日本大百科全書(ニッポニカ) 「フガード」の意味・わかりやすい解説
フガード
ふがーど
Athol Fugard
(1932― )
南アフリカ共和国の白人劇作家、俳優、演出家、映画監督。旧ケープ州ミドルバーグ(現東ケープ州)に生まれ、1932年ポート・エリザベスに移住。父はイギリス人でジャズ・ピアニスト。母はアフリカーナー(オランダ系)。病身の父にかわって母が喫茶店を経営して家計を支えた。店の手伝いをしながら人種差別の実態を知る。46年地元の工業専門学校で自動車整備士の資格を取り、50年にケープ・タウン大学で社会科学と社会人類学を学んだ。のち船員となり2年間東洋を周航し、これがさまざまな人種と接する貴重な体験となった。その間に創作を始め、帰国後、南アフリカ放送局に勤めケープ・タウンに移住。大学時代の同窓で女優のシェイラ・メアリングと再会、57年に結婚、夫婦ともう一人の女優を加えて劇団サークル・プレイヤーズを組織し、演劇の世界にのめり込んでいった。58年ヨハネスバーグに移住。同年、当時黒人文化のメッカといわれた非白人居住区ソフィアタウンの黒人芸術家たちと接触、人種差別に苦しむ都市黒人の実態にふれ、その後のアパルトヘイトをテーマとする実験演劇の仕事に取り組む転機となった。のち国立演劇機構(NTO)の舞台監督を務め、ヨーロッパ、アメリカ、ザンビアなどを歴訪、活発な演劇活動を展開し、81年ナタール大学から名誉文学博士号を授与された。ほかに、多数の映画賞、演劇賞を受賞。戯曲に『血のつながり』(1961初演。1963刊)、71年オビ賞を受賞した『ボーズマンとレナ』(1969初演刊)や『こんにちは、さようなら』(1965初演。1966刊)、『人びとはそこで生きている』(1968初演。1969刊)、『背徳法で逮捕されたのちの声明』(1972初演。1975刊)、『島』(1972初演。1974刊)、『アロエからの教訓』(1978初演。1981刊)、『メッカへの道』(1984)などがある。なおニューヨークのブロードウェーで大評判だった『シズウェ・パンジーは死んだ』(1972初演。1974刊)は、87年『こんな話』という題で地人会の手で日本でも初上演された。ほかに小説『ツォツィ』(1980)を出版。アパルトヘイト廃棄後の戯曲には『わが子どもたち!わがアフリカ!』(1990)と廃棄後の現実に対応する世代間(祖父と孫娘)のずれをテーマにした『谷間の歌』(1996)がある。
[土屋 哲]
『福田逸訳『谷間の歌――バーニィー・サイモンの想い出に捧ぐ』(1999・而立書房)』