イラン北部にある同国の首都。人口718万8936(2003)。1796年,カージャール朝によって首都に定められてからパフラビー朝,イラン・イスラム共和国期においても引き続きイランの政治・経済・文化の中心となっている。
テヘランの名が初めて出てくるのは,13世紀初めのモンゴル侵入時代である。それ以前はテヘランの南東8kmの所にあるレイが有力な都市で,おそらくテヘランはレイの住民の夏の避暑地か,衛星村の一つであったと考えられる。レイはメディア王国時代の前700年ころに起源をもち,後642年,アラブの征服軍によって破壊されたものの,セルジューク朝のトゥグリル・ベク(在位1038-63)によって復興され,繁栄していた。しかし,1221年,モンゴル軍がレイを劫掠すると,住民は周辺の村々に難を避けたが,テヘランもその一つであった。
地理学者ヤークートによると,この頃のテヘランは果樹園に囲まれた周囲4kmほどの村で,人々は半穴居式の住居に暮らしていたという。しかし,1404年,ティムールのもとに遣わされたカスティリャの使節クラビホがここを通過したときには,城壁はないが大きな町であったと報告されている。サファビー朝のタフマースプ1世(在位1524-76)は城塞(アルグ)とバーザール(市(いち))を建設し,この町を周囲8kmで不規則な六辺形の市壁が取り囲む城郭都市にした。1627年のハーバートの旅行記によると,人口は3000戸,1万5000~2万人くらいであったという。
カージャール朝の創設者アーガー・ムハンマド・ハーン(在位1779-97)はテヘランが交通・戦略上の要衝を占めることに着目して,ここを首都に定めた。第2代のファトフ・アリー・シャー(在位1797-1834)はゴレスターン宮,官庁,外国公館,城門,モスク,マドラサ,ハンマーム(公衆浴場),広場などをつくって首都としての体裁を整えたが,19世紀半ばまでの人口は5万~6万人程度で,首都とはいえ都市の大きさではタブリーズ,イスファハーンに及ばなかった。
19世紀後半,テヘランは地方の都市・農村からの流入者の増加によって大きく発展した。1868年の調査によると,人口は15万5736で,社会階層をみるとカージャール朝の王族,官僚,軍人が政治の実権を握り,商人,手工業者が伝統的な経済活動を支えていた。雇用労働力(男の召使,女中),男女の黒人奴隷が全住民の1/5を占めていたことも目だった特徴であるが,彼らは家事労働か,伝統産業に働き口を見つけることがふつうであった。
1869-74年,人口増加によって手狭になった市街地を拡張する工事が行われた。旧市壁を取り壊してナポレオン3世時代のパリをモデルにして,八角形の市壁が修築された。周囲18km,面積20km2に市域が拡大され,ガス(1875),馬車軌道(1892),電気(1905),ヨーロッパ風の街路など近代的な都市の装いがこらされたが,まだこの時期では城郭都市という中世的な都市景観が残り,産業・社会構造からいっても近代都市とはいえなかった。
テヘランの近代化はパフラビー朝のレザー・シャーが1934年から開始した都市改造計画に始まる。彼は伝統的なイスラム都市に典型的な狭い小路が縦横に入り組む道路網を壊し,東西南北に規則正しく貫通する直線道路を建設した。
テヘランはその語源Tah-rān(山麓地帯の端)が示すようにエルブルズ山脈の支脈トチャール山脈南麓の沖積扇状地に発達した町である。この扇状地は最も高い北で標高1800m,最も低い南で1050mあり,平均1250m前後である。気候は年降水量が240mm前後,雨は冬に集中して降る。気温は年平均で16.5℃,大陸性の乾燥した気候であるため,寒暖の年較差が著しい。
テヘランは周りに河川がないため,かつては砂礫層の扇状地に滲み込んだ融雪の地下水を33個のカナートによって引水して生活のために利用していたが,1926年以来,北西部のエルブルズ山中にあるカラジ渓谷より用水路を開削して,上水道用水として使うようになっている。下水道の整備は遅れ,地中の汚物溜めに吸い込ませるという方式をとっている。
テヘランは第2次大戦後,百万都市の仲間入りをした。人口は1956年に151万,66年298万,76年445万と急激に増えつづけ,都市化による社会問題が深刻になった。94年時点でイランには人口30万人以上の都市が18都市,100万人以上の都市が5都市あるが,テヘランには全人口の11.3%(1994)が集中する過密ぶりである。
73年のオイル・ショック,石油価格の高騰によってイランの歳入は前年に比べて一挙に2倍に増え,こうした背景のなかで74年から修正第5次五ヵ年計画が実施に移された。テヘランはこれによって消費都市から生産都市へと脱皮していくことになった。1956年において,テヘランの産業構造は75%の人々が商業,輸送関係などの業種に従事し,工業は煉瓦,繊維,食用油,製粉,建設機械がみられる程度で,就業者も25%にすぎなかった。しかし,70年代になると,自動車組立て,金属,電気,食品加工,製靴部門が発展し,都市化による住宅不足で建設部門の需要が増大した。企業の系列化がすすみ,市内に近代的工場が多くできてきた。
工業地域は1940年代に市街地の南端,50~60年代に西部のカラジ地域に形成されていたが,65年以降,東部地域が工業化を担う地域として台頭した。テヘランの市街地は南北で著しい対照を示している。カージャール朝時代の市壁の北側部分を取り壊してつくったエンケラーブ(革命)通りを境に,北部には官庁,近代的商店,航空会社のオフィス,高級住宅が建ち並ぶが,南部には昔ながらの伝統的な都市部分が残り,貧しい流入者が住みついてスラム街がつくられた。この南北の格差は都市化による社会的矛盾を表し,イラン革命の引金になった。
執筆者:坂本 勉
テヘランの伝統的なイスラム建築は,最も古いものでも18世紀以前にはさかのぼらない。テヘラン最古のモスク,マスジド・イ・シャー(ファトフ・アリー・シャーにより1809年着工,40年ころ完成)のほか,マスジド・イ・ジャーミー,19世紀イラン建築中最も優れたマスジド・イ・セパサラール(1878-90)などがあり,いずれもカージャール朝時代のモスクである。文化施設として,まず第一にテヘラン考古学博物館が挙げられる。次に,現在は博物館として陶器,じゅうたん,写本および写本挿絵,インド将来と伝えられる孔雀の玉座が展示されているゴレスターン宮殿は,カージャール家の居宅(19世紀初頭)として建設されたもので,17世紀イランの庭園・建築を反映している。その他,民俗博物館(1938開設),カージャール朝時代のパビリオンを用い,陶器,金工,染織の工房を併設した工芸博物館,18~19世紀のイラン美術を陳列したネギャリスタン博物館(1975開設),テヘラン近代美術館(1977)等が挙げられる。
執筆者:杉村 棟
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イラン中北部にある同国の首都。アルボルズ山脈南麓(なんろく)の扇状地上、標高1191メートルに位置する。人口675万8845(1996)、869万3706(2016センサス)。
[岡﨑正孝]
大陸性気候で年降水量は208ミリメートルにすぎず、その大部分は冬季に集中し、夏季にはほとんど降水をみない。夏季には気温は30℃を超え、湿度は25%ほどになり乾燥する。イランの政治、経済、文化、外交の中心地で、自動車、セメント、食品加工、繊維などの工業が発達する。国内の主要道路のすべてが集中し、メシェッド、タブリーズ、バンダル・ホメイニ、ゴルガーンなど四方に鉄道が延びる。イラン革命以前には、西方11キロメートルにあるメフラバード空港は中東の主要国際空港として世界のおもな航空会社が乗り入れていた。1960年代以後、パーレビ国王の内政改革(「白色革命」)による工業化、近代化の進展とともに町の様相は大きく変わり、また人口の急増は深刻な住宅問題を生み、79年2月のイラン革命の舞台となった。
市域は南北32キロメートル、東西18キロメートルに広がる。南東部の旧城市内の中心にはバザール、ホメイニ・モスクがある。バザール南部の旧市域は迷路状の狭い道路と低い家屋が密集しているのに対し、北部の新市街には近代的な高層建築や高級住宅が立ち並ぶ。最北部のシェミラン地区は高級住宅街、避暑地となっている。第二次世界大戦中にチャーチル、ルーズベルト、スターリンが協議したテヘラン会談は、シェミランにあるダルバンド・ホテルで行われた。また、南方8キロメートルにはシャー・アブドル・アジャームの廟(びょう)のある古都レイがある。ほかに、先史時代から現代に至る文化遺産を収集した考古学博物館、イラン中央銀行の地下にある国立宝物博物館、19世紀に完成したカージャール朝のゴレスタン宮殿(現博物館)などがある。
[岡﨑正孝]
13世紀のモンゴル侵入時代に初めてテヘランの名がみいだされる。当時は南郊の都市レイに付属する周囲4キロメートルほどの僻村(へきそん)で、住民は半穴居式の生活を送っていた。1404年、ティームールのもとに使節として派遣されたクラビホがここを訪れたときには城壁はないが、町の景観をつくっていた。サファビー朝のタフマースプ1世(在位1524~76)の時代に周囲8キロメートルの六角形の市壁が巡らされ、城郭都市になったが、いまだ軍隊の駐屯地にしかすぎなかった。1786年カージャール朝がここに首都を移してから町は発展し、1868年、地方からの流入者を含めて人口は15万を超すまでになった。これに応じて1869~71年、市街地が拡張され、ナポレオン3世時代のパリに倣って周囲18キロメートルの八角形の新しい市壁が修築された。しかし、この段階での都市の性格は産業、社会構造からいって中世的なイスラム都市にとどまっていた。パフラビー朝のレザー・シャーは1934年この町の都市改造に着手し、近代的な市街地に町をつくりかえた。第二次世界大戦後、この町は100万都市の仲間入りをした。その後の人口増加は著しく、都市化現象が社会問題化している。
[坂本 勉]
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イラン中北部,エルブルズ山脈南麓の高地に位置する同国の首都。隣接するライなどの陰に隠れた小都市であったが,1786年カージャール朝の都とされてから発展を始め,以後一貫して首都の座を保っている。現在,政治,経済,文化など,あらゆる面でイランの突出した首座都市となっている。1943年,英米ソ首脳によるテヘラン会談がここで開かれた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…カイロは,ムハンマド・アリーとその後継者によってエズベキーヤ池の埋立てやアーブディーン宮殿の建設など旧市街の西側を対象とする都市建設計画が実行に移された結果,近代的な国際都市への変貌を遂げるとともに,再びアラブ・イスラム文化の中心としての地位をよみがえらせた。テヘランはカージャール朝(1779‐1925)の首都に定められてから人口が増大し始め,直線の道路に沿ってヨーロッパ風の新市街地が出現した。トルコでも新共和国の首都となったアンカラの発展ぶりが目覚ましく,官公庁,大学,国会,ホテルなどが次々と建設されていった。…
※「テヘラン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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