ローマ皇帝(在位361~363)。「背教者」として知られる。コンスタンティヌス大帝の甥(おい)。父は一族内訌(ないこう)のため殺され、幼時は兄ガルスConstantius Gallus(325/326―354)とともにカッパドキアに幽閉された。アリウス派のキリスト教教育を受けたが、早くより宦官(かんがん)マルドニオスMardoniusにギリシア・ラテンの古典を学び、ギリシアの神々に親しみを覚え、また修辞学者リバニオスLibanios(314ころ―393ころ)の教えを受けて新プラトン主義哲学に傾いていった。355年コンスタンティウス2世から副帝に抜擢(ばってき)されてガリア、ブリタニアに赴き、統治者としての才能を発揮、兵士にも慕われた。皇帝が突然、彼とその軍団とに東方への転戦を命じるや、兵士はこれに反抗してユリアヌスを皇帝に推戴(すいたい)した。東方に向かったユリアヌスを迎撃しようとしたコンスタンティウスが急死して、彼は単独支配者となった。彼はただちにキリスト教信仰を捨てて、ギリシア・ローマ神への信仰を告白し、神々の神殿を再建し、祭儀の復興を命じた。キリスト教に倣って祭司団を属州・都市単位に組織化し、貧民救済をも行わせた。キリスト教徒を弾圧することはしなかったが、国家によるキリスト教への援助を取りやめ、聖職者の特権を廃止し、教徒の学者が古典を教えることを禁じた。一般政策では節倹と国民の経済的負担減少を旨とし、駅逓(えきてい)負担金を減らし、都市上層民を援助した。しかし神託伺いと祭儀には自ら熱中し、ことに東方系の太陽神ミトラス神への牡牛(おうし)のいけにえの儀式を盛んに行うなどの一面があった。キリスト教徒との論争の必要からギリシア語で数多くの著述を残した。そのなかでは、『反キリスト教論』、『ミソポゴン』、マルクス・アウレリウスをたたえた『饗宴(きょうえん)』が有名で、書簡も多数現存し、自分自身の生い立ちを綴(つづ)ったものもある。
統治後まもなく、東方のペルシア帝国の侵入を抑えるための遠征を準備したが、おりしもアンティオキア滞在中、ダフネに建設中のアポロン神殿が焼失し、飢饉(ききん)も生じて、キリスト教徒からは圧迫の罰だとする非難の声があがった。しかし363年5月、東方に進発。このとき従軍した歴史家アンミアヌス・マルケリヌスが、この遠征の経過を詳細に記している。ユリアヌスは困難な行軍ののち、クテシフォン近郊でペルシア軍を一時は破るが、そのあと友軍との合流を妨げられ、ついに矢を射られて重傷を負い、陣中で没した。死に臨んで「ガリラヤ人(キリストのこと)よ、お前の勝ちだ」と叫んだとキリスト教史料は伝えている。帝位を継いだヨウィアヌスFlavius Jovianus(在位363~364)、次のウァレンティニアヌス1世によって、キリスト教はふたたび手厚い保護を与えられることになった。
[松本宣郎 2015年2月17日]
ローマ皇帝。在位361-363年。彼の伯父コンスタンティヌス1世のキリスト教公認後,キリスト教より転向して異教の復興に努めたので,後代〈背教者Apostata〉と呼ばれた。首都コンスタンティノポリスに生まれ,生後まもなく母と死別,さらに338年,従兄コンスタンティウス2世の策謀による宮廷革命で父や一族を失い,年少の異母兄ガルスと彼だけが助命された。孤独不遇な青少年期にも古典的教養を修得し,新プラトン主義哲学やミトラス教の密儀に近づき,エフェソスのマクシムスの魔術に参入し,〈背教〉への道を踏み出したが,なおキリスト者を装っていた。354年さきにコンスタンティウス2世により,副帝に任じられていたガルスが謀反と失政のかどで処刑されたとき,彼にも嫌疑がかけられたが許され,アテナイに留学した。355年ふたたびミラノに召還され,副帝に任じられ,皇妹ヘレナと結婚,ガリアに出動した。哲学青年だった彼は武将として武勲をたて,将兵の信望を獲得した。コンスタンティウス2世は彼の名声を警戒し,またペルシアとの戦局が緊迫したので,ガリアのローマ軍主力に東方への転出を命じたが,ガリアのローマ軍はこれを拒否し,360年2月ルテティア(現,パリ)でユリアヌスを正帝に推戴した。ユリアヌスは翌361年7月東方に進発,初めて異教信仰を告白した。コンスタンティウスは小アジアで病死したため,ユリアヌスは12月コンスタンティノポリスに無血入城した。ユリアヌスはキリスト教に対しては暴力的迫害を加え,キリスト教を学問・教育の場より追放,自ら著作によって攻撃の論陣を張るとともに,異教の道徳化,組織化に努め,政治の刷新を図った。362年半ばアンティオキアに行き,翌年ペルシア討伐のため東方に進軍したが,6月27日交戦中致命傷を負い,深夜死去した。
彼が傷ついて発した言葉〈ヘリオス(太陽神)よ,なんじは私を見捨て給うた〉は後にキリスト教側文献によって〈ガリラヤ人(キリスト者の蔑称)よ,なんじは勝てり〉との敗北告白に変えられた。著作・演説文11,書簡80余が現存している。彼の短命で,しかも数奇な悲劇的生涯は多くの伝説を流布させ,またイプセン,メレシコフスキー,辻邦生などの文学作品を生み出させた。
執筆者:秀村 欣二
ローマ法古典期(元首政期)盛期の代表的法学者。北アフリカの出身で,コンスル(148)はじめいくつかの属州長官などの要職を歴任し,ハドリアヌス帝およびアントニヌス・ピウス帝の顧問会に列せられ,また永久告示録の編集を行ったことが知られる。その優れた学識,豊かな創造性,的確な判断力により多くの問題に適切な解決を付与し,ローマ法の形成発展に多大の貢献をなし,今日ではローマ法学は彼の活動により頂点に達したと評価されている。その著作に,豊富な個別事例を含みつつ私法を組織的に透徹した叙述で記した《法学大全》(90巻)その他があり,弟子S.C.アフリカヌスが編集した《質疑録》(9巻)もまたその見解を伝える。
執筆者:西村 重雄
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331~363(在位361~363)
ローマ皇帝。コンスタンティヌス大帝の甥。ギリシア古典に親しみ,即位後異教の復活を企てたが,サーサーン朝と戦って死亡。後代キリスト教徒から「背教者」と呼ばれる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…410年西ゴート族によるローマ陥落後北アフリカのカルタゴに行き,アウグスティヌスとはげしく論じ合った。その論争はペラギウスがパレスティナに去ったのちも弟子のカエレスティウスCaelestius,アエクラヌムのユリアヌスJulianusとアウグスティヌスの間でつづけられ,アウグスティヌス側の莫大な論争書が残っている(《霊と文字》《自然と恩恵》《ユリアヌス反駁》など)。 ペラギウス派はストア学派の賢者の理想をかかげ,ひとは律法を完全に守ることでこの目的に至りうると主張した。…
… コンスタンティヌス1世が置いた新しい帝国の構造の基本は,4世紀を通じて変わらなかった。彼の死後起こった内乱を克服して帝国を再統一したコンスタンティウス2世(在位324‐361)の死後,ユリアヌス(在位361‐363)が親異教,反キリスト教,再自由化の反動政策をとったが,彼のペルシア戦線での戦死で基本線を変えるに至らなかった。この時期の主要な対外問題はササン朝であった。…
…法を〈善と衡平の術〉と定義したケルススPublius Juventius Celsus(129年2度目の執政官。その著作に《法学大全》39巻がある),ユリアヌスPaulus Salvius Julianus(148年執政官)がとくに有名である。これとは別に,法を初心者のために簡易に叙述する試みが2世紀半ばにポンポニウスSextus Pomponiusおよびガイウス(両人ともその生涯は不詳で,いずれも官職に就任せず,解答権を有せず,法学教師にとどまったものと推測されている)によりなされた。…
※「ユリアヌス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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