バシレイオス(読み)ばしれいおす(英語表記)Basileios

日本大百科全書(ニッポニカ) 「バシレイオス」の意味・わかりやすい解説

バシレイオス
ばしれいおす
Basileios
(330ころ―379)

4世紀のギリシア教父。聖性のほとばしり出た「教父の黄金時代」を担う。大バシレイオスとよばれ、また、ナジアンゾスのグレゴリオス、弟のニッサのグレゴリオスとともに「カッパドキアの三つの光(カッパドキア三教父)」とたたえられる。小アジア東部カッパドキアの町カエサレアの由緒あるキリスト教徒の家柄に生まれた。コンスタンティノープルアテネに遊学してギリシア古典の豊かな教養を積んだが、やがて、聖者たる姉マクリナMacrina(330ころ―379)の感化もあずかって修道に志す。シリア、エジプトの隠修士の下で禁欲的修行を行ったのち、故郷のネオカエサレアで修道院を組織。このとき、後世にまで範となった「修道規則」を共住修道士のために作成し、「修道院制の父」となる。また、ナジアンゾスのグレゴリオスとともに、オリゲネスの著作からの抜粋『フィロカリアPhilokaliaを編んだ。エウセビオス(エウセビウス)の要請でカエサレアの司祭にあげられ、その死後、主教となる。総じてクレメンス、オリゲネスの学統の継承展開として、ギリシア古典の受容に積極的姿勢を示しつつ、異端のアリウス派に対する論陣を張り、三位(さんみ)一体の正統教義の確立に尽くした。同時に、司牧、福祉、典礼の制定などの実践的活動に多大の足跡を残し、東方教会の伝統の礎(いしずえ)となった。著作に『エウノミオス駁論(ばくろん)』Adversus Eunominium、『聖霊について』De Spiritu Sanctoのほか、多数の説教、300通以上の珠玉の書簡が残されている。

[谷隆一郎 2015年1月20日]

『W・イェーガー著、野町啓訳『初期キリスト教とパイディア』(1964・筑摩書房)』『アダルベール・アマン著、家入敏光訳『教父たち』(1972・エンデルレ書店)』『J. QuastenPatrology (1975, Spectrum, Utrecht, Antwerp)』『B. AltanerPatrologie (1978, Herder, Freiburg, Basel, Wien)』


バシレイオス(1世)
ばしれいおす
Basileios Ⅰ
(827―886)

ビザンティン皇帝(在位867~886)。帝国の最盛期であるマケドニア朝の初代皇帝。宮廷の馬丁からミハイル3世(在位842~867)の寵臣(ちょうしん)となり、のちに同帝を暗殺して即位。前代からの「フォティオス論争」には第8回公会議を首都コンスタンティノープルで開催し(869~870)、学者出身で総主教のフォティオスを解任ローマ教皇と和解。東部では異端のパウリキア派を抑え(872)、小アジア東部に進出。南イタリアではシラクーザを失ったものの、テマ・ロンギバルディアをカラブリアに新設し、イスラム勢力の北上に対抗。国内では法の整備を図り、『ローマ法大全』の民法と公法のなかから実用に適する規則を抽出した『プロケイロン』(実務便覧)とその改編『エパナゴーゲ』を刊行した。

和田 廣]


バシレイオス(2世)
ばしれいおす
Basileios Ⅱ
(958ころ―1025)

ビザンティン皇帝(在位976~1025)。父ロマノス2世(在位959~963)の没後、母の摂政(せっしょう)、ニケフォロス2世、ヨハネス1世の治世を経て、27歳ころようやく実権を得た。地方豪族スクレロス家、フォーカス家などの反乱を抑えるため、キエフ大公のウラジーミル1世の援助を得、彼に妹アンナを降嫁させ、キエフ(現、キーウ)のキリスト教化を促進。ブルガリアのマケドニア王国を破り(1014)、全バルカン半島を帝国領とした。続いてシリア、アルメニアにも進攻、七つのテマ(軍管区)を新設。その結果ユスティニアヌス1世以来の大領土を獲得し、帝国の最盛期、マケドニア朝の頂点を築いた。

[和田 廣]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「バシレイオス」の意味・わかりやすい解説

バシレイオス
Basileios; Basil the Great

[生]330頃.カッパドキア,カエサレア
[没]379.1.1. カッパドキア,カエサレア
聖人,教会博士,カッパドキアの3教父の一人。バシリウスあるいはバジリウスともいう。名門に生れ,姉は熱心なキリスト者マクリナ,弟は東方教会最大の神学者ニッサのグレゴリウス。カエサレア,コンスタンチノープル,アテネで最高の教育を受けて修辞学の教師となり,ナジアンズのグレゴリウスを知った。のち姉のすすめで修道生活に入り,シリア,エジプト,パレスチナなどを訪れ,ポントスのネオカエサレアに定住。修道院のために会則を書き,ナジアンズのグレゴリウスとともにオリゲネスの抜粋『フィロカリア』を作成した。カエサレアの司教エウセビオスに招かれて,カエサレアの司教となり,アリウス派に対抗し徹底して正統信仰擁護の立場を貫くかたわら,貧民や病人の救済に尽した。著作『聖霊論』 De spiritu sancto,『エウノミス駁論』 Adversus Eunomium。

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