ボッタ(読み)ぼった(その他表記)Mario Botta

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ボッタ」の意味・わかりやすい解説

ボッタ
ぼった
Mario Botta
(1943― )

スイスの建築家。ティチーノ州メンドリシオに生まれる。ルイジ・スノッツィLuigi Snozzi(1932―2020)やマリオ・カンピMario Campi(1936―2011)ら、ティチーノ派とよばれるイタリア系スイス人建築家の代表的存在。風光明媚なティチーノ地方のランドスケープのなかに、単純な幾何学と重厚な素材感をもった彫刻的な建築をつくる。

 1958年から1961年にかけて、ティチーノ州ルガノのティータ・カルロニTita Carloni(1931―2012)とルイジ・ガメニッシュLuigi Gamenischの事務所でドラフトマン(製図技師)として働き、そのかたわらいくつかの住宅などの設計を個人で手がけている。それらの作品は当時のイタリア建築の影響を受けており、近代建築に代わるべきものとしてのフランク・ロイド・ライト的な有機的建築への参照が見られる。1961年よりイタリア、ミラノの芸術高等学校で学び、さらに1964年ベネチア建築大学に入学し、ここで彼の設計手法に影響を及ぼす3人の建築家ル・コルビュジエ、ルイス・カーン、カルロ・スカルパに出会う。当時のベネチア建築大学ではル・コルビュジエの提示する建築理論が議論の的となっていたが、1965年にはそのル・コルビュジエがベネチア市立養老院を設計することとなり、ボッタもベネチアのル・コルビュジエのアトリエに参加する。後にはル・コルビュジエのパリのアトリエでも働いている。その後完成させたスタービオの住宅(1967、ティチーノ州)はル・コルビュジエの作品から受けた影響がストレートに表れており、その後の彼の作品の特徴である、ランドスケープと対峙(たいじ)する彫刻的形態がすでにここでみられる。1969年にはカーンのベネチア会議場計画をプレゼンテーションするための展覧会の会場構成に参加し、そして同年スカルパを指導教官としてベネチア大学を卒業している。カーンのマッシブな建築の影響はボッタの建築の外観にはっきりと表れており、またスカルパの影響はボッタのインテリア・デザインにおける素材の扱いに見ることができる。

 卒業後ルガノで設計を開始し、都市的スケールのプロジェクトに取り組む一方で、住宅を中心として独自の設計手法を確立してゆく。1973年のリバ・サン・ビターレの住宅(ティチーノ州)において彼のスタイルはおおむね完成されている。すなわち3層からなる断面構成、ロッジア(内と外をつなぐ空間)をもつこと、天空に向かって開くことの三つの原則である。その後もランドスケープのなかに埋め込まれた小さな量塊ともいうべき独立住宅への取り組みを続ける一方で、1977年のモルビオ・インフェリオーレの中学校、1979年のカプチン会修道院付属図書館、1985年のランシーラ1ビル、1988年のゴッタルド銀行(以上ティチーノ州)と順調に作品の幅を広げてゆく。1980年代から1990年代にかけてスイスを代表する建築家となり、スイス各地で多くの公共建築を手がけている。そのほか1990年(平成2)東京のワタリウム美術館、1995年サンフランシスコ現代美術館、同年フランス、パリ近郊のエブリーのカテドラルなど、海外でのプロジェクトにも精力的に取り組んでいる。1996年よりティチーノ州メンドリシオにおけるメンドリシオ・ティチーノ建築アカデミー設立を発案、建築家教育プログラム作成の責任者となり、自身も教授として教鞭をとる。

 1976年ローザンヌ連邦大学客員教授、1987年エール大学客員教授。1978年FAS(スイス建築連盟)会員、1984年アメリカ建築家協会名誉会員、1997年イギリス王立建築家協会名誉会員。1999年レジオン・ドヌール勲章受章。そのほかのおもな作品にはリゴルネットの住宅(1976)、マッサーニョの住宅(1979)、スタービオの住宅(1982)、モルビオ・スペリオーレの住宅(1984、以上ティチーノ州)、ティンゲリー美術館(1996、バーゼル)などがある。

[日埜直彦]

『古谷誠章訳『マリオ・ボッタ――構想と構築』(1999・鹿島出版会)』『『GA ARCHITECT3 Mario Botta』(1989・エーディーエー・エディタ・トーキョー)』『『a+u 臨時増刊号 マリオ・ボッタ作品集』(1986・エー・アンド・ユー)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ボッタ」の意味・わかりやすい解説

ボッタ
Botta, Paul Émile

[生]1802.12.6. トリノ
[没]1870.3.29. アシェーレ
フランスの外交官,考古学者。イタリアの著名な歴史家 C.ボッタの子で,初め医者としての教育を受けた。 1842年モスル領事代理となり,同年チグリス川東岸のクユンジクを発掘。古代都市ニネベ発見の直前で,コルサバード (古代名ドゥルシャルルキン) 発掘に移り,1週間後にサルゴン2世の大宮殿を発見。フランス政府の助成金を受け,画家 E.フランダンの協力をも得た。遺物は輸送中一部水没する不幸があったが,多くはパリへ送られ,1847年5月1日ルーブル博物館で初めてアッシリア美術が展示された。その後,エルサレム (1848) ,北アフリカのトリポリ (1868) の領事を歴任。主著『ニネベ遺跡』 Monuments de Ninive (1849~50,共著) ,『コルサバード碑文』 Inscriptions Découvertes à Khorsabad (1848) 。

ボッタ
Botta, Carlo Giuseppe Guglielmo

[生]1766.11.6. ピエモンテ,サンジョルジョカナベーゼ
[没]1837.8.10. パリ
イタリアの歴史家,政治家,医師。トリノ大学で医学を修め,フランス革命に大きな影響を受けた。 1794年スパイ嫌疑で捕われたが,フランスに逃れ,ナポレオン (1世) 幕僚の軍医となり,ナポレオンに心酔。 1815年フランスに帰化,アカデミー会員になった。主著『アメリカ独立戦史』 Storia della guerra dell' indipendenza degli Stati Uniti d'America (1809) 。

ボッタ

「イトミミズ」のページをご覧ください。

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百科事典マイペディア 「ボッタ」の意味・わかりやすい解説

ボッタ

フランスの考古学者。領事としてイラクのモスルに在住中,1842年コルサバードサルゴン2世の壮麗な宮殿跡を発見し,1844年にかけて発掘,アッシリア学に新生面を開いた。
→関連項目アッシリア学

ボッタ

イトミミズ

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367日誕生日大事典 「ボッタ」の解説

ボッタ

生年月日:1766年11月6日
イタリアの歴史家,政治家,医師
1837年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のボッタの言及

【イトミミズ】より

…日本全国に分布する。下水溝などの泥の中に群生しているので,泥の表面が桃色になるためモモホオズキと呼ばれるほか,ボッタ,イトメなどとも呼ばれる。体は糸状で長さ5~10cm,体節数85~100。…

※「ボッタ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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