日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブルガリア帝国」の意味・わかりやすい解説
ブルガリア帝国
ぶるがりあていこく
中世ブルガリアを支配した帝国で、第一次と第二次とに分かれる。シメオン1世(在位913~927)の913年に、ビザンティン帝国から「ブルガリア人の皇帝」の称号を認められたため、以後「帝国」とよばれたが、通常は、それ以前の時代も含めてブルガリア帝国とされる。
第一次帝国時代の9世紀前半までは、政治的指導者で最高位の神官でもあるハンを中心とするブルガール人の王朝支配が続いた。しかし、クルム・ハン(在位803ころ~814)時代には、国力の増大に伴ってスラブ人貴族の行政への参加が始まり、初の成文法も成立して、統一的な「ブルガリア人」の形成に向かう。ボリス1世(在位852~889)時代には、トランシルバニアからエーゲ海、黒海からアドリア海に広がる大国に成長し、国際的にも、国内の統一のためにもキリスト教に改宗する。結局、東方正教会が選択されたが、この教会は、スラブ語による典礼を認めていたために、スラブ語が普及し、スラブ化はさらに進んだ。しかし、新旧宗教の対立は内訌(ないこう)を、戦争による急激な領土拡張は民衆の疲弊を招き、サムイル(在位976~1014)時代に西部で一時独立を保つが、1018年ビザンティン帝国に支配された。
第二次帝国は、ビザンティン帝国の相次ぐ苦境に乗じてタルノボTǎrnovoを首都として再興され、イワン・アッセン2世(在位1218~41)の治下、国土は第一次帝国時代に匹敵するほどになり、文化的、経済的絶頂を迎えた。しかし西からの十字軍、東からのモンゴル軍の侵入があり、それに伴うビザンティン帝国の弱体化は、地方貴族の分立を引き起こして隣国セルビアの伸張を許し、14世紀末には、東から攻めてきたオスマン帝国の支配下に入った。
[寺島憲治]