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イランの王朝。1925-79年。パーレビー朝とも呼ばれる。第1次世界大戦直後,イラン北部では地方革命政権が生まれ,テヘランの中央政府の力は極度に弱まったが,イギリス帝国主義はロシア革命の波及を恐れて,1921年レザー・ハーンによるクーデタを演出し,その権力を強化した。彼は軍部独裁の道を進み,25年末レザー・シャー(レザー・シャー・パフラビー)と称してパフラビー朝を興し,26年戴冠式を行い,上からの近代改革を進めようとした。35年,それまで外国でペルシアと呼ばれていた国名を正式にイランと定めた。41年,連合国の圧力で国王は退位を余儀なくされ,南アフリカへ亡命し,44年7月死去した。王位は皇太子が継承し,モハンマド・レザー・パフラビーを称して22歳で即位した。第2次大戦中は連合国との協力を強いられた。大戦直後,ソ連軍駐留下に地方革命政権が生まれ,イランは米ソの冷戦に巻き込まれたが,弱かった国王権力はアメリカの支持で強化された。51-53年,モサッデク首相の率いる石油国有化運動が高揚すると,これと対立した国王は一時国外に脱出したが,最終的にモサッデク政権を打倒した。57年治安機構(SAVAK)を設立,58年パフラビー財団を創設して社会事業も始めた。60年ファラハ王妃との間に皇太子が誕生,63年白色革命が国民投票で承認された。しかし70年代後半には,石油ブームが特権層のみを潤す形となり,国民各層に広範な経済的不満が広がり,78年これらは反国王デモに結集され,ついにイラン革命で国王は79年1月国外に脱出。同年4月イスラム共和制が成立し,王制は打倒された。
執筆者:加賀谷 寛
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イランの王朝(1925~79)。第一次世界大戦後のイランをめぐるイギリス・ソ連両国の角逐のなかで、クーデターを敢行し実権を掌握したレザー・ハーン(のちにシャー)により創始された。初代皇帝レザー・シャーは、強力な軍事独裁体制を敷き、19世紀以来続いた西欧列強への経済的、政治的従属からの脱却を計り、内政面では早急な「近代化」政策を推進した。しかし外交面ではナチス・ドイツに接近したために第二次大戦下イランに侵攻したイギリス・ソ連両軍の圧力により退位させられた。続いて即位したモハンマド・レザー・パーレビは、大戦中イギリスにかわり中東に対する影響力を強化したアメリカとの関係の緊密化を計った。一時、モサデク政権による石油国有化闘争の際に亡命の危機を迎えたが、アメリカの画策でこれを克服したのち、63年には「白色革命」を断行。70年代には急増する石油収入を背景に第五次五か年計画に着手したが、経済政策の失敗と、独裁に対する国民の不満の急激な増大のなかで、79年のイスラム革命により打倒された。
[八尾師誠]
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