バターン死の行進(読み)バターンしのこうしん(英語表記)Bataan Death March

共同通信ニュース用語解説 「バターン死の行進」の解説

バターン死の行進

1942年4月9日、フィリピン・ルソン島のバターン半島で米・フィリピン軍が日本軍に投降した。約7万6千人が捕虜となり、100キロ以上離れた収容所に連行され、栄養失調虐待多数死亡した。死者数は「約2万人」とも言われる。日本の敗戦後、マニラ軍事法廷で当時の司令官本間雅晴ほんま・まさはる中将が責任者として有罪を宣告され、銃殺刑となった。2010年に当時の岡田克也外相が来日した元米兵捕虜らと面会し、非人道的な扱いをしたとして謝罪した。(バランガ共同)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「バターン死の行進」の意味・わかりやすい解説

バターン死の行進
バターンしのこうしん
Bataan Death March

太平洋戦争中,バターン会戦で降伏したアメリカ=フィリピン軍将兵に対し,旧日本軍が行なった残虐な取扱い事件。 1942年4月にアメリカ=フィリピン軍が降伏し,日本軍は捕虜収容所へ移動させるために,マリベレスから 30km離れたバランガまで徒歩で行進させ,ここから 53km離れたサンフェルナンドまでトラックで移送する計画を立てた。しかし,食糧,トラックなどの用意が十分にできず,多くの者がサンフェルナンドまで4~5日かかって歩くことになった。そこからさらにカパスまで鉄道で運び,カパスからキャンプオドンネルまで 13kmを歩かせた。7万人中,目的地に達したのは5万 4000人でアメリカ兵 2330人を含む 7000~1万人が行進中に死亡,他は途中でジャングルに逃れたといわれる。戦後,当時フィリピン攻略軍司令官の本間雅晴中将が責任を問われ,アメリカ軍によって処刑された。

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