カーン(読み)かーん(英語表記)Louis Isadore Kahn

デジタル大辞泉 「カーン」の意味・読み・例文・類語

カーン(Caen)

フランス北西部、ノルマンディー地方、カルバドス県の都市。同県の県都。第二次大戦のノルマンディー上陸作戦で大きな被害を受けたが、戦後の復興がいち早くなされ、工業化が進んだ。カーン城、サンピエール教会、サンテチエンヌ教会など、戦災を免れた歴史的建造物が残っている。カン。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「カーン」の意味・わかりやすい解説

カーン(Louis Isadore Kahn)
かーん
Louis Isadore Kahn
(1901―1974)

アメリカの建築家。エストニア生まれ。1905年、家族とともにアメリカに移住する。24年にエコール・デ・ボザール(フランス国立美術学校)の建築教育課程に準じたペンシルベニア大学建築学科を卒業し、以後1930年代までフィラデルフィアの建築設計事務所でドラフトマン(製図技師)として働く。25年にはアメリカ合衆国建国150年祭国際博覧会本館(フィラデルフィア)の設計のチーフデザイナーを務める。31~34年、金融恐慌による不況の下、カーンは失業中の30人ほどの建築家やエンジニアを組織し、フィラデルフィアの住宅環境を調査研究し、スラム・クリアランスslum-clearance(不良住宅の撤去による都市の浄化)や都市計画および新工法の研究を行う。37年には合衆国住宅局(USHA)の顧問建築家となり、多くの公共住宅団地の建設に携わる。35年にカーンはパートナーとともに設計事務所を設立するが、その後解散し48年から74年の死去に至るまで1人で設計活動を行う。

 1947年エール大学建築学科の非常勤講師着任がカーンにとって転機となり、以後、大学のキャンパス計画や公共建築などを手がける。48年より同教授、57年以後はペンシルベニア大学建築学科教授、71年に同名誉教授となる。大学で教職に就きながら設計活動を行う「プロフェッサー・アーキテクト」として、寡作ながらも独自の設計手法と設計哲学を確立した。

 カーンは近代建築の造形と理論を拡張し、ミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビュジエと並んで近代建築の巨匠と呼ばれる。カーンの建築観を表現した「形態は機能を呼び起こす」という言葉は、ミースの「形態は機能にしたがう」やル・コルビュジエの「住宅は住むための機械」とともに近代建築の原理を示す有名な言葉である。また、カーンは「建築家にとって平面とは、光の下にある空間構造の法則を表す物。構造は光を与える者」という。正方形や円や三角形などの幾何学形態の平面に、それ以上シンプルにしようのない機能を配置し、建築のフォーム(かたち)を決定付けるというミースともル・コルビュジエとも異なった計画手法を確立したのである。

 カーンの設計する空間は、コンクリートや煉瓦(れんが)積みの分厚い壁でつくられており、古典建築との関連を指摘されることが多い。これは同時代のガラスや細い柱でつくられる、開放的で流動的なモダニズム建築のあり方と対照的である。壁によって囲まれ分節された空間は、カーンが「サーブド・スペースとサーバント・スペース」とよぶ計画手法により、機能と構造によって明確に区別される。階段やユーティリティなど機能的な部分は中空の空間に収められ、利用者が自由に移動したり活動する空間と明確に二分されるのである。

 1940年代を通じてカーンの仕事は、わずかな住宅作品を除いてほとんどは合衆国住宅局顧問としての住宅計画であった。個人の建築家としての仕事は50歳代になってからであり、遅咲きの建築家である。重要な建築作品は死去するまでの20年間に集中している。

 エール大学のアートギャラリー(1953、ニュー・ヘブン)において、コンクリートによる構造でミース・ファン・デル・ローエのユニバーサル・スペース(普遍的空間。機能のフレキシビリティを確保するために柱や壁を設けない)的な平面を実現し、世界的に注目された。以後、ペンシルベニア大学リチャーズ医学研究所(1961、フィラデルフィア)、ブリン・モア女子大学寄宿舎(1965、ペンシルベニア州)、ソーク研究所(1965、カリフォルニア州)、ファースト・ユニテリアン教会(1967、ニューヨーク)、エール大学のポール・メロンセンター(イギリス学術研究所。1969、ニュー・ヘブン)、エクセター図書館(1972、ニュー・ハンプシャー州)などでは、古代ローマ以来の古典的な建築がもっていた空間と機能が結びついた計画論を実現し、高い評価を得る。

 そのほかの作品では、バングラデシュ国会議場(1962、ダッカ)は大規模な建築であるが、煉瓦積みの壁とアーチによる開口部という工法を用い、光とマッス(量塊)だけの表現で古代ローマ建築への接近をみせ、ガラスやカーテンウォールによる表現に慣れ切った建築界に衝撃を与えた。その延長にはインド経営大学(1963、アーメダバード)がある。キンベル美術館(1972、フォート・ワース)では、長大なスパンのボールト状(アーチ状)のコンクリート屋根のユニットを繰り返している。シンプルな構造の表現であるが、天窓から流れ込む光と相まって内部空間は流動的である。

[鈴木 明]

『前田忠直編訳『ルイス・カーン建築論集』(1992・鹿島出版会)』『中村敏男編『ルイス・カーン――その全貌』(『a+u』1975年9月臨時増刊号・エー・アンド・ユー)』『工藤国雄著『ルイス・カーン論――建築の実存と方法』(1980・彰国社)』『アレクサンドラ・ティン著、香山壽夫・小林克弘訳『ビギニングス――ルイス・カーンの人と建築』(1986・丸善)』『デヴィッド・B・ブラウンリー、デヴィッド・G・デ・ロング編著、東京大学工学部建築学科香山研究室監訳『ルイス・カーン――建築の世界』(1992・デルファイ研究所)』


カーン(Chaka Khan)
かーん
Chaka Khan
(1953― )

アメリカにおける1970年代以降の代表的なボーカリスト。本名イベット・マリー・スティーブンズYvette Marie Stevens。イリノイ州グレート・レークに生まれ、シカゴの黒人街で育つ。

 11歳で最初のグループ、クリスタレッツを結成して、数多くのステージに立つ。そのなかには1960年代のソウル・ミュージック・スター、メリー・ウェルズMary Wells(1943―92)とのツアーや、ライフ、ベビーシッターズなどのグループへの参加もあったが、どれも成功とまではいかなかった。最初の転機はシカゴのダンス・バンド、ルーファスにリード・ボーカリストとして参加したことで、エネルギッシュで伸びやかな声で一躍全米で注目されるようになった。

 カーンがルーファスに加わった70年代初頭は、同じシカゴ出身のアース・ウインド&ファイアーに代表されるように、ソウル・ミュージックのミュージシャンがプロとしてバンドを結成し活動することが珍しくなくなってきた時期だった。新しい時流のなかでも女性が中央に立って歌い踊るバンドは、旧世代のティナ・ターナーがリードを取るアイク&ティナ・ターナーを除けば珍しく、また音楽も最新流行の「ファンク」を基本としていたことから、カーンは新しい時代を象徴する黒人女性シンガーとして大きな関心を集めたのである。

 さらにカーンは、ステージ名をアフリカ系のシャーマンから付けてもらったことでもわかるように、10代から黒人解放運動や汎アフリカニズムに目覚めた女性でもあった。力強い彼女の歌声には、黒人であり、女性であるという主張が込められており、そのような姿勢によってカーンは、60年代から70年代前半にかけて女性ソウル・シンガーの筆頭にあったアレサ・フランクリンの次の時代を担う人物として期待された。

 ルーファスとして「テル・ミー・サムシング・グッド」(1974)、「スウィート・シング」(1976)といったヒットを出した後、1978年独立。その後「アイム・エブリ・ウーマン」(1978)、「アイ・フィール・フォー・ユー」(1984)などの代表作を発表するが、ジャズ・アルバム『エコーズ・オブ・アン・エラ』(1982)でも高い評価を得た。

 一時期、麻薬に溺れ活動が危ぶまれたこともあったが、その後はミュージシャンとしての活動のかたわら、HIV感染者や家庭内暴力に苦しむ女性たちをサポートする慈善団体を主宰している。

[藤田 正]


カーン(Herman Kahn)
かーん
Herman Kahn
(1922―1983)

アメリカの軍事戦略研究家。1945年カリフォルニア大学卒業。ついでカリフォルニア工科大学で物理学を専攻し、1947年にランド研究所に入り核兵器の設計および核戦略の研究に没頭する。1961年には国際環境の調査を目標としてハドソン研究所を設立し所長となる。原子力委員会技術審議会やオーク・リッジ国立研究所、ゲイザー戦略戦争委員会にも参加した。著書『熱核戦争論』On Thermonuclear War(1960)、『エスカレーション論』On Escalation(1965)などでは、核抑止理論の有効性を展開した。未来学者としても知られ、とくに「21世紀は日本の世紀」との「予言」で話題を集めた。著書にはほかに『超大国日本の出現』The Emerging Japanese Superstate(1970)、『未来への確信』The Next 200 Years(1976)、『それでも日本は成長する』Japanese Challenge(1978)、『ブームが来る』The Coming Boom(1982)などがある。

[中島和子]

『小松達也・小沼敏訳『未来への確信』(1976・サイマル出版会)』


カーン(フランス)
かーん
Caen

フランス北西部、カルバドス県の県都。人口市域11万3987、大都市域19万9490(1999)、市域10万6260、大都市域19万8639(2015センサス)。パリの西北西223キロメートルに位置し、カーン平野の中心地で、オルヌ川に臨む。第二次世界大戦では、ノルマンディー上陸作戦により大損害を受けたが、復興が早く、しかも旧市街にある歴史的建造物は戦災から免れた。控訴院、大学(15世紀創立)、サン・ピエール教会(11~16世紀)、大修道院などがある。ノルマンディーの海岸(セーヌ湾)から15キロメートル内陸に入った所にあるが、海岸とはオルヌ運河によって結ばれているため港があり、貿易が盛んである。周辺地域で鉄鉱石を産し、その輸出が行われる。第二次世界大戦後、工業化の進展が著しく、製鉄、セメント、自動車、電気、電子工業がその中心であり、郊外に工場が立地している。

 エルビル・サン・クレールのニュータウンを含めて大都市域が拡大し、ノルマンディー地方のなかで、セーヌ川低地流域を除けば最大の都市域に成長した。フランス革命時にはジロンド派の拠点となった。

[高橋伸夫]


カーン(Jerome Kern)
かーん
Jerome Kern
(1885―1945)

アメリカの作曲家。ニューヨーク生まれ。ニューヨーク音楽カレッジに学び、1903年ドイツに留学。12年のミュージカル『赤いペチコート』で注目された。その後『ユタから来た女』(1914)、『サニー』(1925)、『ロバータ』(1933)、『5月にしては暑すぎる』(1939)などの名作を発表。とくに名歌『オール・マン・リバー』を含む『ショー・ボート』(1927)は、人種差別問題を扱った点からも、真のアメリカ・ミュージカルの最初の傑作と評価されている。

[青木 啓]

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改訂新版 世界大百科事典 「カーン」の意味・わかりやすい解説

カーン
Louis Isadore Kahn
生没年:1901-74

アメリカの建築家。エストニアのサーレマー島生れ。1905年に移民の子としてアメリカに渡り,15年に帰化。ペンシルベニア大学で建築を学び,後に同大学の教授ともなるが,その建築にはアメリカ的プラグマティズムを超えた表現がつねに見られる。同大学で受けたフランスのエコール・デ・ボザール(国立美術学校)流の造形教育と,46歳まで独立した設計活動を行わなかったという経歴が,彼の建築を日常的実用性を超えた設計理念に向かわせた。リチャーズ医学研究所(1964,ペンシルベニア州),ソーク生物学研究所(1965,カリフォルニア州)等の建物で,従来の機能主義的平面計画とは異なる空間の配置を試み,一躍注目を集める。彼は,自己の方法を〈仕えられる空間served space〉と〈仕える空間servant space〉の構成と表現した。コンクリートと煉瓦や大理石を併用して,そこに現代建築の表現を与えたこと,それに〈煉瓦はアーチとなることを望んでいる〉として古代ローマ的なアーチやボールトの形態を用いたことは,現代建築家に大きな影響を与えた。晩年はキンベル美術館(1972,テキサス州)のほか,バングラデシュのダッカの政庁,インドのアフマダーバードの経営大学等を手がけるが,ニューヨークで心臓発作により急逝。
執筆者:


カーン
Richard Ferdinand Kahn
生没年:1905-89

イギリスの経済学者。ロンドンに生まれ,ケンブリッジ大学に学び,キングズ・カレッジのフェローとなる。商務省などいくつかの官庁に勤めた(1939-46)のち,ケンブリッジ大学教授(1951-72)。1965年男爵。ケンブリッジ大学在学中,ケインズに学んだ。1930年代の初め,ケインズ・サーカスと呼ばれた若い経済学者の集団を指導して,新しい経済学の形成と〈ケインズ革命〉の実質的な推進者となった。とくに31年の論文《国内投資と失業との関係》で示された彼の乗数理論は,第2次大戦後,世界の多くの資本主義諸国で,経済政策策定の過程において中心的な役割を果たし,ケインズ主義財政を象徴するものとなった。
執筆者:


カーン
Jerome Kern
生没年:1885-1945

アメリカのポピュラー・ソング作曲家。幼いうちから母親にピアノを学び,ドイツ,イギリスに留学。1903年帰国,のちミュージカルなどの作曲を始めた。12年初演の《赤いペチコート》でブロードウェーに本格的なデビュー。代表作は27年初演の《ショー・ボートShow Boat》(作詞はハマースタイン2世)で,このミュージカルの中の《オール・マン・リバー》は,33年初演のミュージカル《ロバータ》の中の《煙が目にしみる》とともに名曲とされる。34年にハリウッドに移住し,映画音楽《今宵のきみは》で36年,《思い出のパリ》で41年のアカデミー主題歌賞を得た。ヨーロッパのオペレッタ風の作風を脱皮したアメリカ風の平易で親しみやすいメロディや曲想は,ガーシュウィンやR.ロジャーズにも影響を与えた。
執筆者:


カーン
Gustave Kahn
生没年:1859-1936

フランスの詩人。1886年J.モレアスらとともに《ラ・ボーグ》誌を創刊,久しく忘却の中に置かれていたランボーの諸作品を掲載して象徴主義運動の進展に一石を投じた。87年詩集《遊牧宮殿》の自序で自由詩の理論を提唱し,伝統的韻律学からの詩歌解放という象徴派の志向性の一端をF.ビエレ・グリファン,スチュアート・メリルとともに執拗に担い続けた。刊行した詩集は最後の《絵本》(1897)まで5冊を数える。のち小説・評論にも手を染め,F.ブーシェ,J.H.フラゴナールらの伝記を公にするかたわら,《サンボリストとデカダン》(1902)その他,ときに正確を欠くが象徴主義運動の生々しい記録を文学史に提供している。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カーン」の意味・わかりやすい解説

カーン
Kahn, Louis I.

[生]1901.2.20. ロシア帝国,エーゼル島
[没]1974.3.17. アメリカ合衆国,ニューヨーク,ニューヨーク
アメリカ合衆国の建築家。フルネーム Louis Isadore Kahn。1905年両親とともにアメリカに移り,ペンシルバニア州のフィラデルフィアに居を構えた。ペンシルバニア大学で古典的伝統を重視するフランスのボザール流教育を受け,1924年卒業。その後ヨーロッパに遊学し,さまざまなモニュメントをスケッチ・研究した。1930~40年代には個人住宅や労働者向け住宅を設計した。1947年エール大学教授に就任,1950年にローマのアメリカン・アカデミーに特別研究員として赴き,1957年ペンシルバニア大学教授に就任。エール大学アートギャラリー(1952~54),ペンシルバニア大学リチャーズ医学研究所(1960~65)の設計により広く世界の注目を浴びた。「建築の始まりを求める」建築的思想を展開し,その実践的作品としてバングラデシュ首都計画(1963),ソーク生物学研究所(1959~65),キンベル美術館(1972),エクセター大学図書館(1972)などがある。1991年10月から 1994年2月にかけて,大回顧展が世界を巡回した。(→現代建築

カーン
Khan, Ali Akbar

[生]1922.4.14. イギリス領インド,シブプール
[没]2009.6.18. アメリカ合衆国,カリフォルニア,サンアンセルモ
インドのサロッド演奏家,作曲家。ラビ・シャンカールの義兄。シャンカールの恩師であり 20世紀最大の北インドの音楽家ともいわれているアラウッディン・カーンの子。1955年バイオリニストのユーディ・メニューインに招かれてニューヨークに行ったのち,西ヨーロッパに活躍の場を広げた。1956年インドのカルカッタ(コルカタ),1967年カリフォルニア州のサンラファエル,1985年スイスのバーゼルにアリ・アクバル音楽学校を創設した。1991年マッカーサー財団からマッカーサー・フェロー賞を授与された。

カーン
Kahn, Richard Ferdinand

[生]1905.8.10.
[没]1989.6.6.
イギリスの経済学者。ケンブリッジ大学に学び,第2次世界大戦中は貿易庁に勤務。 1951~72年ケンブリッジ大学教授。晩年はキングズ・カレッジのフェロー。 65年男爵。 J.M.ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』の構想に大きな影響を与えた学者として有名で,不完全競争下での産業均衡のための条件を明らかにし,また論文『国内投資と失業との関係』 The Relation of Home Investment to Unemployment (1931) において展開した乗数概念は,ケインズの乗数理論の基礎とされている。主要論文は,"Selected Essays on Employment and Growth" (73) に所収。

カーン
Kahn, Albert

[生]1869.3.21. ラインラントファルツ,ラウネン
[没]1942.12.8. デトロイト
ドイツ生れのアメリカの近代建築家。 1880年ドイツからアメリカに移住し,デトロイト建築事務所に勤め,96年にネットルトンおよびトロウブリッジに事務所を開設。当時の新構造といわれた鉄筋コンクリート建築を研究して発展期にあったアメリカ産業のマス・プロ工場施設に応用し,工場建築の第一人者となった。ボイヤー機械工場 (1901) ,パッカード自動車工場 (03) で名声を得,フォード自動車工場 (12) で著名な世界最初のベルト・コンベヤ式組立てラインを設計,1930~40年代のフォード工場施設のほとんどを担当した。そのほか,デトロイト・ニュース新聞社 (15) ,ミシガン大学の付属病院 (20) ,そのほかの大学施設などのすぐれた作品があるが,住宅建築ではイギリス風あるいはイタリア風の伝統色の濃いデザインを好んだ。

カーン
Kahn, Herman

[生]1922.2.15. ニュージャージー,ベイオウン
[没]1983.7.7. ニューヨーク,チッパクア
アメリカの戦略理論家,未来学者。カリフォルニア工科大学卒業。物理,工学,数学などを専攻。 1947~61年ランド・コーポレーション研究員。 61年ハドソン研究所を設立,主宰。国防総省や原子力委員会などの委託で戦略研究や未来学研究に従事。著書に『熱核戦争』 On Thermonuclear War (1960) ,『考えられないことを考える』 Thinking About the Unthinkable (62) ,『紀元 2000年』 The Year 2000 (67,A.ウィーナーと共著) ,『大転換期』 World Economic Development (79) などがあり,「21世紀は日本の世紀」の発言で有名。数回来日。

カーン
Kahn, Gustave

[生]1859.12.21. メス
[没]1936.9.5. パリ
フランスの詩人,小説家。自由詩の提唱者として知られる。 1886年象徴派の雑誌『サンボリスト』 Le Symboliste,『ボーグ』 La Vogueを創刊。詩集『流浪の宮殿』 Palais nomades (1887) の第2版 (97) の序文で自由詩の理論を展開,詩壇に大きな影響を与えた。『恋人の歌』 Chansons d'amant (91) ,『光のリンボ』 Limbes de lumière (95) などの詩集のほか,小説『センチメンタルな姦通者』L'Adultère sentimental (1902) ,評論『象徴派とデカダン』 Symbolistes et Décadents (02) など。

カーン
Kern, Jerome David

[生]1885.1.27. ニューヨーク
[没]1945.11.11. ニューヨーク
アメリカのミュージカル作曲家。ニューヨーク音楽院を出てドイツに留学。『ショー・ボート』 Show Boat (1927) は不朽の名作といわれ,そのほか多数のミュージカル・プレイと映画音楽をつくる。歌曲では『煙が目にしみる』『オール・マン・リバー』などが有名。

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百科事典マイペディア 「カーン」の意味・わかりやすい解説

カーン

米国の建築家。エストニア生れ。1905年移民として米国に渡り,1915年帰化。ペンシルベニア大学卒,のちに同校教授。イェール・アート・ギャラリー(ニュー・ヘイブン,1953年),ペンシルベニア大学リチャーズ研究所(フィラデルフィア,1961年)によって米建築界の重要な存在となる。同時代の機能主義建築とは一線を画した,素材の限定と純粋幾何学形の反復による精神性の高いデザインによって,多大な影響を与えた。他の代表作にキンベル美術館(フォート・ワース,1972年),バングラデシュ国会議場(1974年)などがある。
→関連項目ピアノ

カーン

米国のポピュラー・ソング作曲家。ニューヨーク生れ。ニューヨーク音楽院で学んだのち,ドイツ,英国に留学。1911年《赤いペチコート》を第1作にミュージカルを手がけ,代表作は《ショー・ボート》(1929年)など。それらの中には《煙が目にしみる》《オール・マン・リバー》などのヒットメロディーがちりばめられている。
→関連項目ミュージカル

カーン

ドイツ生れの米国の建築家。鉄筋コンクリートを研究して,米国,ソ連,ヨーロッパ各地で活躍した。自動車王フォードに認められ,自動車工場の建築が多い。代表作にデトロイトの自動車工場やオハイオ鋳鉄工場など。

カーン(汗)【カーン】

カガン

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367日誕生日大事典 「カーン」の解説

カーン

生年月日:1922年2月15日
アメリカの物理学者,数学者,戦略研究家
1983年没

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世界大百科事典(旧版)内のカーンの言及

【エルベ[川]】より

…19世紀には平均積載量275tにまで大型化し,ときには数百tのものも現れた。他方,18世紀半ばごろから大型の船に対抗して,たいていの場合マストをもたない,底の浅いカーンKahnとよばれる小型の船が増加した。 風のない場合の遡航は,岸の引舟路から引綱によって行われた。…

【ハーン】より

…遊牧民の族長の称号。ハン,カーン(カン)とも呼ばれる。もともとはアルタイ系のトルコ,モンゴル系の北方遊牧民がモンゴル高原において使っていた称号で,カガンqaghan(漢字の転写で〈可汗〉)ないしは,それがつづまったカンqan(〈汗〉)がもとの形である。…

【近代建築】より

国際様式建築
[ポスト・モダニズム]
 国際様式は世界中の高層事務所建築の主流となったが,その画一的かつ非個性的な空間を嫌う声が60年代から現れてくる。すでにル・コルビュジエのロンシャンに建つ教会(1954),デンマークのウッツォンJørn Utzon(1918‐ )によるシドニー・オペラ・ハウス(1956設計),丹下健三設計の国立屋内総合競技場(1964)などの作品が,機能の充足のみからは説明のできない造形を示していたし,70年代に入るとフランスのエコール・デ・ボザール(国立美術学校)における設計の伝統であった古典主義的造形を標榜するアメリカのL.I.カーン,またAT & Tビル(1978設計)によって高層ビルに象徴的表現を復活させたP.C.ジョンソンらの影響力が強まった。構造技術の表現,工業生産力の建築への応用という近代建築の一貫したテーマは,J.スターリング設計のレスター大学工学部(1959),ピアノ=ロジャーズ設計のパリのポンピドゥー・センター(1977)などの表現を生んだが,プレハブ建築や工業化された建築部材はすでに先進国の日常生活そのものとなっていた。…

【乗数理論】より

…これは限界消費性向が高いと,追加的な所得のうちの大きな割合が消費され,大きな消費支出は,大きな量の生産と所得を誘発するからである。
[乗数という言葉の使われ方]
 ケインズに先だって1931年に,ケンブリッジ大学のR.F.カーンが雇用乗数理論としてこのアイデアの基本部分を展開している。カーンの関心は,消費性向は一定として,公共投資の量を変化させたとき,雇用量がどのような定量的な変化を示すかというところにあった。…

【オペレッタ】より

…イギリスでも1875年ころからA.S.サリバンが《ミカド》(1885)その他の風刺的作品で評判をとり,彼の作品はニューヨークで上演されアメリカにオペレッタ旋風を送る。V.ハーバートはJ.シュトラウスのオペレッタにならった作品を書いたが,J.カーンの《ショー・ボート》あたりからミュージカルへと移っていった。オペラミュージカル【井形 ちづる】。…

【ミュージカル】より

…その後1920年代までは,V.ハーバート,フリムルRudolph Friml,ロンバーグSigmund Rombergなど,ヨーロッパ出身の作曲家によるオペレッタ風の作品と,名目だけの筋で歌や踊りをつないだたわいのない恋愛劇や笑劇が多かった。しかし,J.カーンの曲,O.ハマースタインの詞と台本による《ショー・ボート》(1927。原作はE.ファーバーの小説)によって,現実感のあるミュージカルが誕生した。…

※「カーン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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