日本大百科全書(ニッポニカ) 「サルゴン」の意味・わかりやすい解説
サルゴン(1世)
さるごん
Sharru-kin Ⅰ
生没年不詳。古代メソポタミア最初のセム系アッカド人の統一王国とその王朝の創始者(在位前2350ころ~前2295ころ)。アッカド語ではシャッルキン。「アッカドのサルゴン」とよばれる。この名は「王は正統である」を意味するが、その父の名も年少時の名もわからず、多くの伝承がその出生、経歴、外征をめぐってつくられた。母は高貴な尼僧で、彼の誕生後、キノコ籠(かご)の中に入れてユーフラテス川に捨てられ、水汲(く)み人に拾われて果樹栽培者となった話や、その公的経歴がキシュ王ウル・ザババの酒杯官に始まるとする伝承がよく知られている。一方、現存の少数の王碑文およびその多数の古バビロニア時代の写しによって知られる治績の概略は、キシュの北方に新都市アカデ(その遺跡は未確定)を造営して王となり、シュメール諸都市の軍隊を34回にわたって破り、その盟主であるウルクのルガルザゲシ王を捕虜とし、シュメールとアッカド全土を支配下に置くことに成功、シュメール諸都市の総督にはそれぞれアッカド人を任命し、また娘をウルとウルクの最高女司祭の地位につけ、王朝原理に基づく統一王国をつくろうとした。王はまた遠征によって、西方ではユーフラテス川中流のマリ、北シリアのエブラ、レバノンの「杉の森」、小アジアのタウルス(トロス)山脈の銀を手中に収め、東方ではエラムを従え、「肥沃(ひよく)な三日月地帯」周縁の交通、貿易の要衝を確保したので、アッカドは、東はインダス川、南はバーレーン島、オマーンに及ぶ広範な東西貿易の一大中心となり、富強を極めた。こうして王はシュメール・アッカドの統一を基盤とする、メソポタミア最初の軍事的、商業的帝国を創始した。それが古代メソポタミアの人々に与えた衝撃の大きさは、後代に至るまでたびたびつくられたサルゴン伝説によく示されている。
[山本 茂]
サルゴン(2世)
さるごん
Sharru-kin Ⅱ
(?―前705)
シャルマネセル5世(在位前727~前722)から王位を奪取し、新アッシリア帝国最盛期を築き上げた人物(在位前721~前705)。内政的には大寺院への非課税措置や新首都ドゥル・シャッルキン(サルゴンの城)の建設、外に向かっては種々の征服政策を遂行。その占領征服政策は、西はシリア、パレスチナ(サマリアを首都とする北イスラエル王国は、紀元前721年にシャルマネセル5世もしくはサルゴン2世のこの政策の犠牲になった)、さらには東地中海(キプロスなど)に、北はウラルトゥ、南はバビロニアに及んだ。しかし前705年、東方イラン高原に進軍中、山地民族に攻撃され、おそらくそこで憤死した。彼の多くの戦勝碑が残されているにもかかわらず、そのひととなりについて多くのことは知られていない。後継者は息子センナケリブ。
[月本昭男]