ブロンテ姉妹(読み)ブロンテしまい

改訂新版 世界大百科事典 「ブロンテ姉妹」の意味・わかりやすい解説

ブロンテ姉妹 (ブロンテしまい)

シャーロット・ブロンテCharlotte Brontë(1816-55),エミリー・ブロンテEmily Brontë(1818-48),アン・ブロンテAnne Brontë(1820-49)の3姉妹で,いずれもイギリスの詩人,小説家。父パトリック・ブロンテはアイルランド出身で,苦学して大学を出,牧師としてイギリス中部ヨークシャーの教会を転々と回り,1820年荒涼とした寒村ホーワスの教区教会牧師に任命された。3姉妹も幼少のころからこの寂しい土地で暮らし,刺激も娯楽もない毎日の生活を,生まれながら身に備わった強い想像力で慰めた。幼いころから創作にふけり,想像上の国を舞台に詩や物語を競作した。将来の自活のため家庭教師になる決意をし,フランス語勉強のためシャーロットとエミリーは,42年ベルギーの首都ブリュッセルの寄宿学校に入った。エミリーは社交嫌いでホームシックに悩んだ。シャーロットは学校の先生に恋をしたが結局実らずに終わった。家庭の事情で2人は家に戻らざるをえなくなり,3姉妹共同で詩集自費出版したのは46年であったが,少しも売れず苦い失望を味わった。このときシャーロットはカラー・ベルCurrer Bell,エミリーはエリス・ベルEllis Bell,アンはアクトン・ベルActon Bellと,頭文字だけ同じのペンネームを使い,女であることを隠そうとしたが,これはその当時の一般の風潮を考えると,やむをえぬ行為だった。

 詩集の失敗の後,3姉妹は小説をそれぞれ同じ筆名を用いて書き,ロンドンの出版社に送ったが,拒否されることが続いた。エミリーの《嵐が丘》と,アンの《アグネス・グレー》は,やっと出版社が見つかり,それぞれ1847年に日の目を見たが,ほとんど黙殺ないし悪評で葬り去られてしまった。シャーロットの《教授》は出版社が見つからないため,彼女は第2の小説《ジェーン・エア》を書いたが,これがロンドンの出版社に受け入れられ,同じ47年刊行されたところ,爆発的人気を呼んだ。そのうえ作者が人里離れた寒村出身の女性であることが判明して,シャーロットは一躍ロンドンで人気を浴び,文壇に華やかなデビューをした。エミリーとアンはなおも人との交際を避け,ホーワスで父と暮らしていたが相次いで病のため世を去った。シャーロットのみが創作を続け,《シャーリー》(1849),《ビレット》(1853)などの小説を発表し,父の教会の副牧師であるニコルズと54年結婚したが,翌年病死した。

 3姉妹の作品は死後に高い評価を受け,世界中で愛読されたが,生前まったく無視されたエミリーの《嵐が丘》が,シャーロットの作品よりも文学的価値の高い傑作,世界文学史上屈指の名作と賞賛されるようになったのは皮肉である。日本でも《嵐が丘》《ジェーン・エア》は何種類も翻訳があり,ベストセラーとして迎えられているほか,3姉妹の伝記,評論も多く書かれている。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のブロンテ姉妹の言及

【イギリス】より

…しかも,彼らの作品は決してローカル文学ではなく,全イギリス,いや全世界の文学愛好家を魅了するだけの普遍性をもっていた。19世紀のブロンテ姉妹はイングランドの中心部で生まれたが,父親からケルト人の血を受け継いでいた。アングロ・サクソン人のもつ強固な現実感覚と,ケルト人の幻想にふける能力――この二つのまったく相反する要素がブロンテ姉妹の文学を生み出したわけであったが,それはイギリス文学のさまざまな作品の構成要素ともなっている。…

【ホーワス】より

…イギリスには珍しい山地で,気候はとくに冬が厳しく,荒涼とした周辺にはほとんど人は住みつかず,産業もない。作家ブロンテ姉妹の父,パトリック・ブロンテ牧師が1820年ここの教会に赴任して以来,姉妹はここで死ぬまでの大半を過ごし,自然の中の孤独な生活が霊感の源となった。牧師館は現在〈ブロンテ博物館〉となっている。…

※「ブロンテ姉妹」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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