改訂新版 世界大百科事典 「フィレンツェ公会議」の意味・わかりやすい解説
フィレンツェ公会議 (フィレンツェこうかいぎ)
1438-39年にイタリアのフェラーラとフィレンツェで開催された公会議。バーゼル公会議(1431-39)の開催中,ローマ教皇エウゲニウス4世(在位1431-47)が,ベネチアに到着(1438年2月)したヨハネス8世以下のビザンティン側代表団を迎えて,まず1438年4月9日フェラーラで開き,39年2月26日以後さらにフィレンツェに会場を移して,ラテン・ビザンティン両教会統一のために催した。
1054年のミハエル・ケルラリオスのシスマ(分裂)以後,ビザンティン側はシャルル・ダンジューのコンスタンティノープル進攻の矛先をかわすためにローマ教会との提携を策し,ミハエル8世がリヨン公会議(1274)に皇帝特使を派遣して,分裂以来(さかのぼっては9世紀末,コンスタンティノープル総主教フォティオス以来)の争点である,(1)ローマ教皇の首位制,(2)聖霊の〈子からも〉(フィリオクエ)の発出,(3)酵母(たね)をいれぬパンの典礼((2),(3)はラテン教会の慣行),を認めたけれども,自国のキリスト教徒の受け入れるところとはならなかった。しかし,14世紀末オスマン・トルコの圧力が強まるにつれて,ビザンティン帝国は西方から軍事援助を得る前提として,教会統一問題の解決に迫られた。マヌエル2世が1399-1403年,軍事援助を求めてイタリア諸都市(ただしローマ入りせず),パリ,ロンドンを歴訪したが失敗に終わった後,1414年コンスタンツ公会議が開かれるや,神聖ローマ帝国の皇帝ジギスムントの招きに応じてクリュソロラスを派遣した。17年,同会議で教皇に選ばれたマルティヌス5世のもとで,両教会の接触が本格化し,統一のための新たな公会議について折衝が続いた。その間マヌエル2世の長男ヨハネスが,再度軍事援助を求めてベネチア,ミラノを訪れ(このときもローマ入りせず),ハンガリーにジギスムントを訪ねたが不成功に終わった後,父の後を継いでヨハネス8世となったその治下で,ついにフェラーラ・フィレンツェ公会議が実現をみた。会議全体を通じてラテン側,ビザンティン側の参加者は,それぞれ360人,200人に上った。
討論は懸案の上記3点のほか,以下の諸議題にわたった。それは,(1)ラテン神学固有の〈煉獄purgatorium〉,(2)東方正教会のエピクレシスepiklēsis(《マルコによる福音書》14章にみる〈これは私のからだである。……これは私の血である〉に加えてさらに,聖霊に向かって聖職者が行うところの,パンとブドウ酒が,キリストの体と血にかえられるようにとの祈り),(3)14世紀に東方正教会内で問題となったヘシュカスモスにおける,神の本質と働きの関係,の三つであった。
会議は1439年7月統一を決議して終わった。ローマ教皇の首位性はきわめてあいまいに定義され,東方正教会の慣行は認められたものの,全体として決議は,帰国を急ぐビザンティン側が迫られた妥協の産物で,ローマ側の意図への屈服にほかならなかった。ただ一行中には少なからざるビザンティン文人が含まれており,フィレンツェの人文主義者たちの熱狂的歓迎を受け,その持参したギリシア古典の手写本と相まって,西方の文芸復興を促進させる結果となった。
1440年2月皇帝一行はコンスタンティノープルに戻ったが,すでにエフェソス府主教マルコス・エウゲニコスはフィレンツェで決議の署名を拒否し,続いて統一の推進者ベッサリオン(ニカエア府主教),イシドール(モスクワ府主教)が枢機卿としてコンスタンティノープルを去るなかで,統一反対の空気は高まり,決議の国内での実現に踏み切れないままにヨハネス8世は世を去り(1448),続いて皇帝となった弟のコンスタンティノス11世が,すでに始まったオスマン帝国スルタン,メフメト2世のコンスタンティノープル包囲のもとで,1452年12月ハギア・ソフィア教会における元老院,市民参加の典礼の後,ようやく統一決議の実施を宣言することができた。しかし,その結果ビザンティン人の反ラテン感は高まる一方で,彼らは自分たちの伝統的宗教心情を最後まで譲らず,トルコ支配下でもそれを守った。コンスタンティノープル陥落(1453)後,スルタン支配下の初代総主教となったのは,教会統一の反対派に属するゲンナディオスであった。
執筆者:渡辺 金一
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