アメリカのジャズ・ピアノ奏者。コネティカット州北部のノーフォークに、ポルトガル人の血を引くアフリカ系アメリカ人の父親と、ネイティブ・アメリカンの母親の間に生まれる。中学のころからバリトン・サックスを演奏し、やがてテナー・サックスに転向、またピアノも弾くという多才ぶりだった。
1950年、サイドマンとしてクラブに出演しているとき、テナー・サックス奏者スタン・ゲッツに見いだされ、彼のバンドにピアノ奏者として加わりレコーディングに参加する。1951年ニューヨークに進出し、ジャズ・クラブ「バードランド」のハウス・ピアニストのような立場で、トランペット奏者マイルス・デービス、テナー・サックス奏者レスター・ヤング、コールマン・ホーキンズなど、多くのミュージシャンと共演の機会をもつ。1952年、ブルーノート・レーベルに初リーダー作『ホレス・シルヴァー・トリオ・アンド・アート・ブレイキー+サブ』を吹き込み、1954年ジャズ・メッセンジャーズの前身のグループ「ホレス・シルバー&ジャズ・メッセンジャーズ」をドラム奏者アート・ブレーキーと結成。またブレーキーのアルバム『バードランドの夜』に参加する。1956年ブレーキーと別れ、トランペット奏者ドナルド・バードDonald Byrd(1932―2013)、テナー・サックス奏者ハンク・モブレーHank Mobley(1930―1986)をサイドマンに従えたクインテットを結成、アルバム『シックス・ピーシズ・オブ・シルバー』Six Pieces of Silverを録音する。このアルバムのライナー・ノートで、ジャズ評論家レナード・フェザーLeonard Feather(1914―1994)がシルバーの演奏を「ファイン・アンド・ファンキー」と評したところから、彼の名はファンキー・ピアニストとして知られるようになる。ファンキーFunkyとは俗語で、土着的で黒人的な要素の強い演奏のことを意味する。とりわけメンバーがブルー・ミッチェルBlue Mitchell(1930―1979、トランペット)、ジュニア・クックJunior Cook(1934―1992、テナー・サックス)に代わった1959年ごろからこの傾向は強くなり、シルバーのバンドはいわゆる「ファンキー・ジャズ」の代表的グループの一つとなる。このころの代表作には『ドゥーイン・ザ・シング』(1961)などがある。
1960年代も後半になるとファンキー・ブームも後退し、人気に陰りが見られるようになる。この時期、自ら詞を書き、コーラスやブラス・セクションを取り入れるなど音楽の傾向が大きく変わる。1970年代の末には20年以上にわたり専属アーティストとして契約してきたブルーノート・レーベルとも袂(たもと)を分かち、1981年に自らのレーベル「シルベート・プロダクション」を設立するが、流通の問題もあってファンの話題から遠ざかっていた。1990年代に入り、アルバム『イッツ・ゴット・トゥ・ビー・ファンキー』It's Got to Be Funky(1993)でジャズ・シーンに復帰する。彼のピアノ奏法は初めバド・パウエルの影響を受けたものだったが、しだいに独自の情熱的なスタイルを身につけ、とりわけ1950年代末から1960年代初頭にかけてのファンキー・ジャズ全盛期には、日本における人気も高かった。
[後藤雅洋]
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