ルネサンス以後19世紀にいたる西欧建築において、建築デザインにおける正統性の地位をつねに保ち続けてきた「古典主義」建築のデザインに対して、イギリスなどの建築家、理論家が批判し始めた。この批判から生まれた西欧中世建築の再評価、とくにゴシック様式を建築設計へ応用しようとした一連の試みをさす。最初は18世紀後半のイギリスで、一種の文人嗜好(しこう)の「ゴシック趣味」に駆られて、建物のインテリアや外観をつくりだしたことからこうした傾向は始まった。H・ウォルポールHorace Walpole(1717―97)がロンドン西郊につくった自邸「ストロベリー・ヒル」がこの典型である。19世紀に入り、中世建築についての歴史的研究が急速に発達、充実し、ゴシックについての認識が高まった。1830年代に入って、若き建築家A・W・N・ピュージンAugustus Welby Northmore Pugin(1812―52)が登場したことによって、ゴシック・リバイバルの機運は建築界に急速に高まっていった。ピュージンは自分の著作を通して、ゴシック建築が古典主義建築に対して、構造、機能、装飾といったさまざまな面においてはるかに優れていることを理論的に示し、また自分の建築作品を通して具体的にそれを証明しようとした。彼はまた、イギリス国会議事堂の設計競技(1836)に当選したC・バリーに協力し、そのインテリア・デザインを担当して、ゴシック様式のすぐれた解釈能力を示したが、1852年、40歳で惜しくも夭折(ようせつ)した。その後を思想的、理論的にはJ・ラスキンや、彼に私淑(ししゅく)したW・モリスなどが引き継いだ。同時に、ネオ・ゴシック様式と一般に総称されるような建築デザインを設計に採用するW・バターフィールドWilliam Butterfield(1814―1900)、G・G・スコット、G・E・ストリートGeorge Edmund Street(1824―81)、A・ウォーターハウスAlfred Waterhouse(1830―1905)など、多くの有能な建築家たちが輩出して、1850年代から70年代にかけてのイギリス建築界を活気づけた。またその後のアーツ・アンド・クラフツ運動などにも影響を与えた。ゴシックなどの中世建築への再評価は、ヨーロッパ大陸でもほぼ時を同じくして行われ、ビオレ・ル・デュクEugène Emmanuel Violet-le-Duc(1814―79)の影響下のフランスをはじめ、各国でも類似の動きがみられ、その傾向は20世紀の第1四半期まで続いた。スペインのA・ガウディの建築や、スウェーデンのR・エストベリRagnar Östberg(1866―1945)のストックホルム市庁舎などの作品も、そうした歴史的潮流のなかでつくられたものといえる。
[長谷川堯]
『リバート・マーク著、飯田喜四郎訳『ゴシック建築の構造』(1983・鹿島出版会)』▽『O・G・フォン・ジムソン著、前川道郎訳『ゴシックの大聖堂』(1985・みすず書房)』▽『ルイ・グロデッキ著、前川道郎訳『図説世界建築8 ゴシック建築』(1997・本の友社)』
中世ゴシック様式の装飾や建築形態を復興しようとする動きをいう。18世紀の風景式庭園の流行,ピクチュアレスクの美学をひとつの基盤としてイギリスを中心に発生し,19世紀に最盛期を迎え,ヨーロッパ大陸,アメリカにも盛行を見た。中世に対する賛美の念はイギリスに根強く存在し,18世紀中葉には政治家H.ウォルポールが自邸ストローベリー・ヒルをゴシック様式で建築し,この機運の先駆となった。19世紀に入るまで,ゴシック様式は廃墟を賛美するロマン主義の気風のもとで用いられていたが,ラスキンがゴシックを中世の倫理的な価値観の体現と称揚するにいたって,ゴシック復興の機運は建築を中心とする芸術一般に及んだ。19世紀前半のイギリスでは,ゴシック様式が宗教的価値をもつものと位置づけられることが多く,この点で同時代の思想運動であるオックスフォード運動とも関連をもつ。やがてイギリスにはピュージン,G.G.スコット,ストリートらの建築家が輩出し,1830年代から70年代までは宗教建築のみならず,イギリス国会議事堂,王立裁判所などの公共世俗建築もゴシック様式でつくられた。フランスではビオレ・ル・デュクがピエールフォン城,ノートル・ダム大聖堂(パリ)など,中世建築の修復を通じて,ゴシック様式を合理的構造のモデルとして称揚した。しかし,70年代に入って,W.モリスが中世にユートピア的社会主義の理想を見いだし,ゴシック建築の修復工事が中世建築を改変・破壊するものだとの非難を行い,あらゆる時代の様式にはそれぞれ固有の価値があることを説いた。70年代末にはロマネスク様式の復興,18世紀初頭のクイーン・アン様式の復興が試みられ,ゴシック・リバイバルは衰退する。ゴシック様式最後の大作としては,1902年に設計され76年に完成したリバプール大聖堂が知られる。
執筆者:鈴木 博之
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…ロンドンのテムズ河畔にあるビクトリア朝最初の大規模建築で,ゴシック・リバイバルの代表作。16世紀以来国会の議場に用いられてきたウェストミンスター宮殿が1834年焼失したので,〈ゴシックまたはエリザベス朝様式〉という条件で設計を公募して建設されたもの。…
…この後,ロココ的なデザイン感覚を示すアダム兄弟,今日の都市計画の先駆者でもあるJ.ナッシュらが活躍する。18世紀後半のロマンティックな懐古趣味,変化に富む自然の美しさへの欲求は,一方ではフランスの幾何学様式と対立する〈ピクチュアレスク〉なイギリス式庭園(W.ケントら)を生み,他方ではいわゆるゴシック・リバイバルの要因となった。18世紀半ばのウォルポールHorace Walpole(1717‐97)の自邸,ストロベリー・ヒルはゴシック・リバイバルの火付役となり,C.バリーによるイギリス国会議事堂(1870完成)は,その最もモニュメンタルな作例となった。…
…ラスキンやW.モリスの芸術論(アーツ・アンド・クラフツ・ムーブメント)がその例であり,R.オーエンやフーリエのユートピア思想も近代建築の理念に影響を及ぼしている。また,19世紀建築に対してはゴシック様式が強い影響力をもっており(ゴシック・リバイバル),産業革命後の社会に対する批判や,あるべき建築の姿の探究にもゴシックの造形原理,中世の都市やデザイン工房組織を理想に据える態度が見られる。建築を同時代の社会観・宗教観の反映と見るピュージンや,ゴシック建築を構造合理性の極致として解釈してみせたビオレ・ル・デュクはその典型である。…
…18~19世紀にはフランスなどで新古典主義が盛んになり,ギリシア・ローマなどの古建築が賛美されるようになった。他方,同じ時期に中世へのあこがれを表明するゴシック・リバイバルが興り,その影響下に成立したゴシック・ロマンスではスイス山中の古城などが好んで舞台に用いられた。また孤絶の美学を荒れ果てた墓地にもとめるT.グレーらの墓畔詩人もここから生まれた。…
…当時のイギリスは同国史上最も輝かしい時代を迎えていた。しかし芸術的には18世紀に萌芽した中世趣味が深く浸透して19世紀後半に至るまでゴシック・リバイバルの風潮が支配的であり,加えて過去の完成した諸様式の無批判な採用が折衷主義を生み,建築と工芸の様式に混乱を招いた。代表的な作例としては,まず1834年に焼失した国会議事堂のゴシック様式による再建(1840)があげられる。…
※「ゴシックリバイバル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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