ピエモンテ(英語表記)Piemonte

改訂新版 世界大百科事典 「ピエモンテ」の意味・わかりやすい解説

ピエモンテ[州]
Piemonte

イタリア北西部の州。人口433万(2004)。トリノ,アレッサンドリア,ノバラ,アスティAsti,クネオCuneo,ベルチェリ,ビエラBiella,ベルバノ・クジオ・オッソラVerbano-Cusio-Ossolaの8県から成る。州都はトリノ。北はスイスおよびバレ・ダオスタ州との境,西はフランスとの国境をなす標高3000~4000mの険しいアルプス山脈,南はリグリア州との境をつくる標高500~1500mのアペニノ山脈と,三方を山々に囲まれる。フランス国境に近い高峰モンビーゾMonviso(3841m)付近に発するポー川が州を横断し,その流域の平野が東に向かって大きく開け,ロンバルディア州へと続いている。アルプスやアペニノから流れ出るドーラ・バルテアなどの主要河川はすべてポー川に注ぎ,北東部マジョーレ湖とそれから流出するティチノ川はロンバルディア州との境の一部をなしている。アルプスの山々はピエモンテ側では急峻であるが,所々に刻まれた深い谷に古くから峠道が開け,歴史的にもこの地方とフランス,内陸ヨーロッパとの関係を密接にしてきた。現在は,モン・スニMont Cenis(イタリア名はモンチェニージオMoncenisio),サン・ベルナールシンプロンフレジュスなどの峠を幹線道路が越え,あるいは鉄道トンネル,道路トンネルが貫通し,フランス,スイス方面とトリノ,ミラノなどの北部大都市との交通を確保している。平野部の気候は内陸性で,夏は蒸し暑く,冬は寒く霧が発生しやすい。積雪の多い山岳部にはウィンター・スポーツ向きの観光地が点在している。

 隣接するロンバルディア,リグリア両州とともに,所得水準の高い先進地域であるが,州内部の地域的差異や格差は大きい。農業に関しては,過疎の進む山岳地域での,生産性の低い,小麦,牧畜を中心とする零細な農業経営から,ノバラ,ベルチェリ両県にまたがるポー川流域の灌漑の行き届いた平野での資本主義的大経営による米作(全国の生産高の半分以上を占める)まで多様で,第2次世界大戦後は,リンゴ,ナシなどの果物やピーマン,セロリなどの野菜栽培も顕著である。州中央部のモンフェラートMonferratoや南部のランゲLangheの丘陵はブドウ畑で覆われ,質の高いブドウ酒を生産している。

 工業は,19世紀にビエラの毛織物工業をはじめとする北部丘陵地域での繊維工業が,豊富な水力を背景にして,この地方の工業化に先鞭をつけたが,19世紀末に設立されたトリノのフィアット社は南イタリアから流入する労働力を吸収して,とくに第2次世界大戦後の成長が著しい。イブレアのオリベッティOlivetti社の事務用機械の生産も重要である。機械金属および自動車工業とその関連部門が州の工業生産の約半分を占めるが,トリノ県への工業集中の傾向が強く,この1県で州の工業従事者の約60%を擁している。近年はクネオ(ゴム)やアルバ(食品)などへの工業分散や広がりも始まっており,また航空機,電子工業など先端技術産業の発展もみられ,自動車工業中心のイメージから脱しつつある。州東部の工業都市ノバラは,地理的に近いミラノの経済圏にある。

 ローマ時代にすでにイブレアやトリノに植民が行われていたこの地方は,その後フランク王国下で,いくつかの公・伯領に分かれた。11世紀に現在のフランスのサボア地方を支配していたサボイア家が,この地方の一部を領地として得たのを契機に,以後徐々に支配域を拡大し,地方の統一にあずかった。イタリアがスペインやフランスなど列国の干渉を受けて停滞していった16世紀以降,トリノに首都を構えたサボイア公国は,巧みな外交戦術で独立を保ちつつ勢力を伸長し,1718年にはサルデーニャ島を領有してサルデーニャ王国を名のった。19世紀には制度の近代化,農業改良,工業化をはかり,宰相カブールの下でイタリア統一運動を推進し,この王国への,イタリア諸邦の併合という形で,イタリア王国が成立した。統一時に王家発祥の地のサボア地方とニースをフランスに割譲して,ほぼ今日のフランスとピエモンテとの境が決定した。他のイタリア北部,中部の地方と異なり,自治の伝統をもった都市が少なく,ルネサンス文化の遺産も乏しいが,近代史に果たした役割はきわめて大きい。
執筆者:

イタリアの文学史において,ピエモンテ地方は二つの時期に重要な活動を展開した。一つは近代国家統一期(リソルジメント)に自由主義思想を唱えた文学者たちの運動であり,もう一つは20世紀に入ってファシズム期に反ファシズム思想を掲げた文学者たちの文化活動である。両者とも政治的な実践行動と密接な関係をもった。約言すれば,ピエモンテ地方の文学の200年において,イタリアは文学者の社会的責務に目ざめ,慰みの文学を拒否し,反ブルジョアジー,反権力の文学の立場を築いて,現在もそれを推進しつつある。

 まずトリノ生れのV.アルフィエーリは9歳でトリノ市のアカデミーに入り,イタリア国内はもとより全ヨーロッパを遍歴してロマン主義の文学のうちに身をおき,絶対的な自由を求めて18世紀の末に一連の悲劇を発表し,オーストリアの支配下にあったイタリア人民に政治的覚醒を促した。サルッツォ生れのS.ペリコは同じように憂国の悲劇を著し,モンティフォスコロと親交を結んで,愛国者として名をあげた。とりわけ,いったんは死刑を宣告され,10年間にわたる獄中の経験をつづった《わが獄中記》(1832)は,独立精神の鼓吹に大きく寄与した。文学者であり画家でもあったM.M.T.ダゼーリオはトリノに生まれ,反マッツィーニ,反ガリバルディを唱え,穏健自由主義者として政治活動を展開した。リグリア海岸のオネリアOnegliaに生まれ,1875年からトリノに定住したE.デ・アミーチスが少年少女向きの《クオーレ》(1886)のなかで愛国精神を説いたことは,広く知られていよう。独立期の圧政に抗議してナポリから亡命の途中,一時トリノに身を寄せた(1853-56)文学史家F.デ・サンクティスが私的機関で行った連続講演(〈ダンテ論〉ほか)も,ピエモンテ地方の自由な学風に迎え入れられた。詩人・評論家のグラーフArturo Graf(1848-1913)はナポリ大学を卒業後トリノ大学教授となり,83年に《イタリア文芸思潮》誌を創刊して,イタリア文学研究の基礎をピエモンテ地方に築いた。

 20世紀初頭の〈黄昏(たそがれ)派〉詩人たちの頭目とされるG.ゴッツァーノはトリノに生まれ,トリノ大学でグラーフに学び,アルプス山脈を背景にピエモンテ地方の風物を詩や童話に定着させた。同じくグラーフの下でトリノ大学に学んだ女流作家グリエルミネッティAmalia Guglielminetti(1881-1941)は,ダンヌンツィオ流の小説を著した。同じくグラーフの弟子であった者たちに,詩人ではパストンキFrancesco Pastonchi(1877-1953),小説家ではボンテンペリMassimo Bontenpelli(1878-1960),文学史家ではトーベツEnrico Thovez(1869-1925)らがいた。グラーフは,それゆえ,ボローニャ大学教授でノーベル文学賞詩人となったG.カルドゥッチと,しばしば比肩される。

 1920年代に入り,トリノには二人の人物をめぐって文学的核が形成された。一人はグラムシとも交わりのあった反ファシズム思想の持主モンティAugusto Monti(1881-1966)であり,もう一人はP.ゴベッティである。モンティはトリノの高校教師として,作家C.パベーゼや出版社主エイナウディGiulio Einaudi(1912-99)らに大きな影響を与え,ゴベッティもモンティの生徒の一人であった。ゴベッティは若くして亡命先のパリに客死するが,彼が創刊した《バレッティ》誌(1924-28)には詩人E.モンターレをはじめ,多数のピエモンテ出身の文学者たちが参加した。後のミラノ大学教授フビーニMario Fubini(1900-71)やローマ大学教授N.サペーニョもそのなかにいた。

 1933年に創設されたエイナウディ社は,反ファシズム思想の砦になるとともに,第2次大戦中から戦後にかけて,トリノを新しい文化の中心地とするのに主導的役割を果たした。サント・ステーファノ・ベルボ生れのC.パベーゼ(反ファシズム活動の理由によって1935-36年は南イタリアに流刑),トリノ生れの画家・医者で《キリストはエボリに止まりぬ》(1945)を著したレービ(1935-36年は南イタリアに流刑),獄死したロシア文学者ギンズブルグLeone Ginzburg(1909-44),その妻ナターリア・ギンズブルグ,またレジスタンスに参加した最後の世代I.カルビーノは,エイナウディ社の編集活動に直接加わった。この結果,戦後エイナウディ社から,B.フェノリオ,G.アルピーノ,P.レービら,多彩な人材が世に送り出された。また流刑を機会に,北の知識人と南の民衆の心とが結ばれ,E.ビットリーニやL.シャッシャら,シチリア出身の主要な作家たちが,エイナウディ社を文学上の拠点とするようにもなった。

 また,戦後の文学研究において最も高い水準に達した,フィレンツェおよびピサの大学教授コンティーニGianfranco Contini(1912-90),トリノ大学教授ジェットGiovanni Getto(1913- ),そして戦前の高名なフィレンツェ大学教授A.モミリアーノらの名も,ピエモンテ地方の出身者として名を逸するわけにはいかない。より新しい世代のなかでは,トリノ大学でジェットの助手を務め現在ジェノバ大学教授のE.サングイネーティと,同じくトリノ大学で哲学科の助手を務め現在ボローニャ大学教授のU.エーコがいる。両者とも〈63年グループ〉の結成に加わり,〈新前衛派〉の理論的支柱になると同時に実験的な手法の詩や小説も発表している。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ピエモンテ」の意味・わかりやすい解説

ピエモンテ
ぴえもんて
Piemonte

イタリア北西部の州。面積2万5399平方キロメートル、人口416万6442(2001国勢調査速報値)。トリノ、クーネオ、ノバーラ、アレッサンドリア、ベルチェッリ、アスティ、ビエッラ、ベルバーノ・クジオ・オッソラの8県からなる。州都トリノ。アルプス山脈(南・西・北部)とリグリア・アペニン山脈(南東部)に囲まれ、フランスおよびスイスと国境を接する。中央部では多数の支流の水を集めながらポー川が流れ、パダナ(ポー川流域)平野が広がる。なかでもベルチェッリとノバーラ両県の灌漑(かんがい)平野はイタリア最大の稲作地帯を形成している。米のほか、セロリ、インゲンマメ、牧草、トウモロコシなどの農産物が全国生産のなかで高い比重を占める。しかしピエモンテ経済の土台は工業で、とりわけフィアット社を有するトリノの自動車工業、オリベッティ社のあるイブレアの事務機械工業、ビエッラの毛織物工業などが重要である。

[堺 憲一]

世界遺産の登録

ピエモンテ州と隣接するロンバルディア州に点在するサクリ・モンティ(「聖なる山」サクロ・モンテの複数形)が2003年、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「ピエモンテとロンバルディアのサクリ・モンティ」として世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。

[編集部]

歴史

ローマ時代にはトランスパダーナとリグリアの一部をなし、トリノやイブレアの前身となる町が建設されたが、ピエモンテという地方名はまだ存在しなかった。11世紀中葉、サボイア伯オッドーネOddone(サボイア伯1051?~57)がトリノ伯領を領有し、同地方におけるサボイア家支配の拠点が成立する。13世紀前半ピエモンテという名称が出現し、サボイア家の領土拡張に伴い、その範囲も広がった。1416年サボイア公国が成立。15代目のサボイア公ビットリオ・アメデオ2世Vittorio Amedeo Ⅱ(サボイア公1675~1713、シチリア王1713~20、サルデーニャ王1720~30)のときには、新たにサルデーニャ島を加えてサルデーニャ王国が発足した。18世紀中ごろまでには現在のピエモンテのほぼ全域がサボイア家のもとで統一される。その後1850年代、宰相カブールの指導下でイタリア統一運動(リソルジメント)の旗頭となり、1861年には事実上サルデーニャ王国による全国併合という形で国家統一が達成される。その結果、サルデーニャ王であるビットリオ・エマヌエレ2世が初代のイタリア王に、またトリノが新生イタリアの最初の首都(1861~65)になった。

[堺 憲一]

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百科事典マイペディア 「ピエモンテ」の意味・わかりやすい解説

ピエモンテ[州]【ピエモンテ】

イタリア北西部の州。州都トリノ。北,西をアルプス山脈,南をアペニン山脈に囲まれ,東にポー川流域の平野が開ける。アルプスの山々には古くからの峠道が開け,歴史的にもこの地方とフランス,内陸ヨーロッパとの関係は密接。所得水準の高い先進地域であるが,農業は過疎の進んでいる山岳部の零細な小麦,牧畜から,ポー川流域の平野部での大経営による米作や,果樹,野菜などの栽培まで多彩である。工業は19世紀に北部丘陵地域で豊富な水力発電を背景に繊維工業が起こった。機械金属および自動車工業とその関連部門が州の工業生産の約半分を占め,トリノ県に集中している。近年,航空機,電子工業などの先端技術産業の発展も見られる。ローマ時代すでにイブレアやトリノに植民が行われていたが,フランク族の支配を受け,11世紀に現在のフランスのサボア地方を支配していたサボイア家が進出し,徐々に同家の支配域が拡大した。16世紀以降同家はトリノを首都とし,1718年にはサルデーニャを領有して,サルデーニャ王国となった。19世紀後半,首相カブールのもとで近代化が図られ,イタリア統一(リソルジメント)運動が進められた結果,イタリア王国が成立。統一時に王家発祥の地であるサボア地方をフランスに割譲。面積2万5399km2,436万3916人(2011)。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ピエモンテ」の解説

ピエモンテ
Piemonte

イタリア北西部のアルプス山麓に位置する地方。前3世紀にローマに服属。ローマ帝国崩壊後,6世紀にランゴバルド,8世紀にフランクの支配を受ける。11世紀にサヴォイア伯領となり,以後サヴォイア家の支配に服す。イタリア統一後は自動車をはじめ,イタリア工業の中心地となった。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

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