共同通信ニュース用語解説 「バターン死の行進」の解説
バターン死の行進
1942年4月9日、フィリピン・ルソン島のバターン半島で米・フィリピン軍が日本軍に投降した。約7万6千人が捕虜となり、100キロ以上離れた収容所に連行され、栄養失調や虐待で多数が死亡した。死者数は「約2万人」とも言われる。日本の敗戦後、マニラ軍事法廷で当時の司令官、
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1942年4月9日、フィリピン・ルソン島のバターン半島で米・フィリピン軍が日本軍に投降した。約7万6千人が捕虜となり、100キロ以上離れた収容所に連行され、栄養失調や虐待で多数が死亡した。死者数は「約2万人」とも言われる。日本の敗戦後、マニラ軍事法廷で当時の司令官、
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…このため日本軍は大きな損害をこうむったが,兵力の増強をえて4月上旬には同半島を攻略し,5月7日にはコレヒドール要塞を占領してフィリピン全域を完全に制圧した。なお,バターン攻略作戦の終了直後,日本軍は疲弊しきった捕虜を徒歩で移動させたため多数の死傷者を出し,また捕虜に対する暴行も行われたため,〈バターン死の行進〉として激しい非難を浴びた。【吉田 裕】。…
…太平洋戦争が開始されると,第14軍司令官としてフィリピン攻略作戦の指揮にあたったが,バターン半島に立て籠ったアメリカ・フィリピン軍を攻めあぐね,作戦終了後,予備役に編入される。敗戦後,アメリカ軍捕虜から多数の死者を出した〈バターン死の行進〉の責任を問われて,マニラで処刑された。イギリスでの勤務が長く,英米的な教養を身につけた数少ない陸軍軍人として知られている。…
※「バターン死の行進」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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