バリー(読み)ばりー(英語表記)Sir James Matthew Barrie

日本大百科全書(ニッポニカ) 「バリー」の意味・わかりやすい解説

バリー(John Barry)
ばりー
John Barry
(1933―2011)

イギリスの映画音楽作曲家、指揮者、アレンジャートランペット奏者。本名ジョナサン・バリー・プレンダーギャストJonathan Barry Prendergast。『007』シリーズの音楽で知られる。父親が映画館主、母親がピアニストという環境のもと、ヨークに生まれる。映画と音楽に囲まれた少年時代を過ごす。地元の教会の聖歌隊長に作曲とピアノを師事、アレンジに興味をもつが、映画『楽聖ショパン』(1944)に感銘を受け、映画音楽に関心を寄せる。10代なかばまで家業の映画館で働きながら地元のバンドでトランペットを演奏。音楽学校を中退した後、18歳で陸軍に入隊。軍楽隊のアレンジを手がけながら腕を磨き、同時にジャズ・アレンジャーとして評価の高かったビル・ルッソBill Russo(1928―2003)の通信教育講座で編曲を学んだ。除隊後の1957年、軍楽隊の仲間とともにジャズ・ロック・バンド、ジョン・バリー・セブンを結成。いくつかのテレビ番組出演を果たした後、イギリスEMI傘下のパルラフォン・レーベルと専属契約。1958年から新人歌手アダム・フェイスAdam Faith(1940―2003)の伴奏を担当。フェイスの人気上昇とともに活動の場を広げていった。フェイスの初主演映画『狂っちゃいねえぜ』(1960)で初めて映画音楽を担当。1962年までEMIのアレンジャーとしても精力的な活動を行う。1962年、『007/ドクター・ノオ』(1962)の音楽担当を降板させられたモンティ・ノーマンMonty Norman(1928―2022)の後を引き継ぎ、ノーマン作曲の同作のテーマ曲(「ジェームズ・ボンドのテーマ」)をアレンジ、これが世界的大ヒットとなった。続く『007/ロシアより愛をこめて』(1963)から『007/リビング・デイライツ』(1987)まで、計11作の『007』シリーズを手がけて名声を不動のものとした。

 『ナック』(1965)あたりまでのバリーの映画音楽はエレクトリック・ギター、木管、マレット楽器(木琴やビブラフォンなど、音板を撥(ばち)で叩く楽器の総称)などのソロを巧みに生かしたクールなジャズ・サウンドを持ち味としていたが、アカデミー最優秀作曲賞および同主題歌賞に輝いた『野生のエルザ』(1966)から饒舌(じょうぜつ)なストリングスを中心に据えたアレンジを好むようになる。ふたたびアカデミー賞に輝いた『冬のライオン』(1968)で教会旋法を独自にアレンジしたスコアを披露、クラシック音楽への造詣(ぞうけい)の深さを示した。このほか『国際諜報員(ちょうほういん)』(1965)、『真夜中のカーボーイ』(1969)などに、楽器固有の音色を生かしながらハーモニーを印象深く響かせる、バリー独特の手法の好例を聴くことができる。1970年代以降はオーケストラの客演指揮者としての活動が増えたせいもあり、作風は一層クラシカルなものに傾いていった。『レイズ・ザ・タイタニック』と『ある日どこかで』(ともに1980)で伝統的なオーケストラを用いたスコアは、バリーがイギリス・クラシック音楽の正当な嫡子(ちゃくし)であることをみごとに物語っている。

 こうしたロマンティシズム溢(あふ)れる映画音楽作品を発表する一方、1980年代には『白いドレスの女』(1981)、『コットンクラブ』(1984)で自らのルーツであるジャズを再検証する興味深い仕事を手がけた。その後、陶酔的な弦楽セクションと雄大なホルンの響きを前面に出した『愛と哀しみの果て』(1985)と『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(1990)でアカデミー最優秀作曲賞を受賞し、後期ロマン派の音楽スタイルをそのまま踏襲したバリーの作風を、広く一般に印象づけた。

 1988年に重傷を負ったため再起が危ぶまれたが、映画音楽作曲の本数は確実に減ったものの、1990年代も1年に約1本のペースで仕事をこなしていた。1975年(昭和50)に来日。

[前島秀国]

『Eddi FilegelJohn Barry; A Sixties Theme (1998, Constable and Company , London)』『Geoff Leonard, Pete Walker, Gareth BramleyJohn Barry; A life in Music(1998, Sansom, Bristol)』


バリー(Sir James Matthew Barrie)
ばりー
Sir James Matthew Barrie
(1860―1937)

イギリスの劇作家。スコットランド出身。ジャーナリスト、小説家を経て劇作家となり、感傷的な男女の喜劇『お屋敷町』(1901)、風刺と皮肉の喜劇『あっぱれクライトン』(1902)をはじめ、『女なら誰(だれ)でも知っていること』(1908)、『12ポンドの目』(1910)などで人気を博した。しかし彼の名を世界的にしたのは『ピーター・パン』(1904)で、この幻想的なおとぎ劇の傑作は今日でも少年少女を喜ばせ、イギリスではクリスマスの季節に欠かせない景物の一つである。『ピーターとウェンディ』(1911)はその小説版である。

[冨原芳彰]


バリー(Sir Charles Barry)
ばりー
Sir Charles Barry
(1795―1860)

イギリスの建築家。ロンドンに生まれ、同地に没。1817年から3年間にわたってギリシア、イタリア、中近東を旅行したのち、ブライトンのセント・ピーター教会堂(1817~20)をゴシック様式で建て、続いてマンチェスターの王立美術協会(1824~35)を古典主義様式で設計した。しかし、彼本来の嗜好(しこう)は、むしろイタリア・ルネサンス様式にあり、ロンドンの旅行者クラブ(1829~31)やリフォーム・クラブ(1837~41)はこの様式で建てられている。彼はロンドンの個人的な邸宅も手がけたが、なかでもブリッジウォーター・ハウス(1847)がとりわけ優れている。34年に焼失した国会議事堂の再建設計競技(1836)では、ピュージンの協力を得てみごと一等に入選。これが彼の代表作となった(1836~60)。しかし真の設計者をめぐって論議が沸き、現在では全体の構想はバリーのもの、内装や外観にみられるゴシック様式の細部はピュージンのものと考えられている。

[谷田博行]


バリー(Antoine Louis Barye)
ばりー
Antoine Louis Barye
(1796―1875)

フランスの彫刻家。パリに生まれ、同地に没。金工家の父と彫刻家ボジオに師事し、のちグロに絵画を学ぶ。ローマ賞受賞に失敗後は動物彫刻に専念し、1831年サロン出品の『鰐(わに)を襲う虎(とら)』、33年の『蛇を押しつぶすライオン』(ともにルーブル美術館)によって、ロマン派からの賞賛とともに、アカデミックな彫刻家からの反感をも得ている。このため37年のサロンに落選、以後48年まで不出品。のち、彼はルーブルの鋳造品販売部長、自然博物館の素描講師、万国博覧会の審査員などに任じられた。動物の激しい動きと生命力の把握は、ロマン主義の典型的な側面であり、また近代彫刻への第一歩でもあった。ルーブルのドノン門およびリシュリュー門の群像彫刻も彼の手になる。

[中山公男]


バリー(Philip Barry)
ばりー
Philip Barry
(1896―1949)

アメリカの劇作家。1920~30年代を中心に軽い笑劇から宗教色の濃い重い劇まで多数の戯曲を発表した。だが主題は一貫して愛と死と個人の生命力について追究。深刻な意欲作『道化たちがやって来る』(1938)なども評価されているが、どちらかというと都会的センスにあふれた喜劇に本領が発揮され、代表作『ホリデー』(1928)、『フィラデルフィア物語』(1939)など今日も新鮮な魅力をもつ。

[楠原偕子]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「バリー」の意味・わかりやすい解説

バリー
Barry

イギリスウェールズ南東部,ベールオブグラモーガン南東部の都市。ベールオブグラモーガンの行政府所在地。ウェールズ語では Y Barri。ブリストル海峡に臨む港湾都市で,カーディフの南西約 10kmに位置する。1881年には人口わずか 85の寒村であったが,1889年背後の南ウェールズ炭田のための石炭積出港が建設されてから急速に発展。第1次世界大戦後にこの地域の石炭産業が衰えると,市の経済も大きな打撃を受けたが,1960年代以降はさまざまな貨物を扱うようになり再興を果たした。バナナや石油などの輸入品も扱う。ベールオブグラモーガンの商業やサービスの中心地。美しい砂浜海岸や各種の娯楽施設があり,海浜保養地としても知られる。人口 5万661(2001)。

バリー
Barry, Sir Charles

[生]1795.5.23. ロンドン
[没]1860.5.12. ロンドン
イギリスの建築家。ゴシック・リバイバル様式の代表者。イタリア,ギリシア,エジプト,パレスチナなどを建築の研究のために旅行し,1820年に帰国。 23年にブライトンのセント・ピーター聖堂の設計コンクールに当選。トラベラーズ・クラブ (1829~31) ,リフォーム・クラブ (37~41) の設計は古典様式によった。特に A.ピュージンとともに英国国会議事堂 (40~65) の設計者として知られる。 41年ロイヤル・アカデミー会員,52年ナイト爵。3人の息子,アルフレッド (26~1910) ,エドワード・ミドルトン (1830~80) ,ジョン・ウルフ (36~1918) もそれぞれ建築家として知られるが,特にエドワードはロンドンのナショナル・ギャラリーなどの設計者として知られ,ロイヤル・アカデミーの教授をつとめた (1873~80) 。

バリー
Barrie, Sir James (Matthew)

[生]1860.5.9. アンガス
[没]1937.6.19. ロンドン
イギリスの劇作家,小説家。スコットランド出身。エディンバラ大学に学ぶ。ノッティンガムで2年間ジャーナリストとして働いたのち,ロンドンに出,小説で好評を博し,さらに劇作に進出。代表的戯曲は,風刺的風習喜劇『あっぱれクライトン』 The Admirable Crichton (1902) ,永遠の童心を扱った幻想的作品『ピーター・パン』 Peter Pan (04) ,『親愛なるブルータス』 Dear Brutus (17) など。 1930年エディンバラ大学名誉総長。

バリー
Barry, John

[生]1745. アイルランド,ウェクスフォード
[没]1803.9.13. フィラデルフィア
アメリカの軍人。 21歳でフィラデルフィアの商船の船長となり,アメリカ独立戦争の開始とともに,1775年秋,最初のアメリカ艦隊を整え,『レキシントン』『エフィンガム』『ローリー』などのフリゲート艦長として活躍。 80年『アライアンス』の艦長としてフランスに向い,洋上でイギリス艦2隻を破った。一度退役したが,94年に再び『ユナイテッド・ステーツ』の艦長を命じられた。 98~1800年の対仏紛争では西インド艦隊を指揮。晩年は S.ディケーター,R.サマーズらの後進を育成,「海軍の父」と呼ばれた。

バリー
Barry, James

[生]1741.10.11. コーク
[没]1806.2.22. ロンドン
イギリスの画家。 1766~70年イタリアで絵を学び,71年ロンドンで『アダムとイブ』 (ダブリン,ナショナル・ギャラリー) を発表。 73年にロイヤル・アカデミー会員となり,82年にアカデミーの絵画教授に指名されたが,同僚と折合わず 99年に除名された。その他の主要作品『ウルフ将軍の死』 (1776) ,ロイヤル・ソサエティの広間のために制作した『人類文化の発展』 (77~83) 。

バリー
Barry, Philip

[生]1896.6.18. ニューヨーク,ロチェスター
[没]1949.12.3. ニューヨーク
アメリカの劇作家。エール大学卒業後ハーバード大学の G.ベーカーのもとで劇作を学び,愛情と結婚の問題をアイロニカルに描いた高級喜劇 (ハイ・コメディー) にすぐれた作品を残した。代表作『動物王国』 The Animal Kingdom (1932) ,『フィラデルフィア物語』 The Philadelphia Story (39) 。

バリー
Barye, Antoine Louis

[生]1796.9.24. パリ
[没]1875.6.25. パリ
フランスの彫刻家。 19世紀前半のロマン派彫刻を代表する。青年時代にパリの植物園で動物標本制作の鋳金工として雇われていたときの経験を生かした,動感と緊張をもった動物彫刻で有名。代表作『蛇と戦う獅子』 (1833,ルーブル美術館) ,『すわる獅子』 (47,オルセー美術館) 。

バリー
Barre

アメリカ合衆国,バーモント州中部の都市。 1788年入植,1894年市制施行。 19世紀初めから花崗岩の切出しが行われ,現在も主産業である。ほかに電気器具の製造などがある。人口 9482 (1990) 。

バリー(男)
バリー[だん]

セシル」のページをご覧ください。

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