ohthereともいう)は,ノルウェー北端のノール岬を回って白海に達した。このころからバイキングの時代に入る。エイリーク(赤毛のエリック)と呼ばれるノルウェー人はノルウェー,次いでアイスランドから追放され,982年(981年説もある)にグリーンランドを発見し,南西岸に定住した。ノルウェーやアイスランドからの植民を迎えるとともにグリーンランドの西岸を北上し,西へ向かってバフィン島や,さらにノバ・スコシア(カナダ南東部)などに達した。グリーンランドの植民は一時栄えたが,気候の寒冷化,伝染病,エスキモーとの戦いなどで15世紀には廃絶した。一方,10世紀の終りにはロシア人がノバヤ・ゼムリャ島を発見し,1194年にノルマン人がスバールバル(〈寒い岸〉の意味)を発見したといわれる(9世紀ころから北ヨーロッパの漁師は捕鯨や狩猟のため北方海域に出かけ,スバールバルは捕鯨者が9世紀に発見したともいわれるが,彼らの地理的発見については記録が少ない)。
15世紀に入ると商人の活躍が始まった。当時,インド,日本,またキタイKitai(英語ではキャセイCathay)と呼ばれた中国などは,財宝の国々であるとヨーロッパでは信じられていた。キタイへの最短航路を求めて北極海の探査が始まった。これは北極地帯に不凍の大海が存在するとの新しい見方が発生したことによる。とくに極地方では夏の間太陽が沈まないことから,北極の海はむしろ暖かいはずだとの俗信も生まれ,やがて二通りの航路が探られるようになった。北ヨーロッパから西航し北アメリカ北部の西半球を通る北西航路とシベリア北部を通る北東航路である。大西洋,インド洋を通るキタイへの航路はすでにスペイン,ポルトガルが独占していたので,イギリス,オランダ,ロシアは独自または共同で航路探査に当たった。1551年にイギリスに商業冒険家会社が設立されたのをはじめ,イギリス・モスクワ商会,オランダ白海貿易商会などが設けられ,民間や政府の資金を投入した北極企業が始まった。16世紀末からスバールバル周辺の捕鯨がオランダなどで始まった。17世紀に入ると捕鯨者は2万人に及び,オランダや北ヨーロッパの船が毎夏500~600隻出漁し,ホッキョククジラはほとんど全滅した。1697年でもスバールバル周辺には200隻が出漁したといわれ,陸上にも解体場が設けられ,越冬した者もいる。捕鯨者はさらに鯨や海獣を求めてグリーンランド周辺に南下し,18世紀の中ごろには南米を回航してベーリング海から北極海に達している。19世紀末には捕鯨砲を備えた蒸気船の出現で,ノルウェー沖合の近代捕鯨が復活した。その後の海生哺乳類の捕獲は,北極海域のみならず全世界の海域での国際的協定による保護や禁止へと移っていった。しかし北極海域の探査が進むにつれ,いくつかの奇妙な北極観も現れた。たとえば17世紀末には天文学者E.ハリーが北極には巨大な穴があいており,地球内部の光がオーロラ現象を生むとする地球空洞説を提示している。
北西航路の探査はイギリス王の命を受けたイタリア人カボットSebastian Cabot(1474-1557)のニューファンドランドからラブラドル方面への1497年の航海に始まる。彼は後年商業冒険家会社の初代会長になった。イギリス女王エリザベスの支持を受けたフロビッシャーMartin Frobisher(1535?-94)は,1576-78年グリーンランド西岸とバフィン島南部を探検したが,バフィン島南岸のフロビッシャー湾の発見だけに終わった。なお,彼は第1次航海でグリーンランド・エスキモーを1人連れ帰り,これをキタイ人と誤認して東アジアに到着した証拠と思いこんだ。1585-87年イギリスのデービスJohn Davis(1550?-1605)はグリーンランドとバフィン島との間にデービス海峡を発見し,北極圏を突破した。同じくイギリスのハドソンHenry Hudson(?-1611)は北東航路探査に失敗したあと南下して北アメリカ沿岸を探検してハドソン川を発見し,ハドソン湾も発見したが,1611年部下に置き去りにされ現地で死亡した。16年にイギリスのバフィンWilliam Baffin(?-1622)は北西航路を求めてバフィン湾を発見,バフィン島北東岸を調査したが航路の発見には失敗した。70年にはハドソン湾会社が設立され,カナダ北極地方の毛皮貿易やその後の交易活動の基礎となった。18世紀に入ると政府主導の地理探査が始まり,南極を一周したイギリスのJ.クックは太平洋を北上しアラスカ西端に達した。1818年イギリスのロスJohn Ross(1777-1856)は,バフィン湾から西へ続くランカスター海峡に入った。ロスは1829-33年バフィン島の西のブーシア湾で2年越冬したが,甥の副隊長ジェームズ・クラーク・ロスJames Clark Ross(1800-62,後年南極ロス海発見)は地磁気の専門家で,1831年に北磁極(北緯69.5°,西経95°)を発見した。イギリスのフランクリンJohn Franklin(1786-1847)は海軍省のエレバス・テラーの2隻の船と134名の部下とともに,45年テムズ川から北西航路の発見に向かった。補助蒸気機関をもつプロペラ推進船の氷海テストも兼ねていた。J.C.ロスが南極探検(1841)に用いた帆船を改装したものである。ビクトリア海峡で氷に閉じ込められ,フランクリン以下全員が遭難した。捜索のため47年から10年間に40の遠征隊が海陸に出され,このためカナダ北極群島南西部の地理は明らかになった。この間の1850-54年ベーリング海峡から入ったマックリューアRobert McClure(1807-73)は北西航路の存在を証明した。南極探検で有名なノルウェーのR.アムンゼンは,ヨーア号で大西洋から北西航路に入り2年越冬のあとベーリング海峡に達した(1903-06)。
一方,オランダ,イギリスの北東航路の探査は16世紀に入って始まった。1596年オランダ人バレンツWilliam Barents(?-1597)は2隻を率いスバールバル(新発見したとして〈スピッツベルゲン(尖った山)〉と命名)やバレンツ海を探査した後,1隻でノバヤ・ゼムリャ北端を回ってカラ海突入を試みた。船は氷に閉ざされ,陸岸で越冬を強いられた。翌年バレンツは死亡し,乗組員は2隻のボートでコラ半島にたどり着いた。17世紀に入るとロシア人の北極海沿岸の探査が活発となった。1648年にデジニョフSemyon Dezhnyovはコリマ河口から船でアジアの東端を回りアナディル湾に入り,大西洋と太平洋が北極海を経て続いていることを示した。18世紀に入りピョートル1世は北極大遠征という国家事業を計画した。それにデンマーク人のロシア海軍士官V.ベーリングによる1725-41年の探検をはじめ,オビ川以東のロシア北極海岸の測図などが含まれている。カナダのハドソン湾会社の設立と同様に,ロシアの交易会社が設立された。その勢力はアラスカに伸び,19世紀の初めには露米会社の設立をみたが,1867年アメリカがアラスカを購入した。
16世紀の半ばから試みられた北東航路の通過に成功したのはスウェーデンのN.A.E.ノルデンシェルドである。1878年7月21日,ノルウェーの北部にあるトロムセーを出発したベガ号は各国の隊員30名を乗せ,種々の調査を行ってベーリング海峡に近づいたが,氷に閉ざされ翌年7月まで越冬した。79年(明治12)7月21日アジアの最東端を回航,9月2日に横浜に入港し,北東航路初通過は世界中に打電された。一行は日本の観光のほか,多量の図書等を購入し,80年スウェーデンのストックホルムに全員帰りついた。この年,アメリカのデ・ロングGeorge Washington De Long(1844-81)はジャネット号でベーリング海峡から東シベリア海を西へ向かったが,氷とともに漂流し,北緯75°,東緯140°にあるノボシビルスク諸島付近で,船は氷圧で壊された。氷上を行進した2名が生還し,船の残骸が84年にグリーンランドの海岸で発見された。1932年の夏にソ連のシュミットOtto Yu.Shmidt(1891-1956)を隊長とするシビリャコフ号が,北東航路を通過し横浜に入港した。
19世紀末には陸路および海路による北極の地理的発見は少なくなり,一地点での科学観測の価値が認識されるようになった。1882-83年の第1回極年(第2回は50年後の1932-33年,第3回はさらに25年後の1957-58年で国際地球観測年と改称)には北極地域に約10ヵ所の観測所が設けられた。一方では,北極海中心部の探査と北極点到達をめざす遠征隊が出た。スウェーデンのアンドレーSalomon August Andrée(1854-97)は,1897年7月スバールバル(スピッツベルゲン)から気球に乗り北極点到達を試みたが遭難した。33年後に日記や未現像フィルムが発見された。デ・ロングのジャネット号の漂流にヒントを得たノルウェー人F.ナンセンは耐氷木造船フラム号を造り,1893年9月にジャネット号の沈没地点付近から氷とともに漂流した。船は95年2月には北緯84°近くに達したが,これ以上の漂流による北進は望みなしと判断したナンセンは隊員1名と犬ぞり(橇)とボートでさらに北進した。4月7日,19世紀における最北点86°13′に達したのち引き返し,フランツ・ヨシフ島で越冬,翌年6月イギリス隊に出会った。ナンセンの帰国の1週間後にフラム号も全員帰国した。漂流の間に北極海の海洋調査などを行った。北極点到達はアメリカ人R.E.ピアリーとクックFrederick Albert Cook(1865-1940)とで争われた。両人ともカナダのクイーン・エリザベス諸島のエルズミア島北岸から犬ぞりで北極点へ向かった。クックは1908年4月21日に,ピアリーは09年4月6日に極点へ到達したが,クックの報告に疑惑があるとされ,ピアリーがアメリカ政府や地理学者から支持された。現在でも両名のいずれが真実かの議論がある。
北西航路を開いたアムンゼンは1918年にモード号でオスロを出発し,北東航路で2年越冬後アラスカのノームに入港した。ナンセンも乗船していたが,飛行機による北極点到達を意図してここで下船した。モード号は科学者H.U.スベルドルップ(1888-1957)らを乗せ再びベーリング海峡へ入った。フラム号漂流と同じく極点到達をねらい,さらに東方からの北極海突入を図ったが,22年夏ウランゲル島の東から2年間漂流し,結局,25年ノームに戻った。この間に多くの科学調査がなされた。このとき同行した若い海氷学者マルムグレンFinn Malmgren(1895-1928)は,のちに飛行船イタリア号の探検に参加,死亡した。
このころから航空機の発達時代に入り,第1次大戦を経て技術的進歩をとげた。北極点到達をめざし飛行機を最初に用いたアムンゼンは1925年5月21日,スバールバルからアメリカ人エルズワースとともに北緯88°まで飛んだ。さらに翌26年,アムンゼンは飛行船ノルゲ号による北極点経由の横断飛行を計画し,エルズワースやイタリア空軍のノビレUmberto Nobile(1885-1978)とともにスバールバルで準備をしていた。このときアメリカ海軍のR.E.バードは飛行機で5月9日極点までを往復した。2日遅れの11日アムンゼンらは北極を横断し,5月14日アラスカに着陸した。28年5月ノビレは飛行船イタリア号で極点に到達したが帰路墜落した。ノビレらの救助に各国から援助隊が出動し,ノビレと不和であったアムンゼンもフランス機ラタム号で救助に向かったが遭難した。
1931年イギリスのG.H.ウィルキンズの潜水艦ノーチラス号探検は,スバールバルから極点をめざしたが故障し北緯82°から引き返した。しかし海洋や海氷の観測に成果をあげた。このノーチラスの探検には先のモード号に乗船したスベルドルップも参加している。
1930年代の航空機利用が高まるにつれて探検の様相は変わっていった。ソ連は革命以後,北極開発を国策とし,飛行機の利用にも力を入れた。37年6月6日北極点に漂流観測所が設置され,翌年2月19日アイスランド北方で撤収された。37年には高緯度地方の航空機観測が行われ,翌年にはモスクワからサンフランシスコまでの北極横断飛行を行った。37年の夏は北極海の氷状が悪く,ソ連の貨物船や調査船が氷に閉ざされた。なかでも砕氷調査船セドフ号はラプテフ海で37年10月に氷に閉ざされ,40年1月グリーンランド海へ抜けるまで漂流した。一時は北緯86°40′まで近づいた。この間に海洋観測,生物採集,地磁気観測などが行われた。このような海難を避けるためソ連は北極海航路の各地に観測所を設け,航空機での氷状観測を強化した。極地観測所は1932年ころ24ヵ所であったが,48年には80と増加した。1930年代でユーラシア側の地理的発見は終わった。しかし,カナダ北極はまだ未知の地域が残されており,イギリスから多くの探検隊が出されたが世界大戦に入った。戦後の最大の発見はカナダ空軍の空中写真撮影機によるハドソン湾北部のフォックス湾内のプリンス・チャールズ島(9000km2)であろう。58年8月アメリカの原子力潜水艦ノーチラス号はベーリング海から北極点を通り大西洋へ海氷下を航行した。翌年3月スケート号は極点で浮上した。77年夏ソ連の原子力砕氷船アルクチカ号(のちブレジネフ号)は北極点に到達した。氷上からの極点到達はスポーツ化し1968年4月19日のアメリカ人プレーステッドRalph Plaistedをはじめ,近年では日本人も加わっている。78年4月には日本大学隊と植村直己(1942-84)が到達し,植村はグリーンランドを縦断した。
古くは魚や海獣猟,陸上での毛皮猟を経て,トナカイ飼育や毛皮動物飼育などの経済活動があったが,現在は鉱業や林業が中心となっている。北極の天然資源開発には,割高な設備投資,維持費,輸送費を見込んだうえでの採益を必要とする。ソ連・ロシアは他の北極域の国に比べて最も多くの鉱物資源を採掘している。すなわち,エニセイ川下流のノリリスク付近はニッケル,銅,白金,コバルトなどが20以上の鉱山で採掘されている。1940年ころから開発が急に進み,ニッケルはコラ半島に産するものと合わせて,ソ連の全生産量の2/3に達した。ノリリスクの人口は急増しており17.4万人(1989現在)に達した。鉱石はエニセイ川を下り北極海航路を通ってカラ海を経て,西のコラ半島の製錬所に運ばれる。コラ半島にはニッケル,リン灰石,鉄鉱山があり,リン灰石の埋蔵量は世界最大である。オホーツク海に面するマガダンの北方のコリマ川上流域は金の産地で,ソ連の全産出量の約半分で年間約180tと推定されていた。ヤクート自治共和国(現,サハ共和国)の西部で57年からダイヤモンドの採掘が始まり,人口3万8800(1989)のミールヌイという町が生まれた。
石油と天然ガスはオビ川とエニセイ川の下流域で1950年代から開発が始まった。石油とガスの輸送に本国およびヨーロッパ各国へパイプラインが敷設されており,鋼管は日本からも輸出された。西シベリアの石油は年間約3億5000万t,天然ガスは3300億m3産出していると推定される。近年枯渇の傾向もみられるが,東シベリアや北極海油田の探査も成果をあげている。西シベリア地区の鉱産物や林産物の輸送のため,北極海航路はエニセイ川下流まで,春の解氷期を除き周年開かれている。東シベリアでは第2シベリア鉄道BAM(バム)が10年がかりで建設された。石油資源の開発はアラスカとカナダ北部でも1920年代から注目されてきた。アラスカ北端のバローでは55年から天然ガスが利用されている。北極海に面するノーススロープでの石油試掘は第2次大戦中に始まり,カナダとの国境に近い地区は企業に開放された。68年にプリュドー湾油田が発見されてから,約800本試掘井が掘られた。77年6月アラスカ南岸までのパイプラインが敷設され,1日150万バレル送られている。1975年からボーフォート海やマッケンジー河口での海底油田探査が行われており,このため永久凍土や海氷に対処する技術の発展は著しい。北極油田の開発には日本も参加しており,共同企業のほか掘削リグの輸出などを行っている。
カナダの全石油埋蔵量は約55億m3,天然ガスは約12兆m3と見積もられ,マッケンジー河口のほか,大西洋側のラブラドル海,北極群島で探査開発が進められている。南部へのパイプラインの敷設が計画されているが,自然環境の保全や生物生態系への影響を少なくするために,掘削作業や海上輸送も含めて種々の規制措置がとられている。スバールバル(スピッツベルゲン島)ではノルウェーとロシアがそれぞれ年間約40万tの石炭を採掘している。北極の厳しい自然環境と経済上,道路は発達していない。これに代わって航空機の利用が盛んである。北極の多くの村落には小型機用の滑走路がある。グリーンランドではヘリコプターの利用が盛んである。
ソ連は1930年に北極研究所を設け,おもに北極海航路の開発に関連する研究を進めてきた。58年に北極研究所は北極南極研究所と拡大したが,北極の極地観測所や氷上の漂流観測所で地球物理,海洋,気象,海氷等の観測を続けている。大学や関係官庁の研究所も北極研究に参加している。漂流観測所は常時1~2ヵ所が維持されている。アメリカはアラスカやグリーンランドでの研究を進めているが,北極海の海氷や氷島上での研究は現在行っていない。60年代にはアメリカの氷島上での研究に日本人研究者が参加したこともあり,現在小規模の日本隊がアラスカ,カナダ,アイスランド,スバールバルで短期間の調査を行っている。カナダ政府は極域大陸棚計画と称する北極群島や北極海の調査を進めている。アメリカ,カナダ共同の調査隊による特定の研究が行われることも多い。グリーンランドには小規模の観測所があるが,近年は石油資源基礎調査も進められている。グリーンランド氷床の研究は国際的組織で行われている。ノルウェーには極地研究所があり,おもにスバールバルの調査を行っている。スウェーデンでも北極圏以北での研究が進められているが,南極研究も含めて極地研究を推進すべく,アカデミーの中に委員会が設けられた。2国間または多国間での共同研究も少なくないが,領土権問題のからむ北極研究の自由化のために,民間レベルでの国際北極委員会Comité Arctique Internationalが1979年設けられた。しかし,ソ連の研究者が未加入であったので南極研究のような自由化には遠い。
執筆者:楠 宏
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