ブライアン(その他表記)Brian

現代外国人名録2016 「ブライアン」の解説

ブライアン
Brian

職業・肩書
歌手

国籍
米国

生年月日
1975年2月20日

出生地
ケンタッキー州レキシントン

本名
リトレル,ブライアン〈Littrell,Brian Thomas〉

グループ名
グループ名=バックストリート・ボーイズ〈Backstreet Boys〉

受賞
アメリカン・ミュージック・アワード(ポップ・ロック部門バンド賞)〔2001年〕

経歴
1993年フロリダ州オーランドのオーディションで出会ったA.J.、ニックハウィー・Dの3人が結成したダンス・ボーカルグループ、バックストリート・ボーイズ(Backstreet Boys,BSB)に、従兄のケビンとともに加わり、男性5人組グループとして’94年「ゴーイン・オン」で全米デビュー。’96年デビューアルバム「バックストリート・ボーイズ」がドイツチャートで初登場1位を獲得、その後日本や米国でも人気を得る。’99年3枚目のアルバム「ミレニアム」は全世界で3500万枚を売り上げ、25ケ国でチャート1位を獲得。2000年グラミー賞では5部門にノミネートされる。グループとしての充電期間を経て、2005年5年ぶりにアルバム「ネヴァー・ゴーン」をリリース。2006年最年長のケビンが脱退して4人組になったが、2012年ケビンが復帰。2013年4月ハリウッドの殿堂入り(ウォーク・オブ・フェーム)を果たす。2015年結成20周年を記念して製作されたドキュメンタリー映画「BACKSTREET BOYS:SHOW’EM WHAT YOU’RE MADE OF」が公開される。代表曲に「エヴリバディ」「アイ・ウォント・イット・ザット・ウェイ」「君が僕を愛するかぎり」、他のアルバムに「ブラック&ブルー」(2000年)、「アンブレイカブル」(2007年)、「ディス・イズ・アス」(2009年)、「イン・ア・ワールド・ライク・ディス」(2013年)など。来日多数。

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改訂新版 世界大百科事典 「ブライアン」の意味・わかりやすい解説

ブライアン
William Jennings Bryan
生没年:1860-1925

アメリカの政治家イリノイ州に生まれ,大学卒業後弁護士を開業。ネブラスカ州に移り,1890年合衆国下院議員に当選。96年民主党全国大会で,金権政治を非難する〈黄金の十字架〉演説を行い,大統領候補に指名された。西部農民の立場を代表して銀貨の無制限鋳造(フリー・シルバー)を唱え,〈働く人民大衆〉による政権奪取を訴えたが,共和党候補W.マッキンリーに敗れた。1900年にも民主党大統領候補となってフィリピン併合に反対する反帝国主義を唱え,08年にも出馬したが,いずれも敗れた。13年ウィルソン政府の国務長官に就任。第1次世界大戦に際し,ウィルソンの対外政策が合衆国を戦争にまきこむとして,15年辞任した。キリスト教倫理への素朴で強烈な信念から,独占と特権に反対し続け,また産業化の進展のなかで,農村的アメリカの理想を守ろうとした。晩年は禁酒法を支持し,公立学校での進化論の教育に反対した。
スコープス裁判
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブライアン」の意味・わかりやすい解説

ブライアン
ぶらいあん
William Jennings Bryan
(1860―1925)

アメリカ合衆国の政治家。イリノイ州に生まれる。1887年ネブラスカ州に移り、弁護士業のかたわら、政治活動に参加。90年連邦下院議員に選出(1891~95)。民主党内の銀貨無制限鋳造派(フリー・シルバー派)の指導者として台頭。96年民主党全国大会において、金単本位制に反対する「金の十字架」演説により大統領候補に指名され、ポピュリスト(人民党)の指名をも受けて、共和党のマッキンリーと戦ったものの敗北。1900年、08年にも出馬したが、いずれも敗北した。12年ウィルソンの民主党大統領候補指名を支援した。ウィルソン政権の国務長官に就任したが、第一次世界大戦に際し厳正中立を唱えてウィルソンと対立、15年に辞任した。晩年は、進化論教育反対を唱えて「猿裁判」(スコープス裁判)で検察側にたつなど、そのファンダメンタリスト(根本主義者)としての立場をあらわにした。

[横山 良]

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朝日日本歴史人物事典 「ブライアン」の解説

ブライアン

没年:1903.1.23(1903.1.23)
生年:1847.9.20
明治期に来日したお雇い外国人。アメリカ人郵便事業家。米国オハイオ州カディズで大工の子として生まれ,職を転々としたあとワシントンの国庫証券局の官吏となる。1872年に年俸1600ドルに昇給するがこれをなげうち,さらに高給を得る職を求め同年来日。米公使デ・ロングの紹介状を携え駅逓頭前島密 に面談を求め,翌明治6(1873)年駅逓寮に年5400ドルで雇用される。当時,国内には英米仏の郵便局があり,まず同年8月日米郵便交換条約を締結し(1875年に施行),米局を撤退させ外国郵便の第一歩を切り開き,さらに上海日本局の開設など黎明期の外国郵便の業務に尽くす。15年12月1日の帰国に際し,特に天皇に拝謁を許され勲4等旭日章を賜る。ラックストンにて死去。

(澤護)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

百科事典マイペディア 「ブライアン」の意味・わかりやすい解説

ブライアン

米国の政治家。銀の自由鋳造,西部・南部農民層の利益増進等を主張して3度民主党から大統領選挙に出馬。1913年ウィルソン大統領の国務長官となったが,第1次大戦参戦に反対して1915年辞職。1896年の民主党全国大会で金権政治を非難した〈金の十字架〉演説で知られる。強硬な進化論反対者としてスコープス裁判に係ったことでも有名。
→関連項目ポピュリスト党

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ブライアン」の意味・わかりやすい解説

ブライアン
Bryan, William Jennings

[生]1860.3.19. イリノイ,セーレム
[没]1925.7.26. テネシー,デートン
アメリカの政治家。 1883年弁護士。 91年下院議員。 96年には銀貨の無制限鋳造を掲げて南・西部の農業地帯を地盤に民主党,人民党,銀貨党連立の大統領候補に指名されたが落選。次いで 1900,08年の大統領選挙戦でも敗北した。 12年には W.ウィルソン大統領の実現に努力し,翌年国務長官に就任したが,第1次世界大戦に際しウィルソンの連合国寄りの政策に反対して 15年辞職。内には金権政治を批判し,外には帝国主義反対を唱え,大雄弁家として知られた。

ブライアン
Bryan, Sammuel M.

[生]1846.2. オハイオ
[没]?
日本政府雇のアメリカの郵便事業家。本国で郵便局長をつとめ,厚遇を期待して来日,アメリカ公使 C.デ・ロングの斡旋で 1873年2月,大蔵省駅逓寮雇となる。日米郵便交換条約の締結,次いで万国郵便条約への加盟に尽力した。 82年 11月,解任。帰国後は事業家となったが,88年セントラル・ヒーティング社倒産後の消息は不明である。

ブライアン
Bryan

アメリカ合衆国,テキサス州南東部の都市。綿花,牧草,野菜などを産する農業地帯の中心地。酪農,養鶏が行われ,綿実油などの食品加工業も盛ん。テキサス農工大学 (1876創立) ,州農事試験場などがある。人口5万 5002 (1990) 。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ブライアン」の解説

ブライアン
William Jennings Bryan

1860~1925

アメリカの政治家。民主党指導者。1896年大統領選挙で銀貨自由鋳造(フリー・シルバー)を主張し,人民党の支持も得たが敗北。第一次世界大戦期には厳正中立を主張してウィルソン政権の国務長官を辞任。1925年スコープス裁判では進化論教育に反対した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ブライアン」の解説

ブライアン Bryan, Samuel Magill

1847-1903 アメリカの郵便局員。
1847年9月20日生まれ。明治5年(1872)来日,翌年横浜郵便局の外国郵便課長となる。日米郵便交換条約などを締結し,10年の万国郵便条約加盟の折衝にあたる。また日本人職員に外国郵便の実務を指導した。15年帰国。1903年1月23日死去。55歳。オハイオ州出身。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ブライアン」の解説

ブライアン
William Jennings Bryan

1860〜1925
アメリカの革新派政治家
西部農民を背景に反帝国主義を掲げ,1896年,1900年,08年の大統領選挙に出馬したが敗れ,12年ウィルソンを推してようやく勝利を得,国務長官となった。上院議員の直接選挙,女性参政権の改革など,ウィルソンの内政・外交政策に彼の革新政策をいかし,「偉大なる平民」といわれた。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

367日誕生日大事典 「ブライアン」の解説

ブライアン

生年月日:1975年2月20日
アメリカの歌手(バックストリート・ボーイズ)

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のブライアンの言及

【スコープス裁判】より

…そのためデートンという小さな町の高校の生物学教師スコープスJohn T.Scopesは進化論を教えて逮捕され,7月に裁判が行われた。これが一躍全米の注目を集めたのは,3回も大統領候補に指名され,国務長官を務めたこともあるW.J.ブライアンが検察側に,当代一流の弁護士ダローClarence S.Darrow(1857‐1938)が弁護側に加わったためである。ブライアンはダローの追及に混乱したが,聖書を文字どおり信奉するプロテスタント正統派の勢力は強大で,判決は有罪100ドルの罰金であった。…

【ポピュリスト党】より

…ポピュリスト党は連邦議会にも議員を出してはいるが,どちらかといえば,連邦政治よりも西部と南部の州政治のほうで大きな影響力をもった。1896年の選挙に際しては,民主党候補で銀貨自由鋳造を主張するW.J.ブライアンを同党の大統領候補に指名したが,ブライアンの敗北はポピュリスト党を二分する結果となり,ちょうど農村景気が回復してきたこととも重なって,党勢力は急速に失墜に向かった。しかし,ポピュリストの改革案の多くは,まもなくプログレッシビズムの時代に入ると,二大政党の手によって次々と実現された。…

【民主党】より

…しかし,その〈平等〉と黒人奴隷制という基本的矛盾はやがて民主党を分裂させ,60年の選挙で新興産業資本と西部農民層との連携をはかったリンカンの下の共和党に政権を譲り,南北戦争における南部の敗北とともに,南部にたてこもる万年少数党というイメージをもたれるにいたった。事実,民主党は60年以来1932年の選挙まで,1896年の選挙で西部出身の〈庶民〉の代表W.J.ブライアンの農民層への強力な訴えなどがあったものの,S.G.クリーブランドの2回,T.W.ウィルソンの2期を別とすれば,政権をとれず,共和党が自由放任主義の下で高度成長期のアメリカ社会を支配していた。ただし,その間民主党が中心的支持基盤を南部から北部大都市へと移行させ,多数形成への基礎をつくりつつあったことは注目してよい。…

※「ブライアン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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