日本大百科全書(ニッポニカ) 「プレトン」の意味・わかりやすい解説
プレトン
ぷれとん
Georgios Gemistos Plethon
(1355ころ―1452)
ビザンティン帝国の人文主義者。首都コンスタンティノープルで成人し、教育を修めた。ペロポネソスのミストラに赴き、この地の領主テオドロス2世の庇護(ひご)の下にプラトン哲学を講ずる学校を主催した。弟子には後の枢機卿(すうききょう)ベッサリオンを筆頭に多くの人文主義者が輩出した。東西両教会の統一に反対の立場ながらフェッラーラ・フィレンツェ公会議(1438~1439)にヨハネス8世Johannes Ⅷ(在位1425~1448)の随員として列席し、イタリアの人文主義者たちにプラトン哲学への興味を呼び起こし、同時に従来の主流であったアリストテレス哲学との対立を生んだ。後のメディチ家のコジモによるプラトン・アカデミアの創設(1462)もこれを契機としている。主著『法律』は、論敵ゲナディオスGennadius(1400ころ―1468)(首都陥落後の初代総主教)の断により禁書とされたため断片しか現存していないが、古典ギリシアへの回帰とユリアヌス流の異教の導入を説いた。同じ立場から、ミストラを中心にした帝国の復興を志した。彼は、テオドロス2世と皇帝マヌエル2世にそれぞれ建白書を提出、その実現を促した。すなわち、キリスト教から多神教への転換、税制の改革、外国人にかわる自国兵の養成、プラトンの『ポリテイア』によった社会層の三分化(農民、商人・職人、軍人・役人の三層)、修道士のもつ経済力の剥奪(はくだつ)、土地の平均的分割などを内容とするユートピア的提案も、彼の死とそれに続く帝国の崩壊により、その実現をみることなく終わった。
[和田 廣 2015年1月20日]