ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「エウセビオス」の意味・わかりやすい解説
エウセビオス[カエサレア]
Eusebios of Caesarea
[没]339.5.30. カエサレア
神学者。キリスト教界最初の教会史編述者,「教会史の父」と称せられる。カエサレアでオリゲネスの学統を継ぐパンフィロスに学び,オリゲネスの残した文庫に親しみ学殖を深めた。ディオクレチアヌス帝の迫害を逃れてのち,313年カエサレアの司教となる。 324年以後皇帝コンスタンチヌス大帝の信任を得,みずからまた大帝の賛美者となる。ニカイア公会議 (325) ではオリゲネス派の代表者として正統派のホモウシオス信条に署名したが,その後の論争ではアタナシウス派およびニカイア公会議に反対の立場に転じ,神学的に一貫しなかった。主著に『年代記』 Chronikoi kanones,『教会史』 Ekklēsiastikē historia,『パレスチナ殉教伝』『コンスタンチヌス大帝伝』などがあり,なかでも『教会史』 10巻 (325まで) は今日散逸した多くの資料からの引用を含み,3世紀までの教会についてかけがえのない著作となっている。
エウセビオス[ニコメディア]
Eusebios of Nicomedia
[没]342頃
4世紀初頭のアリウス派の神学者,教会政治家。ニコメディアの司教。アンチオキアのルキアノスの弟子。父 (神) とキリスト (子) は同質 homoousiosで,聖霊とともに三位は唯一の神であると決定したニカイア公会議では最終的にその決議に署名した。のちガリアへ追放されたが,復帰してエウスタチオス,アタナシウスらの追放に成功,コンスタンチノープルの総司教に昇格した。
エウセビオス[サモサタ]
Eusebios of Samosata
[没]379頃
聖人。神学者,サモサタの司教。大バシレイオスやナジアンズのグレゴリウスらの友人。初めアリウス主義,のちニカイア的正統派に立つ。ウァレンス帝によりトラキアに追放されたが帝の死後復職,不慮の死にいたるまでシリア教会のために尽す。
エウセビオス[エメサ]
Eusebios of Emesa
[没]359頃
東方教会シリアのエメサの主教。初めアリウス派主教パトロフィロス,のちカエサレアのエウセビオスに師事。博識,多弁で多くの著作を書き,特に異端や異教の思想を批判したことで知られているが,ラテン語訳で残っている 29の説教以外は断片しか伝わっていない。
エウセビオス[ウェルツェリ]
Eusebios of Vercelli
[没]371頃
ウェルツェリの最初の司教。聖人。反アリウス主義者。西方に修道院生活を導入した。ミラノ教会会議 (355) でアタナシウス非難の宣言に署名を拒み,コンスタンチヌス帝によりパレスチナへ追放されたが,ユリアヌスの即位により許された。
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