日本大百科全書(ニッポニカ) 「テヘラン」の意味・わかりやすい解説
テヘラン
てへらん
Teherān
イラン中北部にある同国の首都。アルボルズ山脈南麓(なんろく)の扇状地上、標高1191メートルに位置する。人口675万8845(1996)、869万3706(2016センサス)。
[岡﨑正孝]
地誌
大陸性気候で年降水量は208ミリメートルにすぎず、その大部分は冬季に集中し、夏季にはほとんど降水をみない。夏季には気温は30℃を超え、湿度は25%ほどになり乾燥する。イランの政治、経済、文化、外交の中心地で、自動車、セメント、食品加工、繊維などの工業が発達する。国内の主要道路のすべてが集中し、メシェッド、タブリーズ、バンダル・ホメイニ、ゴルガーンなど四方に鉄道が延びる。イラン革命以前には、西方11キロメートルにあるメフラバード空港は中東の主要国際空港として世界のおもな航空会社が乗り入れていた。1960年代以後、パーレビ国王の内政改革(「白色革命」)による工業化、近代化の進展とともに町の様相は大きく変わり、また人口の急増は深刻な住宅問題を生み、79年2月のイラン革命の舞台となった。
市域は南北32キロメートル、東西18キロメートルに広がる。南東部の旧城市内の中心にはバザール、ホメイニ・モスクがある。バザール南部の旧市域は迷路状の狭い道路と低い家屋が密集しているのに対し、北部の新市街には近代的な高層建築や高級住宅が立ち並ぶ。最北部のシェミラン地区は高級住宅街、避暑地となっている。第二次世界大戦中にチャーチル、ルーズベルト、スターリンが協議したテヘラン会談は、シェミランにあるダルバンド・ホテルで行われた。また、南方8キロメートルにはシャー・アブドル・アジャームの廟(びょう)のある古都レイがある。ほかに、先史時代から現代に至る文化遺産を収集した考古学博物館、イラン中央銀行の地下にある国立宝物博物館、19世紀に完成したカージャール朝のゴレスタン宮殿(現博物館)などがある。
[岡﨑正孝]
歴史
13世紀のモンゴル侵入時代に初めてテヘランの名がみいだされる。当時は南郊の都市レイに付属する周囲4キロメートルほどの僻村(へきそん)で、住民は半穴居式の生活を送っていた。1404年、ティームールのもとに使節として派遣されたクラビホがここを訪れたときには城壁はないが、町の景観をつくっていた。サファビー朝のタフマースプ1世(在位1524~76)の時代に周囲8キロメートルの六角形の市壁が巡らされ、城郭都市になったが、いまだ軍隊の駐屯地にしかすぎなかった。1786年カージャール朝がここに首都を移してから町は発展し、1868年、地方からの流入者を含めて人口は15万を超すまでになった。これに応じて1869~71年、市街地が拡張され、ナポレオン3世時代のパリに倣って周囲18キロメートルの八角形の新しい市壁が修築された。しかし、この段階での都市の性格は産業、社会構造からいって中世的なイスラム都市にとどまっていた。パフラビー朝のレザー・シャーは1934年この町の都市改造に着手し、近代的な市街地に町をつくりかえた。第二次世界大戦後、この町は100万都市の仲間入りをした。その後の人口増加は著しく、都市化現象が社会問題化している。
[坂本 勉]