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「グレゴリウス」の意味・読み・例文・類語
グレゴリウス【Gregorius】[人名]
ローマ教皇16人の名。グレゴリー。グレゴリオ。
(1世)[540ころ~604]在位590~604。伝道を強化し、諸民族の改宗などを行い、教皇権の政治的地位を確立。グレゴリオ聖歌の集大成を行った。
(7世)[1020ころ~1085]在位1073~1085。本名、ヒルデブラント。教皇権の確立、教会の浄化に努力。叙任権問題でドイツ皇帝ハインリヒ4世を破門し、「カノッサの屈辱」でこれを赦免した事件で有名。のち同皇帝にローマを追われ、サレルノで憤死。
(13世)[1502~1585]在位1572~1585。新教の勢力拡大に対抗するとともに、教会内部の改革を推進。1582年、グレゴリオ暦を制定。日本からの天正遣欧使節を接見。
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グレゴリウス
- ( [ラテン語] Gregorius ) ローマ教皇の名の一つ。
- [ 一 ] ( 一世 ) 第六四代ローマ教皇(在位五九〇‐六〇四)。多難な時期に教会を統治して教皇権を確立、自ら「神のしもべのしもべ」と称する。教会聖歌を改修し、「グレゴリオ聖歌」を制定した。主著「道徳論」「司教規則書」「ヨブ記講解」。大グレゴリウス。(五四〇頃‐六〇四)
- [ 二 ] ( 七世 ) 第一五八代ローマ教皇(在位一〇七三‐八五)。教会規律を制定して、教会を世俗権力から解放。教皇権の政治的地位の確立につとめ、ドイツ皇帝ハインリヒ四世を破門した。(一〇二〇頃‐八五)→カノッサの屈辱。
- [ 三 ] ( 一三世 ) 第二二九代ローマ教皇(在位一五七二‐八五)。教会内部の改革につとめ、ユリウス暦をグレゴリオ暦に改める。死の直前、日本からの天正遣欧使節を接見した。(一五〇二‐八五)
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グレゴリウス(7世)
ぐれごりうす
Gregorius Ⅶ
(1010/1020―1085)
ローマ教皇(在位1073~1085)。グレゴリウス改革とよばれる中世の大教会改革を指導し、教皇権の最盛期を開いた。俗名ヒルデブラントHildebrand。北イタリアのトスカナ地方ソアナ生まれ。1049年以後教皇座にあって教会政治、改革に参与、レオ9世をはじめ歴代諸教皇を補佐し頭角を現す。登位後も東方教会合同を計画する一方、聖職売買や聖職者妻帯を禁じ、1075年には俗人叙任禁止を決定するなど教皇権の高揚と教会の改革を推進。ついでミラノ大司教任命をめぐりドイツ王(神聖ローマ皇帝)ハインリヒ4世と対立、1076年王の教皇罷免の宣言に対し、逆に王破門で応酬し、皇帝権との争い(聖職叙任権闘争)に突入、1077年カノッサで王を屈服させた(カノッサ事件)。しかしその後、ハインリヒは勢力を挽回(ばんかい)、教皇は、王を再度破門(1080)したが、王がこれを無視し武力でローマを攻撃したため、サレルノに逃れ、そこで憤死した。死に際し「正義を愛し、不正を憎んだ。それゆえ亡命のうちに死ぬ」と語ったと伝えられる。彼の改革理念は、教会の倫理的刷新のほか、教皇首位権の確立、教会の俗人支配からの解放、俗権に対する教会の優位などにあったが、これらの主張の要点は彼の「教皇教書」(1075)に簡潔に示されている。
[野口洋二 2017年11月17日]
グレゴリウス(1世)
ぐれごりうす
Gregorius Ⅰ
(540ころ―604)
ローマ教皇(在位590~604)。聖人。西方の四大教会博士の一人。大教皇Magnusと称される。ローマ市の名門に生まれ、若くしてローマ市総督となったが、まもなく修道生活に入る。コンスタンティノープル駐在教皇使節、教皇顧問などを歴任後、意に反して教皇に選出され、最初の修道者出身の教皇となった。登位後は、ランゴバルド勢力の侵攻に対し、弱体化したビザンツ帝権にかわってローマ市および中部イタリアのローマ系住民の保護者の役を担った。アフリカ、西ゴート王国、ランゴバルド王国、フランク王国の諸教会を教皇座に緊密に結び付けようと努め、ケント王国に宣教師団を派遣してアングロ・サクソンの教化に先鞭(せんべん)をつけた。これらの業績によってグレゴリウスを「最初の中世的教皇」とよぶ人もいる。『司牧規則』『道徳論』『対話』をはじめ膨大な著作、説教、書簡があり、近代に至るまで西方キリスト教世界の精神に大きな影響を与えた。典礼改革を推進して「グレゴリウス典礼書」の形成に寄与し、また教会音楽の改良にも力を入れて、いわゆる「グレゴリオ聖歌」の形成過程に一定の役割を果たした。
[出崎澄男 2017年11月17日]
グレゴリウス(歴史叙述者)
ぐれごりうす
Gregorius Turonensis
(538から540?―593/594?)
トゥールの司教、歴史叙述者。ガロ・ローマ系セナトール貴族の家門の生まれ。573年からトゥール司教に任命され、メロビング王国の内乱を身をもって経験した。若干の聖者伝のほか『歴史・十巻』を書き残した。一般に『フランク王国史』とよばれる書物で、メロビング時代のフランク王国の歴史の主要史料となっている。第1、2巻は天地創造から511年のクロービス1世の死までを、第3、4巻はグレゴリウスのトゥール司教就任後まもなくの575年ごろまでを、第5~10巻で彼の死のすこし前の591年までを取り扱う。多くの逸話を交えながら、文法的にかなり崩れた当時の卑俗ラテン語で書かれている。
[平城照介 2017年11月17日]
『兼岩正夫・臺幸夫訳『歴史・十巻』全2巻(1975~1977・東海大学出版会)』
グレゴリウス(13世)
ぐれごりうす
Gregorius ⅩⅢ
(1502―1585)
ローマ教皇(在位1572~85)。北イタリアのボローニャ出身。16世紀の反宗教改革運動と教会の内部改革を推進した。大学教授の経歴をもち、トリエント公会議法令の遂行に努めて、カトリック教会の教育制度を充実させ、多くの学院の創設に尽力した。従来のユリウス暦の不備を補うため委員会を設けてこれを修正させ、1582年新しい暦(グレゴリオ暦)に改めさせた。各国宮廷に特使を派遣する教皇特使制度の創始者としても知られる。なお、85年日本の天正(てんしょう)遣欧使節を接見した。
[磯見辰典]
『鈴木宣明著『ローマ教皇史』(教育社歴史新書)』▽『H・テュヒレ他著、上智大学中世思想研究所編・訳『キリスト教史5』(1981・講談社)』
グレゴリウス(2世)
ぐれごりうす
Gregorius Ⅱ
(669―731)
ローマ教皇、聖人。東方世界とのイコノクラスム(聖画像論争)が高まった時代に在位した(715~731)。ビザンティン皇帝レオ3世(在位717~741)の聖画像破壊の強硬な態度に反対し、聖画像使用の正当性を主張したが、その結果、東西世界の溝はいよいよ深まることになった。712年、教皇はブリタニアの宣教師ウィンフリードにボニファティウスの名を与え、722年さらに彼を司教に任命して、フランク王国の布教をゆだねた。このことは結果として、のちに教皇ザカリアス(在位741~752)がボニファティウスを介してフランク王国の小ピピンの即位を承認し、カロリング王朝を成立させるという世界史的事件をもたらすことになる。
[磯見辰典]
『鈴木宣明著『ローマ教皇史』(教育社歴史新書)』▽『H・テュヒレ他著、上智大学中世思想研究所編・訳『キリスト教史3』(1981・講談社)』
グレゴリウス(叙事詩)
ぐれごりうす
Gregorius
ドイツ中世の詩人ハルトマン・フォン・アウエの叙事詩。1190年ごろの作。王家の兄妹の間に生まれたグレゴリウスは、生後ただちに海に流され、僧院に拾われて聖職者としての教育を受ける。ある日自らの素性を知った彼は僧院を去り騎士として旅に出る。たどり着いた国が母の統(す)べる国とも知らず、その危難を救い、生みの母である女王と結婚する。やがて二重の近親相姦の罪が明らかになったとき、彼は世を捨て、海中の孤岩で17年間贖罪(しょくざい)を続ける。神はこの行いをよみし給い、グレゴリウスはローマ教皇に選ばれる。近親相姦説話をもとに、聖者譚(たん)と騎士物語双方の魅力を備えた秀作である。トーマス・マンの『選ばれし人』はこの作品を素材としている。
[中島悠爾]
『中島悠爾訳『グレゴーリウス』(『ハルトマン作品集』所収・1982・郁文堂)』
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「グレゴリウス」の意味・わかりやすい解説
グレゴリウス[7世]【グレゴリウス】
ローマ教皇(在位1073年―1085年)。前名ヒルデブラントHildebrand。貧家の出身。教皇レオ9世に信任されて6代の教皇に仕え,大きな影響力をふるった。即位前後の教会改革はしばしば〈グレゴリウス改革〉と称される。《教皇教書》で俗人による聖職叙任を禁止,叙任権闘争が激化するなか,1076年神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を破門(カノッサの屈辱)した。1083年ハインリヒにローマを包囲され,サレルノに逃れて不遇のうちに没。
→関連項目ウルバヌス[2世]|レオ[9世]
グレゴリウス[1世]【グレゴリウス】
ローマ教皇(在位590年―604年),教会博士,聖人。通称〈大グレゴリウスGregorius Magnus〉。ローマ元老院議員の家に生まれ,修道士,司教使節を経て登位。英国への伝道,貧民救済,教会造営などに尽力して,以後の発展の礎を据えた。《道徳論》《牧会規定書》《対話》などの著作のほか,膨大な書簡が残る。典礼の整備にも積極的で,グレゴリオ聖歌にその名が冠せられている。
グレゴリウス(トゥールの)【グレゴリウス】
メロビング朝フランク王国の歴史家。ガリアのローマ系貴族の出身。トゥール司教となりフランク国王の宮廷に仕えた。クロービスの死後政権争いに明け暮れる宮廷の調停者として活躍。主著《フランク史》10巻は経験に基づいた貴重な史料。
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グレゴリウス(トゥールの)
Gregorius
生没年:540ころ-595
フランク王国の聖職者,歴史家,聖人。ガリア在住ローマ元老院議員の家柄に生まれ,573年トゥールの司教となる。メロビング王家の政争に巻き込まれながらフランク族に関する知識をえ,576年初期中世の最重要の史料である《フランク史》10巻を執筆。第1巻は天地創造から397年まで,第2~4巻は575年までの初期フランク史,第5~10巻はそれ以後591年までの彼の同時代史で,その叙述は詳細で精彩に富む。その目的はフランク人の善行悪行を教訓として,信仰を勧めることにあった。ガリア以外のできごとは報じられるところが少ない。彼にはこのほかに8編の聖人伝があり,ユリアヌス,マルティヌス以外にも多くの殉教者や聖人の奇跡を伝えている。
執筆者:今野 國雄
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グレゴリウス[ツール]
Gregorius Turonensis
[生]538/539.11.30. クレルモンフェラン
[没]594. ツール
メロビング朝時代のフランク王国の歴史家,聖職者。本名 Georgius Florentius。聖人。クレルモンフェランの参事会議員の家に生まれ,宗教詩人 F.ウェナンティウスらフランク王国有数の人物との交際があり,573年ジゲベルト1世王によりツールの司教とされた。 575年王が暗殺され,ヒルペリヒ1世が王となると,政治的にも宗教的にも王と激しく対立したが,王の死後その後継者とは平穏を保ち,聖マルティヌス大聖堂の再建をはじめとして,多くの聖堂を建設し,教区民を重税から守った。主著『フランク史』 Historia Francorumは初期メロビング朝についてのきわめて重要な資料である。その他ガリア人殉教者,聖ユリアヌス,聖マルティヌスら多くの聖者の伝記を書いた。
グレゴリウス[ニッサ]
Gregorius Nyssenus
[生]330頃
[没]395頃
聖人。バシレイオスの弟。兄およびナジアンズのグレゴリウスとともにカッパドキア3教父の一人。初め修辞学で身を立て結婚したが,カエサレア主座司教であった兄に請われて 371年ニッサの司教となる。政治的にしばしば賢明さを欠いたが,正統信仰を守るうえでは,コンスタンチノープル公会議で重要な役割を果すなど功績は大きい。晩年にはたびたび宮廷を訪問,皇族の女性たちに教えた。本質 (ウーシア) と基質 (ヒュポスタシス) との神学的相違を規定して三位一体論に貢献。新プラトン主義やオリゲネスの影響を受け,神の像としての人間が永遠の世界に属し,神に類似する存在であることを説いた。万人救済論的信仰をもち,教会人の思索の自由を強調した。祝日1月 10日,3月9日。
グレゴリウス[ナジアンズ]
Gregorius of Nazianzus
[生]330頃.カッパドキア,ナジアンズ近郊
[没]389頃.カッパドキア,ナジアンズ近郊
聖人。東方の四大博士,カッパドキアの3教父の一人。バシレイオスの学友。司教であった父を助けるため 361年頃司祭となり,名説教家として父の教区ナジアンズで信徒を指導した。 378年頃コンスタンチノープルに召されて同地の正統教会を再建,その司教となったが,辞して帰郷した。アリウス主義を反駁,ニカイア的信仰表明の確立に尽力,アポリナリウス派に対してはキリストの人性を擁護した。祝日1月 25日,5月9日。
グレゴリウス[リミニ]
Gregorius de Rimini
[生]?
[没]1358
スコラ哲学者。アウグスチヌス隠修士会士で,1357年同総会長。 41年頃よりパリで教えた。神学では予定説で著名であるが,哲学では A.アウグスチヌスに立脚して W.オッカムを融合した独自の認識論を展開した。
グレゴリウス[バレンシア]
Gregorius a Vallencia
[生]1549.3. バレンシア
[没]1603.4.25. ナポリ
スペインの神学者。イエズス会士。ディリンゲン,インゴルシュタット,ローマで教え,スアレス学派をドイツにもたらし,近世ドイツの哲学や神学の展開のうえに大きな影響を及ぼし,学問的対抗宗教改革運動の先駆となった。
グレゴリウス
Gregorius, Illuminator
[生]240頃
[没]332頃.アルメニア
アルメニアの使徒,啓蒙者のグレゴリウスといわれる。聖人。カッパドキアから故国アルメニアへ帰り,国王チリダテス3世を改宗させ,303年頃アルメニアをキリスト教国とした。
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グレゴリウス(7世)
Gregorius Ⅶ
1020ごろ〜85
ローマ教皇(在位1073〜85)
トスカナ生まれ。クリュニー修道院の改革運動の影響を受け,教皇になると綱紀粛正につとめた。また俗人による聖職叙任を禁止したため,帝国教会政策をとる神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と衝突し,皇帝を破門した。皇帝は1077年カノッサ城で教皇に謝罪し,許された(カノッサの屈辱)。この事件は教皇の権威を大いに高めたが,のちにハインリヒの反撃のため,南イタリアのサレルノで憤死。
グレゴリウス(1世)
Gregorius Ⅰ
540〜604
ローマ教皇(在位590〜604)
ローマ貴族出身。ベネディクト修道会に学び,教皇権の確立,異端防止などにつとめ,古代から中世への転換期の教会を統率して中世教会国家の基を築いた。またゲルマン人への布教を強化し,ブリタニアに修道士を派遣してアングロ−サクソン族への布教も行った。事実上の初代ローマ教皇と呼ばれる大教皇で,彼にちなんでカトリック教会の典礼音楽をグレゴリオ聖歌と呼ぶ。
グレゴリウス(13世)
Gregorius XII
1502〜85
ローマ教皇(在位1572〜85)
ユリウス暦の欠点を改め,現在の太陽暦であるグレゴリ暦を作成した。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
グレゴリウス(トゥールの)
Gregorius Turonensis
538/539~594
フランクの司教,歴史家。ガリアのローマ系名門貴族の出身。573年以来トゥールの司教。王権に対し教会,聖職者の権利を擁護。著作『フランク史』は6世紀のメロヴィング期に関する貴重な史料。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
グレゴリウス
オーストリア、エンゲルッツェル修道院で製造されるビール。修道院製造のビール(トラピストビール)のひとつ。
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世界大百科事典(旧版)内のグレゴリウスの言及
【異端審問】より
…独特の制度と目的をもった異端審問が登場するのは,12世紀後半以降,カトリック教会を揺るがせた,[カタリ派],[ワルド派]異端への対処の結果である。1215年,第4ラテラノ公会議は,異端にたいする司教裁判の設置をもとめ,ついで31年,教皇グレゴリウス9世Gregorius IXは,教皇の直接的権限のもとでの,本格的な審問制への道をひらいた。 この審問制は,第1に,教皇庁に直属するところに特徴がある。…
【リヨン公会議】より
…しかし,神聖ローマ皇帝[フリードリヒ2世]に対する帝位剝奪と第3回目の破門を宣言した以外にはほとんど成果がなかった。(2)第2回(1274) グレゴリウス10世Gregorius Xによって召集されたこの公会議では多数の高位聖職者,各国の国王使節のほかモンゴルの[アーバーカー・ハーン]の使者などが参加し,教皇選挙法の改正,東西教会の合同,イスラムに対するモンゴル・西欧軍の共同など顕著な成果をあげた。【今野 国雄】。…
【アビニョン捕囚】より
…しかし教皇庁の行財政組織はこの時期に整備された。77年グレゴリウス11世のローマ帰還で捕囚時代は終わったが,直後の〈大分裂〉で対立教皇は1408年まで在住した。【今野 国雄】。…
【コンスタンツ公会議】より
…1378年以後39年間カトリック教会はローマとアビニョンとに2人の教皇をもって分裂し,歴史上〈大離教([シスマ])〉と呼ばれる事態が続いた。それを終わらせようと1409年に招集されたピサ教会会議は,ローマのグレゴリウス12世とアビニョンのベネディクトゥス13世とをともに罷免し,新たにアレクサンデル5世を教皇に選んだが,2人の前教皇が罷免を承認しなかったので,かえって3人の教皇が鼎立する結果となった。この異常な事態を解決するために神聖ローマ皇帝[ジギスムント]の強い要請に基づき,アレクサンデル5世の後任教皇[ヨハネス23世]が14年11月5日に招集したのがコンスタンツ公会議で,18年4月22日まで続いた。…
【ハルトマン】より
…シュワーベンの騎士の出身(従士)。諸作品のうち《哀歌》と《エーレクErek》は1180年ころに着手され,90年ころに完成,《グレゴリウス》と《[哀れなハインリヒ]》はこの順で90‐97年の間に書かれたと推定されている。この時期に彼は世俗と愛(ミンネ)に決別する抒情詩,そして十字軍参加(1189‐91)の所産の十字軍遠征の歌を書いた。…
【ラテン文学】より
…世俗詩人も6世紀中葉のコリップスCorippusあたりが最後であろう。 5世紀後半から6世紀にかけてのキリスト教作家には,シンマクスの後継者といえるほどの技巧派の修辞家シドニウス・アポリナリス,キリスト教と世俗の両方のテーマを歌った詩人ドラコンティウスDracontius,古典の教養を顕示した演説家エンノディウスEnnodius,最後の詩人ウェナンティウス・フォルトゥナトゥスVenantius Fortunatus,《フランク史》の著者トゥールのグレゴリウス,教皇グレゴリウス1世などがいる。カッシオドルスは古典研究を神学研究に取り入れて,中世修道院を学問所とする道を開いた。…
※「グレゴリウス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」