ビーラーホラの戦(読み)ビーラーホラのたたかい

改訂新版 世界大百科事典 「ビーラーホラの戦」の意味・わかりやすい解説

ビーラー・ホラの戦 (ビーラーホラのたたかい)

1620年11月にボヘミア王国の首都プラハ西方郊外のビーラー・ホラBílá hora(〈白い山〉の意。ドイツ語でワイセン・ベルクWeissen Berg)の丘で衝突した神聖ローマ皇帝軍とボヘミア貴族・傭兵軍との戦闘。白山の戦とも呼ばれる。三十年戦争(1618-48)の発端となったボヘミア・ファルツ戦争(1618-20)時の決戦で戦火が全ヨーロッパ規模に拡大される原因となった。

 異端迫害者としてプロテスタントに恐れられていたハプスブルク家のフェルディナント(のちに神聖ローマ皇帝フェルディナント2世)のボヘミア王就任(1617年7月)を否認したボヘミアのプロテスタント派貴族が,1618年5月,国王代理ら3名をプラハ城の窓から濠に突き落とすという事件を起こした。この事件を契機として貴族たちの行動が激しくなり,国内からイエズス会士やカトリック高位聖職者が多数追放されるにいたった。19年8月,ボヘミア身分制議会は,フェルディナントを廃し,イギリス王ジェームズ1世の娘婿で,カルバン派のファルツ選帝侯フリードリヒ5世(ボヘミア国王,在位1619-20)を新王に選んだ。これを反逆と見なしたフェルディナントは教皇,スペインなどの支援を受けて,傭兵軍を組織し,ボヘミアに攻め入った。一方,これも傭兵軍を主力とするボヘミア貴族側は,頼みとしていたドイツ,ルーマニアのプロテスタント諸侯の援助も得られぬまま,20年11月ビーラー・ホラで敵と衝突し,わずか半日の戦闘で敗れ,潰走した。フリードリヒ5世はその夜のうちにオランダに逃亡した。

 反乱に対する懲罰は激しく,首謀者の貴族ら二十数名がプラハの旧市街広場で斬首され,反乱の参加者の多くは国外に追放された。彼らの土地・財産はすべて没収され,皇帝側についた貴族,軍人,カトリック教会に分配された。カトリック化が再び国内をおおい,改宗を望まぬ貴族・都市民がザクセンシュレジエンに大量に亡命・移住し,国内のプロテスタント派は根絶された。

 伝統的なチェコ史学は,ビーラー・ホラの戦をチェコ民族の独立の終息と位置づけ,近代的ナショナリズムが勃興する18世紀末~19世紀初めまでを〈暗黒時代(チェムノTěmno)〉と呼ぶ。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のビーラーホラの戦の言及

【三十年戦争】より

…このため戦争のドイツ全域への波及は不可避の形勢となったが,フリードリヒ5世がカルバン派であったことが災いして,多くの新教派諸侯の援助をうることができず,当時スペイン接近をはかっていた義父のイギリス王ジェームズ1世も動かなかった。いっぽう皇帝は旧教連盟の指導者バイエルン公マクシミリアンの協力とスペインの援助をとりつけて反攻に転じ,20年11月フリードリヒ5世の軍をプラハ西方のビーラー・ホラ(ワイセンベルク)に破った(ビーラー・ホラの戦)。これによってボヘミアは再びハプスブルク家の支配下に入ったが,それに続いて皇帝は反乱に荷担した新教派諸侯軍を各地に破り,スペイン軍もファルツ領に侵入して,イタリアとネーデルラント間の軍隊輸送路を確保した。…

【ファルツ】より

…ファルツは1410年4支国に分割され,その後18世紀末まで幾度も分割と統合を繰り返すが,統一的領邦国家は最後まで形成されなかった。その間宗教改革が行われて新教が導入され,ファルツ選帝侯は一時期新教陣営で力をもったが,三十年戦争のはじめボヘミア国王に選ばれたファルツ選帝侯フリードリヒ5世(冬王)(在位1610‐23)がビーラー・ホラの戦(1620)で神聖ローマ皇帝軍に敗れ,ファルツからヨーロッパ的権力が生まれる道は閉ざされた。1688‐97年ファルツ戦争でフランスのルイ14世の侵攻を受け,ファルツの国土は荒廃する。…

※「ビーラーホラの戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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