改訂新版 世界大百科事典 「ヘナウケの戦」の意味・わかりやすい解説
ヘナウケの戦 (ヘナウケのたたかい)
1643年(寛永20),西蝦夷地セタナイ(現,北海道瀬棚郡・久遠郡)-シマコマキ(島牧郡)地域のアイヌ民族が反松前藩の行動に立ちあがった,近世におけるアイヌ民族の最初の戦い。ヘナウケはアイヌの首長名。戦いの具体的な経緯は不明な点が多いが,〈《福山秘府》〉などの松前藩側の年代記類に記された記事から知りうることは,同年春,セタナイを拠点にアイヌの首長ヘナウケを先頭にした大規模なアイヌ民族の蜂起をみたこと,そのため松前藩は,いち早く蠣崎利広ほかの重臣を指揮官とした鎮圧隊を派遣し,5月ごろには鎮圧されるに至ったことなどである。ヘナウケについては,セタナイの首長説,シマコマキの首長説の2説があるが,後者の見解が有力である。
戦いの主要な舞台となったセタナイは,中世末から近世初頭にかけて松前に近い近蝦夷地のなかではアイヌ民族の勢力が強かった地であった。しかも東部のアイヌが同地に交易に来るなど,アイヌ社会内部における一大交易地となっていたところでもあったが,松前藩が成立するや,同藩は寛永期(1624-44)に集中的に,蝦夷地の各海岸部に相次いで一方的に交易場として商場(あきないば)を設置した。その結果セタナイは谷梯氏,シマコマキは並川氏の商場となった。こうした商場の設置は,蝦夷地内のアイヌ民族の交易の主体性を著しく制限したのみならず,それまでアイヌ社会内部における一大交易地というセタナイの位置にも大きな打撃を与えた。しかも松前藩は,寛永期にシマコマキやセタナイの河川で砂金採取を行ったため,河川での鮭漁に大きく依存する同地域のアイヌ民族の生活に大きな打撃を与えただけでなく,1640年の駒ヶ岳の大噴火が同地域のアイヌ民族に大きな被害をもたらした。43年という年に,シマコマキ-セタナイ地域のアイヌ民族がいっせいに蜂起したという現象の裏には,こうした事情がひそんでいたものとみられる。
→アイヌ
執筆者:榎森 進
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報