日本大百科全書(ニッポニカ) 「マケドニア朝」の意味・わかりやすい解説
マケドニア朝
まけどにあちょう
ビザンティン帝国最盛期の王朝(867~1056)。バシレイオス1世に始まり、バシレイオス2世を頂点とし、女帝テオドラに至る。この王朝の統治下でテマ制(軍管区制)が完成期に入り、内政、外政ともに充実期を迎えた。国防の担い手であるテマ兵士の増加は、納税者層の中核をなす中小自由農民層の増加ともなり、経済力の増大を意味した。対外的にもブルガリア、シリア、メソポタミア、キプロスなどをふたたび帝国領とした。レオン6世は、『ローマ法大全』のギリシア語による改訂版ともいえる法律全集『バシリカ』60巻を刊行、中世ビザンティン帝国の法体系を整備した。文化的には、コンスタンティノス7世を中心に古典ギリシア以来のあらゆる領域に及ぶ文化遺産の収集、整理、研究が行われ、一大文芸復興運動(マケドニア・ルネサンス)が起こった。宗教界では、第8回公会議(869)で、俗人の学者フォティオスが皇帝により総主教に任命されたことによりローマ教皇との間に起きた「フォティオス論争」に決着がつき、フォティオス総主教の解任をもってローマ教皇との和解が成立した。ギリシア正教は、国内ではアトス修道院群の繁栄、国外ではキエフ大公国のウラジーミル王の受洗と国教化により大いに栄えたが、カトリック教会とは、ローマ教皇の首位権、南イタリア教区の管轄権、教義・典礼および慣習の相違により、東西教会の大分裂を起こした(1056)。両教会は以後今日まで分裂状態にある。バシレイオス2世の死後は、プロノイア制の浸透、テマ制の崩壊とともにその中央集権制度が崩れ、国内に混乱が起きるに至った。
[和田 廣]