インダス文明(読み)いんだすぶんめい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「インダス文明」の意味・わかりやすい解説

インダス文明
いんだすぶんめい

インダス川流域に、紀元前2000年前後を中心として栄えたインドの古代文明。D・R・サハニらによるハラッパー遺跡や、R・D・バナルジーらによるモヘンジョ・ダーロ遺跡の発見、発掘によってその存在が明らかになり、1921年以来今日に至るまで、各地で発掘調査が続けられている。

[小西正捷]

年代と分布

かつてインダス文明の年代は前2500~前1500年ごろと考えられていたが、昨今では前2350~前1800年ごろを最盛期とし、それぞれ前後に数百年にわたる生成期と衰退期を置く考え方が強まってきている。インダス文明の物質的基盤をなす遺物の集合をとくにハラッパー文化の名でよぶが、都市文明の様相を示すか否かにかかわらず、ハラッパー文化の遺物を出土する遺跡の数は、今日、大小あわせておよそ300ほどが確認されている。その広がりは他の古代文明に比べてきわめて広範囲にわたっており、東はデリー北西のアーラムギールプル、西はアラビア海沿岸のイラン国境にもほど近いソトカーゲン・ドール、北はジャム地方のマーンダー、南はカンベイ湾岸のマールワーンにまで及んでいる。すなわち距離にして東西1600キロメートル、南北1400キロメートルという範囲であるが、実は、西はバルーチスターン山脈、東はタール砂漠においてはその分布がほとんどみられず、またこれら300ほどの遺跡の90%以上が小規模な村落遺跡にすぎないことにも注意せねばならない。

[小西正捷]

指標遺物

ハラッパー文化の遺物はきわめて多岐にわたる。まずハラッパー土器であるが、多くはろくろ製で赤色の化粧土をかけ、そこに黒色顔料で、交差円文、魚鱗(ぎょりん)文、格子目文、市松文、波状文、帯状文などの幾何学文様のほか、ナツメヤシインドボダイジュロゼットなどの植物文、クジャク、シカ、魚などの動物文を描いている。その器形は、大形の貯蔵甕(がめ)や水甕、壺(つぼ)、鉢、埦(わん)、高坏(たかつき)、ビーカー、尖底(せんてい)ゴブレットなど種類が多く、実用的なものほど無文の傾向がみられる。また無文土器のうち特徴のあるものには、火桶(ひおけ)とも漉器(こしき)とも考えられている多孔土器があり、丸底で直立した高い器壁の一面に多くの小孔をうがっている。その他の土製品では、母神像と思われるものをも含む多種の人偶や動物土偶、また車などをモデルとした玩具(がんぐ)があり、用途不明の小形陶板(テラコッタ・ケーキ)も特徴的である。これは1辺が6~10センチメートルの隅丸三角形をなす粗製の素焼陶板で、厚さは3センチメートルほど。普通は無文無彩色であるが、カーリーバンガン遺跡出土のものにはヤギの供犠(くぎ)を表す線刻画がみえ、この例などはなんらかの儀礼に用いられた可能性もある。

 石器は高度な技術を駆使した特殊なものが目だち、しかも銅製品がそれほど一般に普及していなかったようにみえることから、この文化が金石併用文化としての特徴をもっていたことがわかる。銅製武具類も数少ないが、脱蝋(だつろう)法によっていくつかのみごとな青銅製人像が鋳造された。人像には砂岩、石灰岩、凍石(ステアタイト)製のものもいくつかある。都市部では凍石製の印章が出土するが、これは普通、1片が2~5センチメートルの方形をなす薄い小形のものである。表側にはゼブウシ、ゾウ、カモシカ、サイ、トラなどの動物のほか、一角獣や半神半獣、またいくつかの動物を組み合わせて一つにしたもの、神々を表したと思われる人物など神話的モチーフもみられ、いずれもていねいに陰刻されている。上方にはインダス文字が彫り込まれているが、未解読のため、その用途はわからない。裏側に紐(ひも)を通すための有孔のつまみがついているため、護符の用途もあったかもしれないが、封泥(ふうでい)に用いられた例も数多い。そのほかビーズなどの装身具類も多数出土しており、ことに紅玉髄(こうぎょくずい)製のものなどは、おそらくメソポタミア方面にまで輸出された重要な品目であったろう。また尺や分銅も一定の規格で統一されており、都市プランにみられる徹底した計画性とともに注目される。

[小西正捷]

都市の様相

インダス文明は、インダス川中流域パンジャーブ地方のハラッパーと、下流域シンド地方のモヘンジョ・ダーロの二大都市のほか、シンド地方のチャヌフ・ダーロ、カッチ・グジャラート地方のスールコータダーおよびロータル、北部ラージャスターン地方のカーリーバンガンなど、いくつかの中小地方都市を擁していた。これらの都市が文明の構造にそれぞれどのような役割を果たしたかは不明であるが、なかでもモヘンジョ・ダーロとハラッパーが政治経済上の中枢をなしていたことに疑いはない。しかしロータルのように、国内の物資流通のみならず、クウェート沖のバーレーン島などを中継基地として、遠くメソポタミアとまで交易を行った港湾都市は、その役割も明らかである。ここでは長さ219メートル、幅37メートルもある大きな船溜(ふなだま)りが発掘された。またいずれの都市も、各都市人口に見合う以上の量を収納しうる穀物倉を備えており、一種の国庫か地方銀行のような役割を果たしていた。しかし、これらの余剰生産物が、広大なその版図内よりどのように集積されたかなど、当時の政治経済機構の様相は、かならずしも明らかではない。権力を象徴するような王宮や王墓、もしくは大神殿も、インダス文明ではまだ発見されていないからである。

 その反面インダス文明は、きわめて綿密に計算された都市計画性において際だっており、整然としたプランが見て取れる。すなわち概して都市は城塞(じょうさい)部と市街地に分けられ、城塞は市の西側に置かれることが多かった。その場合、城塞は高い基壇上に築かれて市街とは別に城壁で囲まれるか、市街地とともに市壁で囲まれ、隔壁でもって市街地からは隔てられていた。また墓地は市壁の外に置くのが普通であった。

 一方、市街地は、全域がほぼ東西南北に走る5、6本の大通りによって区画され、さらにそれぞれは、ほぼ直角に交差する中、小路によって碁盤目状にくぎられていた。密集して建つ家々は高い壁と小さな入口をもつが、中に入ると中庭があって、その周囲に小部屋が並び、また2階へも通じていた。中庭には井戸があることが多く、そこに炊事場や洗濯場などが併設されていた。各戸からの排水は、壁中の土管や、ときにはダストシュート状に傾斜した排水孔から汚水槽へ、さらに暗渠(あんきょ)となったれんが造りの下水道へと導かれた。大通りの本下水道にはマンホールも設けられ、定期的な清掃がなされたらしい。また街の角々には警備員用の小屋と思われる建物もあり、大通りには工芸職人の工房や店が軒を連ねていたが、市民の集う広場のようなものはなかった。

[小西正捷]

文明の起源

インダス文明がどのように興起したのかは、文明の構造同様、不明な点が多い。かつてはメソポタミアないしはイランからの影響が重視されたこともあったが、なんらかの影響が西方から及んだことは否定できないにせよ、インダス川流域そのものにおいて独自の文明への胎動があったことは確かであり、その点でコト・ディジ文化の展開が注目される。同文化の分布はシンド地方のコト・ディジを標準遺跡として南部一帯にみられるほか、ハラッパー遺跡下層やジャリールプルなどを経て、北はタキシラに近いサライコラーやジャングなどの諸遺跡にまで広がっていると考えられる。またそれとも関連があるが、やや異質な要素をももつ北部ラージャスターンのソティ文化も注目されるべきであろう。

 確かに、より西方のバルーチスターン山地においては、前3000年ごろより、イラン高地の諸文化の影響を強く受けた独特の諸文化が展開していた。ピシーン・クエタ、ゾブなどのやや北方の地域が比較的早くから開け、次いで南方のアムリ、ナール、トガウなどの文化が展開する。しかし前2500~前2400年ごろ、イラン高地の陸路による交易路が衰え、それにかわってマクラーン海岸沿いのクッリ文化が栄えた。この時期にはインダス文明はすでに成立しており、より西方の文明と、主として海路を経由して交渉をもっていた。したがって、インダス文明を形成する直接の文化的基盤は、やはりインダス平原部そのものにおいて備えられていたと考えられる。

[小西正捷]

文明の衰退と文化的継承

インダス文明がいかに衰退したかについても議論が多い。かつては『リグ・ベーダ』のような後世の宗教的賛歌の記述によって、インダス文明が、インドに進入してきたアーリア民族によって滅ぼされたかのような説も一部に唱えられたが、少なくとも考古学上それを支持する証拠はなにもなく、また前1500年ごろと考えられるアーリア民族の進入時には、すでに文明はそれより300~400年も前に、おそらくは内的要因による崩壊の兆しをみせていた。文明が衰退期を迎えるのは前1800年か、遅くも前1750年ごろであるが、その理由や様相は、地方によって大きく異なっていたと思われる。すなわち、その理由もけっして単一ではありえず、さまざまな原因が複雑に競合しあっていたであろう。たとえば、国家政体の弱体化、メソポタミアとの交易の途絶、自然破壊による乾燥化や塩害などに加えて、シンド地方などではマクラーン沿岸部の隆起と関連した溢水(いっすい)、またパンジャーブや北部ラージャスターンなどでは重要な交易路でもある河川の流路変更なども打撃を与え、やがて周縁部をも含めた文明の崩壊をみたのではないかと思われる。

 しかし東部パンジャーブなどでは、文明の遺産は少なくともハラッパー土器の技術に受け継がれ、この文化伝統は、アーリア民族がガンジス平原部にまで歩を進めて定着してのちの前1200年ごろまでも続いた。おそらくは技術面のみならず、社会、宗教、文化のさまざまな側面においても、インダス文明は後のインド亜大陸の文化展開にとっての大きな源流となった。それらはいまだにインド諸文化の底流、伏流の一部をなしている。

[小西正捷]

『M・ウィーラー著、曽野寿彦訳『インダス文明』(1966・みすず書房)』『M・ウィーラー著、小谷仲男訳『インダス文明の流れ』(1971・創元社)』『曽野寿彦・西川幸治著『死者の丘・涅槃の塔』(1970・新潮社)』『辛島昇・桑山正進・小西正捷・山崎元一著『インダス文明』(NHKブックス)』『小西正捷著「インダス文明とアーリヤ世界の背景」(『岩波講座 世界歴史3』所収・1970・岩波書店)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「インダス文明」の意味・わかりやすい解説

インダス文明
インダスぶんめい
Indus civilization

インダス川流域を中心に栄えたインド亜大陸最古の文明。ハラッパー文化とも呼ばれる。 1921年パンジャブ地方のハラッパー (→ハラッパー遺跡 ) で,続いて 22年シンド地方のインダス川に近いモヘンジョ・ダロ (→モヘンジョ・ダロ遺跡 ) で遺跡が発見された (現在はどちらもパキスタン領内) 。さらに,カラチの西 480kmのアラビア海岸に近いソトカーゲン・ドールと,北東 1600kmのシムラ丘陵の裾野のローパルで同文明の遺跡が発見された。その後この文明は南端は西海岸を下ってカラチの南東 800kmのカンベイ湾,東はデリーの北方 50kmのジャムナ盆地に達していることが判明した。こうしてインダス文明は世界最古の三大文明中,先行するメソポタミア,エジプト両文明をはるかにしのぐ規模であることが立証された。
インダス文明はハラッパーとモヘンジョ・ダロ,そしてかなり小さなものも含め 100以上の町や村から成る。二大都市はいずれも周囲約 5kmで,その規模の大きさから中央集権制であったこと,インド史上にいくたびか現れる並立二大国家または2つの都市をもつ一大帝国であったことが推測される。繰返し大洪水に見舞われた土地柄から,ハラッパーがモヘンジョ・ダロの後継都市であったとも考えられる。カティアワール以南の遺跡は主要遺跡より年代が新しく,主要遺跡は前 2500年から前 1700年のものであるが,南部の遺跡は前 1000年代後半まで続いている。インダス文明は文字を用い,250から 500の文字は一部の解読が試みられ,ドラビダ語と推測されている。もともとは先住民や近隣の村々が集団化し発展したものらしく,メソポタミアにならい灌漑農業を営み,肥沃なインダス川流域の恵みを受け,収穫にもたけ,土地を肥沃にすると同時に破壊する毎年の大洪水にも十分対処していたとみられる。平野部に安定した基盤を築くと,新興文明は豊かになり人口がふえ,大河に沿って発展の途についた。農業を中心に補足的に若干の貿易が行われていたらしい。コムギや六条オオムギが栽培され,エンドウ,アブラナ,ゴマ,わずかにナツメヤシの種も発見されている。世界最古の綿花が栽培された形跡も知られている。イヌ,ネコ,コブウシ,短角牛,家禽などの家畜に加え,ブタ,ラクダ,野牛なども飼育されていたようである。ゾウも飼われていたらしく,象牙が自在に使われている。扇状沖積地では入手不可能な鉱物類は,ときにははるか遠地よりもたらされた。金は南インドやアフガニスタンから,銀や銅はアフガニスタンや北西インド (現在のラージャスターン州) から,ラピス・ラズリはアフガニスタンから,トルコ石はイランから,翡翠 (ひすい) に似たフクサイトはインド南部から輸入された。インダス文明で最も知られる加工品は小型の印章で,主としてステアタイトでつくられた独特のデザイン,技術のものが多数残っている。ゾウ,トラ,サイ,カモシカなどの写実的なものから幻想的な合成動物のようなものまで多種の動物が描かれ,ときに人物像も含まれていた。石彫も,おもに人または神を表わす小型の像が数体発見されている。動物や人をかたどった小さな土偶は,おびただしい数が発掘されている。
この文明が,いついかなる理由で幕を閉じたのかについては解明されていない。規模の大きさからみても,一斉に終局を迎えたとは考えられない。モヘンジョ・ダロの劇的かつ急激な終焉のみが知られている。この都市は前 1000年代なかば,通過した騎馬民族に一掃され,死体の散乱するままに放置された。推測の域を出ないが,『リグ・ベーダ』にアーリア人の戦いの神インドラが先住民の「城壁に囲まれた都市」もしくは「砦」を攻撃した記述があることから,襲撃者の正体はその頃インダス地方に侵入してきたアーリア人ではなかったかと思われる。ただ,モヘンジョ・ダロは当時,大洪水に1度ならず襲われ,家屋はスラム化しており,すでに崩壊寸前の状態であったことは明らかである。一方,カティアワール以南の状況はまったく異なっており,この地では,後期インダス文明から銅器文明へ文化が継承されたと考えられる。この文明は前 1700年からインド中西部を代表するものとなり,前 1000年頃インドに生れ発展することとなった鉄器文明へ,インダス文明の名残りを伝えるかけ橋となった。

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