バーレーン(読み)ばーれーん(英語表記)Kingdom of Bahrain 英語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「バーレーン」の意味・わかりやすい解説

バーレーン
ばーれーん
Kingdom of Bahrain 英語
Mamlakat al-Bahrayn アラビア語

西アジア、ペルシア湾西岸のバーレーン島を中心とする大小30余りの島々からなる王国。面積は741平方キロメートル。人口74万3000(2006推計)。国名は「二つの海」を意味している。「バハレーン」あるいは「バフレーン」とする表記のほうがアラビア語には忠実である。バーレーン島は、サウジアラビアの東の沖合い約24キロメートルに位置し、南北約50キロメートル、東西の最大幅20キロメートルの島で、北東端に首都のマナーマがある。この島の東に国際空港のあるムハッラク島と石油製品の積出し港のあるシトラ島がある。3島は架橋によって結ばれている。気候は、砂漠地帯特有の酷暑を伴う夏が5月から10月まで続き、真夏の気温は40℃を超え、湿度は85%以上に達する。12~3月の冬は平均気温が20℃前後でしのぎやすい。年平均気温は26.5℃、年降水量は81ミリメートルである。

[高橋和夫]

歴史

遺跡の発掘調査によって古くからメソポタミアとインドを結ぶ中継貿易の重要な拠点であったことが知られてきた。聖書に記述のあるエデンの園はバーレーンであったという主張も一部ではなされている。その後ペルシア帝国の勢力圏に入るなどの経緯があって8世紀にはイスラム化した。16世紀に入るとポルトガル人がペルシア湾に姿を現すようになり、約1世紀にわたってバーレーンを支配した。

 1602年にペルシアのサファビー朝のアッバース1世(大王)がポルトガル人を追放して新しい支配者となった。これが後にイランがバーレーンへの領有権を主張する根拠となった。しかしペルシア人の支配は、1783年にアラビア半島からやってきたハリーファ家に率いられたウトゥーブ部族にとってかわられ、今日まで続くハリーファ家のバーレーン支配が始まった。その後ペルシア湾の覇者となったイギリスが、19世紀末にバーレーンを保護領とした。そして1971年にイギリスの撤退によって独立国となった。

[高橋和夫]

政治・経済・社会

憲法や議会をもち、いちおうは立憲君主制の体裁をとっていたが、1975年に議会は解散され、その後はハリーファ家の専制政治が続いた。しかし、1999年3月にハマド・ハリーファが首長につくと、二院制議会の設置、女性の参政権などの民主化推進を約束した。2002年2月には憲法を改正、首長制を廃止し、王制に移行、首長のハマドは国王となった。さらに同年10月、29年ぶりに国会議員選挙が行われた。国民議会は上院にあたる諮問院と下院で構成される。諮問院の議員定数は40で国王が任命、下院は議員定数40で直接選挙により選出される。任期は4年。外交は、アメリカ、イギリス、サウジアラビアとの協調が基本であり、1981年に発足したペルシア湾岸の君主国家のグループである湾岸協力会議GCC)の創設メンバーでもある。また1980年代にサウジアラビアとバーレーンを結ぶ全長25キロメートルの架橋が完成して両国の関係はいっそう密接になった。

 1990~1991年の湾岸危機・戦争ではアメリカ軍を中心とする多国籍軍に参加した。また基地や施設を提供して大きな役割を果たした。対外問題としてはGCCのメンバーであるカタール領土紛争を抱えていたが、2001年3月国際司法裁判所の判決を受けて決着した。2007年の国防予算は5億3900万ドル、兵役は志願制で総兵力は8200。陸軍6000、海軍700、空軍1500となっている。

 かつては北部におけるオアシスの水を利用したナツメヤシ栽培などの農業および漁業、天然真珠採取などが伝統的な産業であった。しかし1930年代に日本製の養殖真珠が出回るようになるとバーレーンをはじめとするペルシア湾の真珠産業は壊滅的な打撃を受けた。さらに当時の世界恐慌による需要の低下がこれに追い討ちをかけた。かわってバーレーン経済を支えたのが石油であった。1932年にアラビア半島諸国では初めての石油生産が始まった。しかしその資源は枯渇しつつあり、石油生産は1970年代には低下を始めた。バーレーンは脱石油を目ざして石油化学やアルミ精錬の分野へと産業の多様化を進めてきた。金融業にも力を入れ、一時は中東の金融センターへ成長するのではないかという期待がかけられた。しかし、石油価格の低下によるオイル・マネーの減少、近隣国アラブ首長国連邦のドバイの発展、そして伝統的に中東の金融センターであったベイルートの復興などの不利な要因が重なり合い、将来を楽観できないのが現状である。

 2008年の国内総生産(GDP)は約210億ドル(IMF推計)、1人当りGDPは2万7247ドル、経済成長率は6.3%である。貿易額(IMF推計)は輸出191億7000万ドル、輸入156億4000万ドル。おもな輸出品目(2004)は石油、アルミニウム製品、石油化学製品、衣料品、おもな輸入品目は精製用原油、自動車、電気製品、機械・輸送機器、アルミナである。

 日本への輸出は石油、アルミニウム製品など約429億円、日本からの輸入は自動車、機械製品など約968億円で、バーレーンの輸入超過になっている。

 もともとの住民の大半はアラブ人であるが、インド、パキスタン、イランなどからの外国人労働者も多く働いている。総人口の3分の1程度は外国人である。公用語はアラビア語。人口の大半はイスラム教徒であり、その多数派はシーア派である。ハリーファ家などの支配層はスンニー派に属しており、支配・被支配の関係が宗派で規定されたかたちになっている。

 人口の急増、経済の停滞などの要因によって若年層の失業が重大な社会問題となっている。そうした状況を背景に湾岸戦争後には散発的ながら暴動や爆破事件が続いている。

 教育制度は小学校6年(義務教育)、中学校3年、高等学校3年の六・三・三制で、その上に大学(4年)、職業訓練専門学校(2年)がある。大学は国立のバーレーン大学、湾岸協力会議諸国管轄のアラビアン・ガルフ大学がある。

[高橋和夫]

『日本貿易振興会編・刊『貿易市場シリーズ193 バハレーン・カタル』(1979)』『チャールズ・D・ベルグレイヴ著、二海志摩訳『ペルシア湾の真珠――近代バーレーンの人と文化』(2006・雄山閣)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「バーレーン」の意味・わかりやすい解説

バーレーン
Bahrain

正式名称 バーレーン王国 Mamlakat al-Baḥrayn。
面積 785km2
人口 165万(2021推計)。
首都 マナーマ

ペルシア湾の入り海バーレーン湾にある大小あわせて 30以上の島々からなる国。東のカタール半島と西のサウジアラビアのハサ地方に挟まれる。隣国カタールとは 1930年代からいくつかの地域の領有権を争ってきたが,ハワール諸島については 2001年に国際司法裁判所 ICJが正式にバーレーン領であるとの裁定をくだした。湿度は高いが降水は乏しく,ほとんど冬季に集中して年間平均 76mm。砂漠性気候であるが,バーレーン島北部,北東部に湧水があり,狭いナツメヤシや野菜園の地帯がある。そのほかの土地は植生に乏しい。住民の大多数はイスラム教徒のアラブ人で,アラビア語を使用。その他,インド人,パキスタン人,イラン人,イギリス人などが居住する。先史時代から住民がおり,おそらく前3千年紀のシュメール時代にさかのぼる遺跡があり,アッカド語文献に現れるディルムン Dilmunはバーレーンをさすとされている。諸島はペルシア,ギリシア,ローマの地理学者や歴史家によっても言及されている。7世紀のイスラムの征服以来,アラブ系イスラムの支配下にあったが,16~17世紀にポルトガル,17~18世紀にペルシアに占領された。1783年以来アラビア本土出身のハリーファ家の首長に支配されてきた。1820年,イギリスとの最初の条約が締結され,1861年イギリスの保護国となった。1971年独立を宣言,国際連合に加盟した。1932年にバーレーン島中央部にあるジャバル・ドゥハーンで石油が発見され,その利権収入が国家財政を支えており,都市の近代化が進み,医療と初等教育も無料となっている。石油の枯渇に備えて,1970年代後半からアルミニウム精錬,海外金融の推進など経済の多様化をはかっている。

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