アメリカの建築家。エストニア生まれ。1905年、家族とともにアメリカに移住する。24年にエコール・デ・ボザール(フランス国立美術学校)の建築教育課程に準じたペンシルベニア大学建築学科を卒業し、以後1930年代までフィラデルフィアの建築設計事務所でドラフトマン(製図技師)として働く。25年にはアメリカ合衆国建国150年祭国際博覧会本館(フィラデルフィア)の設計のチーフデザイナーを務める。31~34年、金融恐慌による不況の下、カーンは失業中の30人ほどの建築家やエンジニアを組織し、フィラデルフィアの住宅環境を調査研究し、スラム・クリアランスslum-clearance(不良住宅の撤去による都市の浄化)や都市計画および新工法の研究を行う。37年には合衆国住宅局(USHA)の顧問建築家となり、多くの公共住宅団地の建設に携わる。35年にカーンはパートナーとともに設計事務所を設立するが、その後解散し48年から74年の死去に至るまで1人で設計活動を行う。
1947年エール大学建築学科の非常勤講師着任がカーンにとって転機となり、以後、大学のキャンパス計画や公共建築などを手がける。48年より同教授、57年以後はペンシルベニア大学建築学科教授、71年に同名誉教授となる。大学で教職に就きながら設計活動を行う「プロフェッサー・アーキテクト」として、寡作ながらも独自の設計手法と設計哲学を確立した。
カーンは近代建築の造形と理論を拡張し、ミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビュジエと並んで近代建築の巨匠と呼ばれる。カーンの建築観を表現した「形態は機能を呼び起こす」という言葉は、ミースの「形態は機能にしたがう」やル・コルビュジエの「住宅は住むための機械」とともに近代建築の原理を示す有名な言葉である。また、カーンは「建築家にとって平面とは、光の下にある空間構造の法則を表す物。構造は光を与える者」という。正方形や円や三角形などの幾何学形態の平面に、それ以上シンプルにしようのない機能を配置し、建築のフォーム(かたち)を決定付けるというミースともル・コルビュジエとも異なった計画手法を確立したのである。
カーンの設計する空間は、コンクリートや煉瓦(れんが)積みの分厚い壁でつくられており、古典建築との関連を指摘されることが多い。これは同時代のガラスや細い柱でつくられる、開放的で流動的なモダニズム建築のあり方と対照的である。壁によって囲まれ分節された空間は、カーンが「サーブド・スペースとサーバント・スペース」とよぶ計画手法により、機能と構造によって明確に区別される。階段やユーティリティなど機能的な部分は中空の空間に収められ、利用者が自由に移動したり活動する空間と明確に二分されるのである。
1940年代を通じてカーンの仕事は、わずかな住宅作品を除いてほとんどは合衆国住宅局顧問としての住宅計画であった。個人の建築家としての仕事は50歳代になってからであり、遅咲きの建築家である。重要な建築作品は死去するまでの20年間に集中している。
エール大学のアートギャラリー(1953、ニュー・ヘブン)において、コンクリートによる構造でミース・ファン・デル・ローエのユニバーサル・スペース(普遍的空間。機能のフレキシビリティを確保するために柱や壁を設けない)的な平面を実現し、世界的に注目された。以後、ペンシルベニア大学リチャーズ医学研究所(1961、フィラデルフィア)、ブリン・モア女子大学寄宿舎(1965、ペンシルベニア州)、ソーク研究所(1965、カリフォルニア州)、ファースト・ユニテリアン教会(1967、ニューヨーク)、エール大学のポール・メロンセンター(イギリス学術研究所。1969、ニュー・ヘブン)、エクセター図書館(1972、ニュー・ハンプシャー州)などでは、古代ローマ以来の古典的な建築がもっていた空間と機能が結びついた計画論を実現し、高い評価を得る。
そのほかの作品では、バングラデシュ国会議場(1962、ダッカ)は大規模な建築であるが、煉瓦積みの壁とアーチによる開口部という工法を用い、光とマッス(量塊)だけの表現で古代ローマ建築への接近をみせ、ガラスやカーテンウォールによる表現に慣れ切った建築界に衝撃を与えた。その延長にはインド経営大学(1963、アーメダバード)がある。キンベル美術館(1972、フォート・ワース)では、長大なスパンのボールト状(アーチ状)のコンクリート屋根のユニットを繰り返している。シンプルな構造の表現であるが、天窓から流れ込む光と相まって内部空間は流動的である。
[鈴木 明]
『前田忠直編訳『ルイス・カーン建築論集』(1992・鹿島出版会)』▽『中村敏男編『ルイス・カーン――その全貌』(『a+u』1975年9月臨時増刊号・エー・アンド・ユー)』▽『工藤国雄著『ルイス・カーン論――建築の実存と方法』(1980・彰国社)』▽『アレクサンドラ・ティン著、香山壽夫・小林克弘訳『ビギニングス――ルイス・カーンの人と建築』(1986・丸善)』▽『デヴィッド・B・ブラウンリー、デヴィッド・G・デ・ロング編著、東京大学工学部建築学科香山研究室監訳『ルイス・カーン――建築の世界』(1992・デルファイ研究所)』
アメリカにおける1970年代以降の代表的なボーカリスト。本名イベット・マリー・スティーブンズYvette Marie Stevens。イリノイ州グレート・レークに生まれ、シカゴの黒人街で育つ。
11歳で最初のグループ、クリスタレッツを結成して、数多くのステージに立つ。そのなかには1960年代のソウル・ミュージック・スター、メリー・ウェルズMary Wells(1943―92)とのツアーや、ライフ、ベビーシッターズなどのグループへの参加もあったが、どれも成功とまではいかなかった。最初の転機はシカゴのダンス・バンド、ルーファスにリード・ボーカリストとして参加したことで、エネルギッシュで伸びやかな声で一躍全米で注目されるようになった。
カーンがルーファスに加わった70年代初頭は、同じシカゴ出身のアース・ウインド&ファイアーに代表されるように、ソウル・ミュージックのミュージシャンがプロとしてバンドを結成し活動することが珍しくなくなってきた時期だった。新しい時流のなかでも女性が中央に立って歌い踊るバンドは、旧世代のティナ・ターナーがリードを取るアイク&ティナ・ターナーを除けば珍しく、また音楽も最新流行の「ファンク」を基本としていたことから、カーンは新しい時代を象徴する黒人女性シンガーとして大きな関心を集めたのである。
さらにカーンは、ステージ名をアフリカ系のシャーマンから付けてもらったことでもわかるように、10代から黒人解放運動や汎アフリカニズムに目覚めた女性でもあった。力強い彼女の歌声には、黒人であり、女性であるという主張が込められており、そのような姿勢によってカーンは、60年代から70年代前半にかけて女性ソウル・シンガーの筆頭にあったアレサ・フランクリンの次の時代を担う人物として期待された。
ルーファスとして「テル・ミー・サムシング・グッド」(1974)、「スウィート・シング」(1976)といったヒットを出した後、1978年独立。その後「アイム・エブリ・ウーマン」(1978)、「アイ・フィール・フォー・ユー」(1984)などの代表作を発表するが、ジャズ・アルバム『エコーズ・オブ・アン・エラ』(1982)でも高い評価を得た。
一時期、麻薬に溺れ活動が危ぶまれたこともあったが、その後はミュージシャンとしての活動のかたわら、HIV感染者や家庭内暴力に苦しむ女性たちをサポートする慈善団体を主宰している。
[藤田 正]
アメリカの軍事戦略研究家。1945年カリフォルニア大学卒業。ついでカリフォルニア工科大学で物理学を専攻し、1947年にランド研究所に入り核兵器の設計および核戦略の研究に没頭する。1961年には国際環境の調査を目標としてハドソン研究所を設立し所長となる。原子力委員会技術審議会やオーク・リッジ国立研究所、ゲイザー戦略戦争委員会にも参加した。著書『熱核戦争論』On Thermonuclear War(1960)、『エスカレーション論』On Escalation(1965)などでは、核抑止理論の有効性を展開した。未来学者としても知られ、とくに「21世紀は日本の世紀」との「予言」で話題を集めた。著書にはほかに『超大国日本の出現』The Emerging Japanese Superstate(1970)、『未来への確信』The Next 200 Years(1976)、『それでも日本は成長する』Japanese Challenge(1978)、『ブームが来る』The Coming Boom(1982)などがある。
[中島和子]
『小松達也・小沼敏訳『未来への確信』(1976・サイマル出版会)』
フランス北西部、カルバドス県の県都。人口市域11万3987、大都市域19万9490(1999)、市域10万6260、大都市域19万8639(2015センサス)。パリの西北西223キロメートルに位置し、カーン平野の中心地で、オルヌ川に臨む。第二次世界大戦では、ノルマンディー上陸作戦により大損害を受けたが、復興が早く、しかも旧市街にある歴史的建造物は戦災から免れた。控訴院、大学(15世紀創立)、サン・ピエール教会(11~16世紀)、大修道院などがある。ノルマンディーの海岸(セーヌ湾)から15キロメートル内陸に入った所にあるが、海岸とはオルヌ運河によって結ばれているため港があり、貿易が盛んである。周辺地域で鉄鉱石を産し、その輸出が行われる。第二次世界大戦後、工業化の進展が著しく、製鉄、セメント、自動車、電気、電子工業がその中心であり、郊外に工場が立地している。
エルビル・サン・クレールのニュータウンを含めて大都市域が拡大し、ノルマンディー地方のなかで、セーヌ川低地流域を除けば最大の都市域に成長した。フランス革命時にはジロンド派の拠点となった。
[高橋伸夫]
アメリカの建築家。エストニアのサーレマー島生れ。1905年に移民の子としてアメリカに渡り,15年に帰化。ペンシルベニア大学で建築を学び,後に同大学の教授ともなるが,その建築にはアメリカ的プラグマティズムを超えた表現がつねに見られる。同大学で受けたフランスのエコール・デ・ボザール(国立美術学校)流の造形教育と,46歳まで独立した設計活動を行わなかったという経歴が,彼の建築を日常的実用性を超えた設計理念に向かわせた。リチャーズ医学研究所(1964,ペンシルベニア州),ソーク生物学研究所(1965,カリフォルニア州)等の建物で,従来の機能主義的平面計画とは異なる空間の配置を試み,一躍注目を集める。彼は,自己の方法を〈仕えられる空間served space〉と〈仕える空間servant space〉の構成と表現した。コンクリートと煉瓦や大理石を併用して,そこに現代建築の表現を与えたこと,それに〈煉瓦はアーチとなることを望んでいる〉として古代ローマ的なアーチやボールトの形態を用いたことは,現代建築家に大きな影響を与えた。晩年はキンベル美術館(1972,テキサス州)のほか,バングラデシュのダッカの政庁,インドのアフマダーバードの経営大学等を手がけるが,ニューヨークで心臓発作により急逝。
執筆者:鈴木 博之
イギリスの経済学者。ロンドンに生まれ,ケンブリッジ大学に学び,キングズ・カレッジのフェローとなる。商務省などいくつかの官庁に勤めた(1939-46)のち,ケンブリッジ大学教授(1951-72)。1965年男爵。ケンブリッジ大学在学中,ケインズに学んだ。1930年代の初め,ケインズ・サーカスと呼ばれた若い経済学者の集団を指導して,新しい経済学の形成と〈ケインズ革命〉の実質的な推進者となった。とくに31年の論文《国内投資と失業との関係》で示された彼の乗数理論は,第2次大戦後,世界の多くの資本主義諸国で,経済政策策定の過程において中心的な役割を果たし,ケインズ主義財政を象徴するものとなった。
執筆者:宇沢 弘文
アメリカのポピュラー・ソング作曲家。幼いうちから母親にピアノを学び,ドイツ,イギリスに留学。1903年帰国,のちミュージカルなどの作曲を始めた。12年初演の《赤いペチコート》でブロードウェーに本格的なデビュー。代表作は27年初演の《ショー・ボートShow Boat》(作詞はハマースタイン2世)で,このミュージカルの中の《オール・マン・リバー》は,33年初演のミュージカル《ロバータ》の中の《煙が目にしみる》とともに名曲とされる。34年にハリウッドに移住し,映画音楽《今宵のきみは》で36年,《思い出のパリ》で41年のアカデミー主題歌賞を得た。ヨーロッパのオペレッタ風の作風を脱皮したアメリカ風の平易で親しみやすいメロディや曲想は,ガーシュウィンやR.ロジャーズにも影響を与えた。
執筆者:中村 とうよう
フランスの詩人。1886年J.モレアスらとともに《ラ・ボーグ》誌を創刊,久しく忘却の中に置かれていたランボーの諸作品を掲載して象徴主義運動の進展に一石を投じた。87年詩集《遊牧宮殿》の自序で自由詩の理論を提唱し,伝統的韻律学からの詩歌解放という象徴派の志向性の一端をF.ビエレ・グリファン,スチュアート・メリルとともに執拗に担い続けた。刊行した詩集は最後の《絵本》(1897)まで5冊を数える。のち小説・評論にも手を染め,F.ブーシェ,J.H.フラゴナールらの伝記を公にするかたわら,《サンボリストとデカダン》(1902)その他,ときに正確を欠くが象徴主義運動の生々しい記録を文学史に提供している。
執筆者:松室 三郎
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…19世紀には平均積載量275tにまで大型化し,ときには数百tのものも現れた。他方,18世紀半ばごろから大型の船に対抗して,たいていの場合マストをもたない,底の浅いカーンKahnとよばれる小型の船が増加した。 風のない場合の遡航は,岸の引舟路から引綱によって行われた。…
…遊牧民の族長の称号。ハン,カーン(カン)とも呼ばれる。もともとはアルタイ系のトルコ,モンゴル系の北方遊牧民がモンゴル高原において使っていた称号で,カガンqaghan(漢字の転写で〈可汗〉)ないしは,それがつづまったカンqan(〈汗〉)がもとの形である。…
…国際様式建築
[ポスト・モダニズム]
国際様式は世界中の高層事務所建築の主流となったが,その画一的かつ非個性的な空間を嫌う声が60年代から現れてくる。すでにル・コルビュジエのロンシャンに建つ教会(1954),デンマークのウッツォンJørn Utzon(1918‐ )によるシドニー・オペラ・ハウス(1956設計),丹下健三設計の国立屋内総合競技場(1964)などの作品が,機能の充足のみからは説明のできない造形を示していたし,70年代に入るとフランスのエコール・デ・ボザール(国立美術学校)における設計の伝統であった古典主義的造形を標榜するアメリカのL.I.カーン,またAT & Tビル(1978設計)によって高層ビルに象徴的表現を復活させたP.C.ジョンソンらの影響力が強まった。構造技術の表現,工業生産力の建築への応用という近代建築の一貫したテーマは,J.スターリング設計のレスター大学工学部(1959),ピアノ=ロジャーズ設計のパリのポンピドゥー・センター(1977)などの表現を生んだが,プレハブ建築や工業化された建築部材はすでに先進国の日常生活そのものとなっていた。…
…これは限界消費性向が高いと,追加的な所得のうちの大きな割合が消費され,大きな消費支出は,大きな量の生産と所得を誘発するからである。
[乗数という言葉の使われ方]
ケインズに先だって1931年に,ケンブリッジ大学のR.F.カーンが雇用乗数理論としてこのアイデアの基本部分を展開している。カーンの関心は,消費性向は一定として,公共投資の量を変化させたとき,雇用量がどのような定量的な変化を示すかというところにあった。…
…イギリスでも1875年ころからA.S.サリバンが《ミカド》(1885)その他の風刺的作品で評判をとり,彼の作品はニューヨークで上演されアメリカにオペレッタ旋風を送る。V.ハーバートはJ.シュトラウスのオペレッタにならった作品を書いたが,J.カーンの《ショー・ボート》あたりからミュージカルへと移っていった。オペラミュージカル【井形 ちづる】。…
…その後1920年代までは,V.ハーバート,フリムルRudolph Friml,ロンバーグSigmund Rombergなど,ヨーロッパ出身の作曲家によるオペレッタ風の作品と,名目だけの筋で歌や踊りをつないだたわいのない恋愛劇や笑劇が多かった。しかし,J.カーンの曲,O.ハマースタインの詞と台本による《ショー・ボート》(1927。原作はE.ファーバーの小説)によって,現実感のあるミュージカルが誕生した。…
※「カーン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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