モリスコ(その他表記)morisco[スペイン]

改訂新版 世界大百科事典 「モリスコ」の意味・わかりやすい解説

モリスコ
morisco[スペイン]

〈小さなムーア人〉を意味する語で,キリスト教徒治下のイベリア半島に居住したイスラム教徒を指す。元来はイスラムに改宗したスペイン人の呼称であった。従来レコンキスタ(国土回復戦争)の後もキリスト教徒の地にとどまっていたイスラム教徒はムデーハルと呼ばれていたが,1492年のグラナダ陥落以後,彼らはモリスコと呼ばれるようになった。以後モリスコの歴史は迫害反乱追放のそれであった。それは,信教の自由を保証したグラナダ降伏条約の廃棄に続いて,99年枢機卿ヒメネス・デ・シスネロスのグラナダでのイスラム文献焼却に始まる。迫害の理由は,スペインの国家統一の一環として,世界観・信仰の統一が叫ばれたこと,国内の矛盾,対立のモリスコへの転嫁,1529年のオスマン帝国のウィーン包囲によるイスラムへの敵対感情の増大などであった。1502年にはグラナダの,26年にはアラゴンのモリスコが,それぞれ改宗か追放かの選択を迫られたのをはじめ,56年にはフェリペ2世が法令で信仰・言語・制度・生活様式などの廃棄を強要した。1609年にフェリペ3世はモリスコ追放令を布告し,その結果50万人のモリスコが対岸北アフリカに渡った。彼らはそれまで,表面的にはキリスト教徒に改宗しても,内ではイスラムの信仰・慣習を遵守したり,反乱で迫害に対抗していたが,しだいに移住を余儀なくされていった。スペインを逃れたモリスコの総計は約300万人に達したといわれる。
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百科事典マイペディア 「モリスコ」の意味・わかりやすい解説

モリスコ

イベリア半島でキリスト教諸王朝の下に居住したイスラム教徒。〈小さなムーア人〉の意。本来,イスラムに改宗したイベリア住民全般の呼称であったが,1492年最後のイスラム朝グラナダ王国陥落後もキリスト教支配下に留まったイスラム教徒をモリスコと呼ぶようになった。迫害に対し反乱を繰り返したが,1609年フェリペ3世による追放令で約20万人が北アフリカ北岸に逃れた。
→関連項目アルメリアアンダルシアバレンシア(スペイン)フェリペ[3世]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「モリスコ」の解説

モリスコ
morisco

スペインにおいて,16世紀前半の勅令によってキリスト教に改宗させられた元イスラーム教徒をさす。農業手工業に携わる者が多かったが,ユダヤ教からの改宗者集団であるコンベルソに比べると非同化的で,社会の周縁部に置かれた。また隠れイスラーム教徒も多く,異端審問の対象となった。結局,17世紀初めに全面国外追放令が出され,約30万人が北アフリカなどに去った。多数のモリスコ農民が流出したスペイン東部は特に深刻な経済的打撃を被った。

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世界大百科事典(旧版)内のモリスコの言及

【アンダルス】より

…奴隷はサカーリバsaqāliba(スラブslavからなまったもの)といわれ,おもにヨーロッパ諸国(フランス,ドイツ,ロシア)から戦争捕虜として,また商品としてもたらされ,宮廷における家事奴隷として,また諸君主の親衛隊として活動した。なおレコンキスタの過程でキリスト教の支配を受けたムスリムをムデーハル,1492年以後の半島におけるムスリムをモリスコという。前者はキリスト教社会に融合し,経済・文化の発展に貢献した。…

【フェリペ[3世]】より

…1609年に長年の懸案となっていたオランダの独立運動を鎮めるために,反徒と12年間休戦協定を結んで妥協したのをはじめ,列強との融和を図ったおかげで,この治世中スペインは比較的平和な時代を享受した。また,同年に同化の困難なモリスコ(キリスト教に改宗したムーア人)を50万人も追放し国内統一の強化に努めたが,その代償として,有能な農業労働者を失った。寵臣レルマ公爵に政務を任せて遊芸にふけり,晩年には三十年戦争に介入して,スペインの没落を早めた。…

※「モリスコ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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